総合雑誌を買ってみた

読書リハビリ、はじめました

テレビを見ることがなくなり、インターネットとBBCの英語ニュースアプリに情報を頼るようになり、ずいぶんの時間が経った。
かつては新聞を購読していた時期もあったが(産経→朝日というレアな経路をたどった)、社会人になり家を出る生活がメインになると、朝時間の都合上読み続けることもままならず、それも絶った。不定期にやってくる勧誘が嫌いだったことも、その理由の一つだ。

で、今。
フルリモートワークになり、通勤時間が消滅した一方、読書量も同時に減少してしまった。ITエンジニアとして会社で購入した技術書を読むことを課していたのだが、会社に寄る機会も、本を読む時間も減ったためだ。同じく激減した運動量含め、ずっと気になっていた課題だ。
大学生時代に経験した、古書店で買った新書を二時間で読み切るような乱読は、きっともうできないだろう。しかし、かつてあれだけの生活を送ったのだから、基礎体力さえ取り戻せばある程度のところまで立ち直れる、という確信もあった。
新聞をまた取るのもいいが、物理的に山積するのは困るし、新聞拡販員のお世話になるのはもっと嫌だった。かといっていきなり電子版アプリも、なんだかなあ、と思った。

そんな課題感を抱えながら書店に入ると、ちょうどいいものがあった。
月刊の総合雑誌だ。
たとえば『文藝春秋』『中央公論』。名前だけは新書で馴染みがあったが、読み込むのもオッサンくさく、「雑誌」という響きがなおのこと高齢者感を出している。だが、自分の要求事項にはピッタリ一致していた。
価格は新書に近く、ひとつひとつの記事は短い。こまぎれの時間でも一記事を通しで読めて、集中力が切れてしばらく放置しても、情報量が欠けずにコンティニューできる。意識的に読書を取り戻すにはちょうどいい条件がそろっていた。
月刊誌、というのもよかった。ここ最近オタクがお世話になり始めた『週刊文春』をはじめとする週刊誌も候補に入れてはいたが、溜まる速度・読みかけるリスク・情報量・メディア的な方向性……の観点から除外した。

私はずっと、政治・社会・文化……と、ひとつにしぼりきれない興味を抱えていた。大学もそれを前提に選択したし(結果として、教養学科的な位置になった)、古代ローマとラテン語にのめり込んだ大学時代も、他ジャンルの新書は神保町で山ほど買っていた。
……もちろんすべてを知ることは能わず、多くの積読書を生産してしまったのだが、欲だけは欠かしたことがなかった。
社会人になってからは意識的にIT書籍を読み続け、資格取得やスキルアップに励むことにしたのだが、読書はすべてのルーツであり、世界を知るための手段であり、それ自体が趣味でもある。
2022年にもなって書籍で雑誌を買うことで、そのルーツを少し取り戻したような気持ちになった。

しばらくは傾向を確かめようと複数誌購入している。『文藝春秋』は定番だが、保守寄りの『中央公論』、革新系の『世界』も買い続けることにした。これだけ買うと、一冊1000円でお安いはずが単行本並みの3000円になる。とはいえ新聞の定期購読価格は夕刊込みで4000円ちょっとなのだから、まだ安い。
信頼できる著者群による濃密な記事が、左右中道あらゆる視点で、新聞より安く読めるなら、それは理想の読書といえるのではなかろうか。

約三ヶ月近くこの習慣を続けてきて、だいたい三紙の特徴は見えてきた。

たっぷり読ませる『文藝春秋』

文藝春秋は広く深い。カラーページの記事広告に始まり、四段組みの随筆、二段組み・三段組みの記事、ときどき広告……と、雑誌の王道を往く編成。芥川賞発表月は受賞作品が全文掲載される(読まないが)。今年はちょうど文藝春秋刊行100周年記念のためか、戦前の記事を解説の上再掲載したり、創始者・菊池寛特集があったり、継続的に太平洋戦争特集があったりと、飽きさせない(昔から読んでいる人は、逆に飽きているかもしれないが……)。文字通りの「総合誌」という趣で、芸能・スポーツ・映画ネタもあって全ジャンル網羅。ページ数も500-600ページで大満足。高齢者向けの無粋な広告がチラホラ入るが、価格も考えると最小限のノイズ。お酒を見ながらゆったりと読める、メリハリのきいた情報量がちょうどいい。

濃密な『中央公論』

読売新聞系ということもあり最初は色眼鏡で見ていたが、これが意外と中道寄りで驚いた。10月号の左派特集・統一教会記事は特によく、決してバカにできない。ただ、安倍晋三暗殺直後に発行された9月号に「統一教会」の文字がひとつもなかったのは、さすがに作為的なものを感じざるをえない。普段は自由だけど、政治案件化すると規制されちゃう系なのかな。
ページ数は250ページ程度。段組もページ割りも安定していて、ハマると一日で読めてしまう。

突きつける『世界』

『世界』は、日本社会の矛盾、歪み、差別、憎しみを容赦なく告発し、日本国というゆがんだ国民国家の現実を突きつける。それはこの社会において絶対に必要なことだ。だから、どんなに辛くても読まなければいけない。これは大学時代に自覚した、「知識人」の端くれとしてのちっぽけな義務である。
だが義務すら、こんな世界に馴染まされてしまった人間にとっては、辛く重いのだ。めくるたびにページも内容も重くなる。ぶっちゃけ積み傾向にある。まさに罪だな。

資本家と国家制度によって抑圧される市民のディストピアがここに展開されている。文藝春秋で芸能人がヘラヘラ対談している同じ月に、ワクチン副反応・国家警察回帰・経済安保が取り上げられる。同じものごとに対するふたつの見方が共存するのが民主主義社会というもので、どちらを選ぶかも個人の自由ではあるのだが……。
多数派の意見を代表する前掲二誌に対して、こちらは少数派の意見を代表する、と言わざるを得ない。だが必要な少数派だ。
ページ数は300ページ程度。余計な広告記事はほとんど入っていないのは素晴らしいが、これで運営できているのかが心配になる(実際大変そうだ)。

まとめ

インターネットには、ほぼ無限と思えるほどのテキストが転がっている。文字を読もうと思えばどこにでもあり、あなたがこの記事を読んでいるそのデバイスは、文字を読むだけでなく書くこともできる。
それでも私は、本を手に取ることはやめられない。それは小学生時代、ちゃぶ台でご飯を食べながら床に置いた新聞に目をやったり、ゲームの攻略本だけを買ってもらってゲームの中身を想像したりした頃からの習慣だった。リハビリするまでに衰えてしまった自分の習慣を意識的に取り戻し、また人生を楽しくしていこうと思う。

余談

SNSを読むことは、それ自体では読書ではないと信じる。「ソーシャル・ネットワーキング・サービス」という、人の「ネットワーキング」が入った原義を越えて、思想の宣伝場、文化祭の演台、あるいは超巨大な大喜利会場と化しつつあるSNSには、確かにほぼ無限と思えるほどのテキストがある。しかしテキストは「書」ではない。伝える目的を持って編まれたテキストでないノイズも多く混ざる。単なる扇動を書籍と認めたくはないのだ。
これは書籍に特権を与えるものではない。読むに値しない書籍も大勢ある。文字数が足りないと言っているのではない。17字、31字のテキストがもたらす可能性を考えれれば分かることだ。
ニュースを読むこともまた、読書ではないと信じる。BBCで配信されるテキストは情報だ。その情報が何を意味するか、何を意味するであろうかを解説したものを読むのは、きっと読書だろう。

「ならば技術書を読むのは読書か? 新聞のニュースは読書じゃないが、オピニオン欄は読書なのか? それならなぜ、最初で新聞のことを話題にしたのか? 自己矛盾してないか?」

そうなのだ。まだ自分の中で答えが出ていないけど、とりあえず書いたのだ。そして、「とりあえず書く」ことが、この記事を書くときに課したテーマなのだ。
完璧な記事を書こうとして時間をかけすぎないように、思い切ってやってみた。