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天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2021年後半掲載分)

   70 麦かち   (2021年7月掲載)
 
 お屋敷で、春や秋に農作物の収穫で忙しくしていると、教祖がお出ましになって、
「私も手伝いましょう。」
と、仰せになって、よくお手伝い下された。
 麦かちの時に使う麦の穂を打つ柄棹には、大小二種類の道具があり、大きい方は「柄ガチ」と言って、打つ方と柄の長さがほぼ同じで、これは大きくて重いので、余程力がないと使えない。が、教祖は、高齢になられても、この「柄ガチ」を持って、若い者と同じように、達者にお仕事をして下された。
 明治十二、三年頃の初夏のこと。ある日、カンカンと照りつけるお日様の下で、高井や宮森などが、汗ばみながら麦かちをしていると、教祖も出て来られて、手拭を姉さん冠りにして、皆と一しょに麦かちをなされた。
 ところが、どうしても八十を越えられたとは思えぬ元気さで仕事をなさるので、皆の者は、若い者と少しも変わらぬお仕事振りに、感歎の思いをこめて拝見した、という。


 子供たちがお手伝いをしたりひのきしんをしたりしている時、こんなことを言われた経験がないですか。
「パパはしないの?」
 もし私だけだったらごめんなさい。
 子供たちのひのきしんだけでなく、ついつい私は、これは私の仕事じゃないからと、なんでもかんでも、サボろうサボろうとしてしまうのですが、やっぱり、改めないといけませんね。だって教祖は80歳を過ぎていても、若い人たちがひのきしんをしていたら、「私も手伝いましょう。」と出てこられるのです。
 これは私の仕事じゃないから、などとは絶対に思われるはずがありません。いつも一番大変だと思われることをすすんで行われて、一番たくさん汗を流されていらっしゃるのが教祖なのです。ちょうど柿を選ぶのに、美味しいのを子供たちに食べさせてやりといと思われるのと同じように、しんどいことは、ご自身がなさって、少しでも楽なこと、楽しそうなことを子供たちにさせておられる。その姿勢は常に変わることがありません。
 私たちは、否、もしかしたら私だけかも……、ついつい私よりも誰の方が楽な仕事だとか、なんで私ばっかりこんなことと、思ってしまいますが、それは教祖のひながたとは正反対なんですよね。私も、少しは喜ぶの人たちの顔を創造しながらよろこんでひのきしんができるように、努力していきたいと思います。やっぱり普段自分の出来ていないことを書くのは難しいですね。……反省します。
 
    110 魂は生き通し (2021年8月掲載)
 
 教祖は、参拝人のない時は、お居間に一人でおいでになるのが常であった。そんな時は、よく、反故の紙の皺を伸ばしたり、御供を入れる袋を折ったりなされていた。
 お側の者が、「お一人で、お寂しゅうございましょう。」と、申し上げると、教祖は、
「こかんや秀司が来てくれるから、少しも寂しいことはないで。」
と、仰せられるのであった。
 又、教祖がお居間に一人でおいでになるのに、時々、誰かとお話になっているようなお声が、聞こえることもあった。
 又、ある夜遅く、お側に仕える梶本ひさに、
「秀司やこかんが、遠方から帰って来たので、こんなに足がねまった。一つ、揉んでんか。」
と、仰せになったこともある。
 又、ある時、味醂を召し上がっていたが、三杯お口にされて、
「正善、玉姫も、一しょに飲んでいるのや。」
と、仰せられたこともあった。

 
 人間は死んだら、どうなるんだろう。哲学者でなくても、身近な人の出直しに遭遇すれば、そんなことを考えることがあるかもしれません。ただ私にはまだ分からないことがあります。近眼の私は、眼鏡を外しただけで、何も見えなくなるのに、人間は死んだあとも、魂だけで、本当にいろんなものが見えたり聞こえたりするのだろうかということです。手も足もないのに、場所を移動したりモノに降れることなんて、どうすればできるのかと考えこんでしまいます。若いころに見たパトリック・スウェイジとデミ・ムーア主演の映画「ゴースト」の影響かもしれませんね。でも、教祖はお話をされているのです。出直されたこかん様や秀司様が、教祖に会いにやってこられているのです。少なくとも逸話篇にはそう描かれています。それをどう解釈すればいいのか私には、分かりません。ただ話が出来るのであれば、父の年齢を越えた46歳のとき、ふと父がいたら、どんなことを言って下さるのかなあと想像するだけです。そうして今考えていることを少しでも多く言葉にして子供たちに残してやりたいと思うのです。
 先日、家内がずっと海外部でお世話になっていた本部准員の平野知三先生のみたまうつしに参列させて頂きました。最後に喪主の挨拶に立たれた奥様は、知三先生が生前に書き遺された手紙を読み上げられました。
「私の人生は素晴らしい人生でした。」
 出直した後のことは分かりませんが、私も最後には胸をはってそう言えるくらい、精一杯に頑張って今を生きていこうと思います。
 
   74 神の理を立てる  (2021年9月掲載)
 
 明治十三年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。警察の見張、干渉の激しい時であったから、人々が躊躇していると、教祖は、

「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さあ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ。」
と、刻限を以て、厳しくお急き込み下された。。
 そこで、皆々相談の上、「心を定めておつとめをさしてもらおう。」ということになった。
 ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐらづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。
 又、女鳴物は、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖からお定め頂いていたが、男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄かのことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手には出来ないという上から、教祖に、この旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は、
「さあさあ鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神がゆるす。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け。」
という意味のお言葉を下されたので、皆、安心して、勇んで勤めた。山沢為造は、十二下りのてをどりに出させて頂いた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南につづく八畳の間であった。


「なぜ、おつとめをしなくちゃいけないんだろう?」
 子供の頃、なんどもそんことを考えたことがあります。当時、夕勤めの時刻には子供たちの大好きなアニメ番組が放送されていたからです。今と違って簡単に録画をすることもできなかったので、余計にそう思ったのかもしれません。もちろん、今でもなぜ?と考えることはありますが、その理由は子供たちにおつとめをさせるために変わりました。あんなに嫌だったのに、どうして子供たちにもおつとめをするように言っているのでしょうか。もちろん、それはおつとめの大切さが分かってきたからなのです。が、おつとめの大切さとはいったい何でしょう。私はおつとめには、幸せにさせたいという神様の親心が詰まっているからだと思います。教祖は決して先人の先生方を苦しませるために、おつとめをするように迫ったのはありません。その先の人々の幸せ、もっといえば、この御逸話以降おつとめによって幸せになる全ての人々の為に、おつとめの大切さを説かれたのだと思います。「神様の理を立てる」と聞けば、まるで人間が神様の犠牲になるような感じもしますが、「神の理」を言い換えると、本当は人々の幸せを願う神様の親心なのではないでしょうか。
 
   160 柿選び   (2021年10月掲載)
 
 ちょうど、その時は、秋の柿の出盛りの旬であった。桝井おさめは、教祖の御前に出さして頂いていた。柿が盆に載って御前に出ていた。
 教祖が、その盆に載せてある柿をお取りになるのに、あちらから、又こちらから、いろいろに眺めておられる。その様子を見て、おさめは、「教祖も、柿をお取りになるのに、矢張りお選びになるのやなあ。」と思って見ていた。ところが、お取りになったその柿は、一番悪いと思われる柿をお取りになったのである。そして、後の残りの柿を載せた盆を、おさめの方へ押しやって、
「さあ、おまはんも一つお上がり。」
と、仰せになって、柿を下された。この教祖の御様子を見て、おさめは、「ほんに成る程。教祖もお選びになるが、教祖のお選びになるのは、我々人間どもの選ぶのとは違って、一番悪いのをお選りになる。これが教祖の親心や。子供にはうまそうなのを後に残して、これを食べさしてやりたい、という、これが本当に教祖の親心や。」と感じ入った。そして、感じ入りながら、教祖の仰せのままに、柿を頂戴したのであった。教祖も、柿をお上がりになった。
 おさめは、この時の教祖の御様子を、深く肝に銘じ、生涯忘れられなかった、という。 

 桝井おさめ先生は桝井伊三郎先生の奥様で、結婚される前の名は、西尾ならぎくです。この名前でも逸話篇に出てこられますね。お母さまは西尾ゆき先生、初代真柱様の奥様たまゑ様がお生まれになったとき、教祖のお供をして平等寺村の小東家まで赴かれたと、教祖伝にでてくる方です。(P137)また養子に入られた夫さんが中風になられて、そのいんねんを切ってほしいと教祖に願われたところから、信仰にはいられたそうです。…と、お母様の入信まで書いたのは、先月出直された尾種泰子さんと、桝井おさめ先生が何となく似てるように思えたからです。柿選び意外に出てくる二つの御逸話は、懸命に働く様子ですし、優しい御主人の伊三郎先生は母思いで伊豆七条村(郡山インターの北西あたり)から母の助かりを願ってお屋敷まで三度も往復された逸話はあまりに有名です。でも「我が家にかえって、女房の顔を見てガミガミ腹を立てて叱ることは、これは一番いかんことやで。それだけは、今後決してせんように。」と注意されるところもなんとなく保之の叔父さんみたい思えてきます。その桝井おさめ先生が教祖のご様子をみて、一番悪そうな柿を選ばれていることに気づかれたのは、きっと桝井おさめ先生自身が普段そうなさっていたからではないでしょうか。桝井おさめ先生ご自身が、自分のことをいつも後回しにして、いろいろガマンして、御主人のために、お道のために、周囲の人のために心を尽くされてきたから、教祖のちょっとしたしぐさに気づいて感動なさったではないかと思います。そういう点もなんとなく、泰子叔母さんに似ていると思うのですが、いかがでしょうか。
 
   171 宝の山   (2021年11月掲載)
 
教祖のお話に、
「大きな河に、橋杭のない橋がある。その橋を渡って行けば、宝の山に上ぼって、結構なものを頂くことが出来る。けれども、途中まで行くと、橋杭がないから揺れる。そのために、中途からかえるから、宝を頂けぬ。けれども、そこを一生懸命で、落ちないように渡って行くと、宝の山がある。山の頂上に上ぼれば、結構なものを頂けるが、途中でけわしい所があると、そこからかえるから、宝が頂けないのやで。」
と、お聞かせ下された。


 宝物を探しにいく物語として、まず筆者が思い受けるのは「西遊記」です。子供の頃に読んだ本の中では、最後に天竺にたどり着いた一行が、お釈迦様から尊いお経を頂く場面がありました。でも頂いたお経には何も書かれていません。唖然とする一行にお釈迦様は諭されます。「ここにたどり着くまでの道中こそが本当の宝物だ」と。
 「宝の山」の御逸話を読みながら、ふと考えました。「どうして神様は、すぐに宝を下さらないのだろう」。やっぱり西遊記のように宝物を取りに行く道中こそが宝物だからでしょうか。
 ふと、三蔵法師が宝物を頂いていたら、どうしていただろうと考えました。でもすぐに、ハッとしました。私は何をバカなことを考えているんだろう。物語の三蔵法師が頂いたお経には何も書かれていないとしても、本物の三蔵法師はちゃんを多くのお経を持って帰っておられる。そんなことくらい知っているじゃないか。改めて三蔵法師自身を調べました。びっくりしました。三蔵法師は657部もの経典を長安に持ち帰ってきます。でも、むしろそれは些細なことで、本当の功績は、その後亡くなるまでの人生を経典の翻訳に捧げたことです。その文字数はなんと漢字で約1500万文字に及ぶとのこと。
 「宝の山」を読み返しながら思うのです。人間は宝物を取りに行くことばかりを考えがちですが、神様はむしろ受け取った宝物を、人々がどう生かして使うかを見ていらっしゃるのではないでしょうか。そう考えると神様が、すぐに宝を下さらない理由も答えが出る気がします。
 
     62 これより東 (2021年12月掲載)
 
 明治十一年十二月、大和国笠村の山本藤四郎は、父藤五郎が重い眼病にかかり、容態次第に悪化し、医者の手余りとなり、加持祈祷もその効なく、万策尽きて、絶望の淵に沈んでいたところ、知人から「庄屋敷には、病たすけの神様がござる。」と聞き、どうでも父の病を救けて頂きたいとの一心から、長患いで衰弱し、且つ、眼病で足許の定まらぬ父を背負い、三里の山坂を歩いて、初めておぢばへ帰って来た。教祖にお目にかかったところ、
「よう帰って来たなあ。直ぐに救けて下さるで。あんたのなあ、親孝行に免じて救けて下さるで。」
と、お言葉を頂き、庄屋敷村の稲田という家に宿泊して、一カ月余滞在して日夜参拝し、取次からお仕込み頂くうちに、さしもの重症も、日に日に薄紙をはぐ如く御守護を頂き、遂に全快した。
 明治十三年夏には、妻しゆの腹痛を、その後、次男耕三郎の痙攣をお救け頂いて、一層熱心に信心をつづけた。
 又、ある年の秋、にをいのかかった病人のおたすけを願うて参拝したところ、
「笠の山本さん、いつも変わらずお詣りなさるなあ。身上のところ、案じることは要らんで。」
と、教祖のお言葉を頂き、かえってみると、病人は、もうお救け頂いていた、ということもあった。

 こうして信心するうち、鴻田忠三郎と親しくなった。山本の信心堅固なのに感銘した鴻田が、そのことを教祖に申し上げると、教祖からお言葉があった。
「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。直ぐ運べ。」
と。そこで、鴻田は、辻忠作と同道して笠村に到り、このお言葉を山本に伝えた。
 かくて、山本は、一層熱心ににをいがけ・おたすけに奔走させて頂くようになった。

 
 大教会の紺谷久則三代会長様が御本部の海外布教伝道部(当時)を終えられる時、同部報のインタビューをさせてもらったことがあります。当時編集長をされていた先生が、「先生と同じ飾東だからちょうといい」と同行させて下さったのです。
 いろいろなお話を聞かせて下さった中に、初めて別席台本がポーランドのワルシャワ持っていかれた時の話がありました。万一捕まったら何があるかわからない中で、映画にでもなりそうな命がけの渡欧であったそうです。 1989年11月ベルリンの壁崩壊のニュースを日本で一番喜ばれたのは、もしかしたら三代会長様かもしれません。鉄のカーテンが開いたのは、お道の本が東欧へ渡ったからだと心から信じておられたからです。
 さて今回の逸話にある山本藤四郎先生は上之郷大教会の初代会長様です。父親が助けられた恩を決して忘れず、その父親である藤五郎さんに信仰に反対されてもなお、確固たる信仰を守った先生です。「これより東、笠村の水なき里に、四方より詣り人をつける。」これより東とありますから、最初は漠然とおぢばの東を指していると思っていましたが、決してそれだけではないと考えるようになりました。むしろ大切なのは、その後半部分、たとえ水もないような人のいない僻地であったとしても、しっかりと信仰を続けていれば、神様がちゃんと道をつけて下さるということではないでしょうか。事実、明治27年、上之郷出張所(当時)の神殿が落成したとき1500名もの人々が集まられたそうです。またインドに唯一あるカルカッタ教会は上之郷の部内教会です。
 世界中の話題がコロナ一色になる少し前、香港の民主化運動が連日報道されていました。人々の生活は平穏になりましたが、中国共産党の影は日増しに色濃くなっていると思います。でも、それでも毎日おつとめを勤めておられる教友がいます。ひらがなのみかぐら歌に漢字のふりがなをふって、鳴物を練習する教友がいます。これからどんな世界になろうとも、誰かが真剣に信仰を続ける限り、きっと神様が世界中に道を付けて下さると私も信じています。
 

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