天理教手柄山分教会報 2012年8月号より「早よう、一人で」
※10年前に教会報に載せた原稿です。
早よう、一人で
こどもおぢばがえりが終わって、詰所も静かになってきました。昨年までは、その後すぐに学生生徒修養会の講師宿舎として使われていたので、まだまだ慌ただしい日が続いたのですが、今年から他の詰所が講師宿舎となったので、例年よりも更に静寂を感じるかもしれません。
今年も大きな失敗をしてしまいました。それは食堂の空調を事前にしっかりと見ていなかったことです。これまでにトラブルのあった本館のロビーや新館の空調は、事前に掃除をしたり試運転をしていたのですが、食堂はこれまで大きなトラブルがなかったのでちゃんと見ていなかったのでした。もちろん大きな機械ですので、故障を直すことはできませんが、それでも分かる範囲で掃除をしたり、油をさしたりしていれば、少しは結果が変わってきたのではと思うのです。それでも、少しずついろんなことが分かってきたり慣れてきたとも思うのですが、四十才を超えたからでしょうか、精神的なことよりも体力的な疲れに襲われて、途中でダウンしたらどうしようかと心配になったほどでした。
親父の疲労とは無関係に、子どもたちは元気なもので、毎晩少年会の先生方が開いてくださる駄菓子屋さんにいりびたって夜更かしをしても、朝早くから元気に泣き叫んで私を起こしてくれます。えいきに至っては、知らない人にも平気で声をかけて駄菓子やジュースをせびるものですから、私の知らない人達からも「えいき!」と声を掛けられて、いつのまにか父親よりも遙かに有名になったのではと思えるほどです。多くの子供たちは、一年に一度しかこどもおぢばがえりの行事に参加出来ませんが、何度もいろんな行事に参加出来る子供達は本当に幸せだと思います。
詰所に入った今でこそ、「こどもおぢばがえり」となれば緊張感や疲労感を想像してしまう私ですが、子どもの頃は、やはりこどもおぢばがえりが大好きで、今でも忘れられない思い出がたくさんあります。
ミニオリンピックやウォークラリーで高得点をだしたこと。詰所のロビーで枕投げをしてしかられたこと。鼓笛隊のオンパレードで銅賞しかとれなかったこと。夜のおやさとパレードでサンバをおどったこと。何十年も経った今でも不思議なほどしっかりと覚えています。中でも一番心に焼き付いているのは、御本部の朝づとめまなびのとき、教祖殿の合殿で「すりがね」をさせていただいたことです。こどもおぢばがえりの期間中、教祖殿御用場で行われる朝づとめの学びは鳴物を少年会員がつとめることになっていますが、中学三年生のとき、幸運にもすりがねをさせてもらえることになったのでした。リズム音痴の私は前日に何度他の少年会員と練習しても、一人だけリズムがあわず、逃げ出したいほど泣きそうな気持ちになりましたが、本番ではなぜか、他の鳴物の音が聞こえてきて、しっかりと打つことができました。それは今でも不思議でなりません。
ところで、教祖殿逸話篇を眺めると、子どもの登場するお話が意外に多いことに気付きます。
「お言葉のある毎に」では当時14才と8才であったおまささんとおきみさんの視線で天保9年10月の立教の様子を伝えています。また「ふた親の心次第に」「男の子は、父親付きで」のように子どもの身上をきっかけとして両親が入信したり、信仰を深めるお話、また逆に梅谷四郎兵衛先生の「父母に連れられて」のように子供に信仰を伝えるためのお話もあります。他におびやゆるしに関するお話や「子供が親のために」に登場する桝井伊三郎先生のように、親を思う子供の真実について述べられたお話もあります。更にいえば、おつとめの女鳴物を、直接教祖から教えて頂かれた、飯降よしゑ、辻とめぎく、上田ナライト当時まだ子供でしたから、おつとめに関するお話にも子供が登場してくるといえるでしょう。また岡本シナ先生が預かり子を育てる「大きなたすけ」のお話も広い意味で子供のでてくるお話と言えるかもしれません。
こうして御逸話篇を眺めているだけで、教祖がいかに「こども」というものへ大きな心をお寄せ下されていたのかが想像できるのですが、その中でも特に教祖の親心が感じられる御逸話は梶本宗太郎先生が伝えて下された「トンビトート」と「早よう、一人で」という二つのお話だと私は思います。
「トンビトート」
明治十九年頃、梶本宗太郎が、七つ頃の話。教祖が、蜜柑を下さった。蜜柑の一袋の筋を取って、背中の方から指を入れて、
「トンビトート、カラスカーカー。」
と、仰っしゃって、
「指を出しや。」
と、仰せられ、指を出すと、その上へ載せて下さる。それを、喜んで頂いた。
又、蜜柑の袋をもろうて、こっちも真似して、指にさして、教祖のところへヒヨーッと持って行くと、教祖は、それを召し上がって下さった。
「早よう、一人で」
これは、梶本宗太郎の思い出話である。
教祖にお菓子を頂いて、神殿の方へでも行って、子供同志遊びながら食べて、なくなったら、又、教祖の所へ走って行って、手を出すと、下さる。食べてしもうて、なくなると、又、走って行く。どうで、「お祖母ちゃん、又おくれ。」とでも言うたのであろう。三遍も四遍も行ったように思う。
それでも、「今、やったやないか。」というようなことは、一度も仰せにならぬ。又、うるさいから一度にやろう、というのでもない。食べるだけ、食べるだけずつ下さった。ハクセンコウか、ボーロか、飴のようなものであった、と思う。大体、教祖は、子供が非常にお好きやったらしい。これは、家内の母、山沢ひさに聞くと、そうである。
櫟本の梶本の家へは、チョイチョイお越しになった。その度に、うちの子にも、近所の子にもやろうと思って、お菓子を巾着に入れて、持って来て下さった。
私は、曽孫の中では、男での初めや。女では、オモトさんが居る。それで、
「早よう、一人で来るようになったらなあ。」
と、仰せ下された、という。
私の弟の島村国治郎が生まれた時には、
「色の白い、綺麗な子やなあ。」
と、言うて、抱いて下された、という。この話は、家の母のウノにも、山沢の母にも、よく聞いた。
吉川と私と二人、同時に教祖の背中に負うてもろうた事がある。そして、東の門長屋の所まで、藤倉草履みたいなものをはいて、おいで下された事がある。
教祖のお声は、やさしい声やった。お姿は、スラリとしたお姿やった。お顔は面長で、おまささんは、一寸円顔やが、口もとや顎は、そのままや。お身体付きは、おまささんは、頑丈な方やったが、教祖は、やさしい方やった。御腰は、曲っていなかった。
「トンビトート」を拝読しながら考えるのは、ちょうどその正反対にあるようなお話「食べ残しの甘酒」で、当時まだ五才だったたまへ様が買ってもらった甘酒を召し上がられなかったのに、ここでは指に刺したような蜜柑を教祖が召し上がられているということです。違いはどこかというと、甘酒は教祖に召し上がってもらおうと村田イヱに買って貰ったものですから、御供として受け止められたので、しっかりと理を通されたのに対し、「トンビトート、カラスカーカー。」と言って差し出された蜜柑はあくまで子供の「あそび」であるからだと思います。理に厳しい教祖が、なぜ「あそび」というものには寛容であったかというと、「早よう、一人で」の言葉通り、成長した子供達が自ら信仰を求めておぢばへ帰ってくることを望まれているからに違いありません。
早よう、一人で……、私はいつ、自分から信仰と向き合うようになったのだろう。遠い記憶を辿っていくと多くの光景が浮かんできます。香港から帰ってきて真っ先に参拝した南礼拝場や上海で初めてハッピをきて歩いた日、その路地裏でおさづけを取り次いだ瞬間。その光景を一枚一枚過去へとめくると、高校二年生の夏へとたどり着きました。
その年、耳鼻科のベッドで親父の出直しを聞いた私は、耳の病気にかこつけて、所属していた吹奏楽部もやめ、ブラブラと空虚な時間をつぶしていました。ただすることがないので、参拝にいっていたら、目に入ったのは回廊拭きをする人の姿でした。格好の悪いことではありますが、何もかもしたくない自分と、何かしなければいけないと考える自分との、その狭間の逃げ道がそこにありました。ですから、決して純粋に自分から信仰を求めたとはいえないのですが、その日から卒業までのほぼ毎日、回廊拭きに通った日々が私にとっての「早よう、一人で」になる気がします。
こどもおぢばがえりとその片付けが終わった8月5日、無事につとめ終えることのできた御礼も込め、家族揃って夕勤めに参拝させていただきました。いつもよりも多い参拝者にあっとうされたのか、子供達はめずらしくちゃんと座って手を振っていました。こいつらが自分から信仰をもとめる日がいつだろう。末娘の恵音を抱いて、少しずつ色の変わってゆく空を眺めると、こどもおぢばがえりの期間中、「早よう、一人で来るようになったらなあ。」と、子供達ひとり一人の頭を撫でてゆかれる教祖を想像できた気がしました。
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