嫌いな歌声

先日、四月に入らせてもらった大学の軽音サークルのライブがあった。合計で21バンド出演した中、僭越ながら自分はギターボーカル、ボーカルとギターで3バンドやらせてもらえた。元々歌うのが好きで、サークル入った時の志望もボーカルをやりたいと伝えていたので今回のライブで歌えたのはとても嬉しかった。実際ライブ中も緊張は感じたものの、歌っていて気持ちよく、終わったあとは胸から湧き出るような満足感があった。先輩や同期達にも褒められ、人前では無ければ全裸になり、踊り狂っていたであろう程度には心の中で狂喜乱舞した。

だが、先輩が動画に納めていたライブ映像を見てみると、自分の歌が下手、ではないにしろ、見ていて恥ずかしくなったのである。

僕は自分の地声は好きではないが、自分の歌声は割と好きではある。カラオケの採点では高得点を取れ、一緒にカラオケに行った人には毎回上手いと言われるので、一般的には上手い方に分類されるであろう自負は持っている。あくまで自負であり、誰かに聞いた訳ではないが、つまりはこうやって自分で思える程度には自信を持っているのである。

そして話が変わり、尚且つここからがめんどくさいのだが、僕はプライドが高くて完璧主義者である。それは明確に今の自分が出来てからの7年間を過ごして来た経験から考えてみると疑いようのない事である。で、自分の場合上の特徴を持つことでどのような事が起こるかと言うと、自分の粗を常に探してしまうのである。つまり過去の自分が満足している事でも今の自分の基準で判断し、過去の自分を蔑んでしまう。当然そこには他人の評価は換算されない。

こういった思考は自信がある物こそに向きやすく、厳しい目で査定してしまう。


「上手いかもしれないが、これが自分の出せる本気なのか?」
「そもそも「歌」には上手さよりも大事なものがあるのではないか?それを自分の歌声は持っているのか?」

このような不要ではあるが、完全に無駄ではない事を考えてしまっているからライブの時の自分の歌声が不十分だと感じてしまったのであろう。そして今更脳にこべり付いている思考ルーチンを変えるのは恐らく難しい。且つ「歌声」という曖昧で明確な正解のないモノと相対した時、自分が満足できる結果を出すのは不可能であろう。
だがそれも全て、歪ながら自分の価値を「歌声」に見出しているからこそ、この様に複雑に考えてしまっているのであろう。そして最終的な自分の感情がどうであれ、歌っている最中はとても清々しい気持ちになれているのもまた事実である。

自戒的な思想は抜けなくても、一時の快楽を求めて、僕はこれからも歌って行きたいと思う。

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