天理教手柄山分教会報より「逸話篇を学ぶ」(2017年後半掲載分)
41 末代にかけて (2017年7月掲載)
ある時、教祖は、豊田村の仲田儀三郎の宅へお越しになり、家のまわりをお歩きになり、
「しっかり踏み込め、しっかり踏み込め。末代にかけて、しっかり踏み込め。」
と、口ずさみながらお歩きになって後、仲田に対して、
「この屋敷は、神が入り込み、地固めしたのや。どんなに貧乏しても、手放してはならんで。信心は、末代にかけて続けるのやで。」
と、仰せになった。
後日、儀三郎の孫吉蔵の代に、村からの話で、土地の一部を交換せねばならぬこととなり、話も進んで来た時、急に吉蔵の顔に面疔が出来て、顔が腫れ上がってしまった。それで、家中の者が驚いていろいろと思案し、額を寄せて相談したところ、年寄り達の口から、教祖が地固めをして下された土地であることが語られ、早速、親神様にお詫び申し上げ、村へは断りを言うたところ、身上の患いは、鮮やかにすっきりとお救け頂いた。
「教会の子弟に生まれても、二男や三男は、働くなりして自分で生きていけるように頑張っていかないといけないよ」
いつだったか、こんなことを言われたことがあります。中国にいて、ちゃんと勉強するでもなく、働くでもなく、長い間フラフラと過ごしていた私には、大いに耳の痛い言葉でした。今も、心のどこかで、ちゃんとしなければいけないなという思いが残っています。でも、それでも海外部へ入れて頂き、その後は大教会の信者詰所でつとめさせて頂いているのは、同時にこんな不安を抱いていたからです。それは「どうすれば、子供にちゃんとお道を伝えていくことができるか」という不安です。父や母のようにしっかりとした信仰をもっている自信は、今もありません。でも、少しでも多くお道と繋がっていく努力が、きっと子供に信仰を伝えることに繋がっていくように思います。たとえ信仰が十代、二十代と繋がっていっても、信仰を繋いできたのが長男ばかりでは、やはり申し訳のないことだと思います。子供の数分、孫の数分、曾孫の数分、信仰が繋がる努力を続けてこそ、本当の「末代にかけて」ではないでしょうか。こどもおぢがえりが終わると、次は十年に一度の「後継者講習会」がはじまりますね。「末代にかけて」という心定めも、きっと私たち一人ひとりが信仰と一緒に親から受け継いでいるはずです。
103 間違いのないように (2017年8月掲載)
明治十五年七月、大阪在住の小松駒吉は、導いてもらった泉田籐吉に連れられて、お礼詣りに、初めておぢばへ帰らせて頂いた。コレラの身上をお救け頂いて入信してから、間もない頃である。
教祖にお目通りさせて頂くと、教祖は、お手ずからお守りを下され、つづいて、次の如く有難いお言葉を下された。
「大阪のような繁華な所から、よう、このような草深い所へ来られた。年は十八、未だ若い。間違いのないように通りなさい。間違いさえなければ、末は何程結構になるや知れないで。」
と。駒吉は、このお言葉を自分の一生の守り言葉として、しっかり守って通ったのである。
若い頃に一度、交通事故を起こしたことがあります。左折して国道に入ろうとしたときに、直進してきた車とぶつかったのです。幸い、けが人はでなかったのですが、今でも、その時の様子を頭の中でスローモーションで再生できるほどにはっきりと、覚えています。
「間違いのないように」。
考えてみますと、交通事故に限らず、努力してきたことを一瞬の間違いで台無しにしてしまうことは、事の軽重を問わず、いろいろにあると思います。料理の砂糖と塩を間違えるというような古典的寸劇のようなものだけでなく、スポーツをする者であれば、一球に泣いた人もいるかもしれませんし、音楽をする人であれは、一音を外した苦い思い出を持っている人もいるかもしれません。一問に泣いた受験生だっていることでしょう。そうして、父親になってからは、子供のケガや病気など、どんどんと心配な事が増えていくようになりますね。
ところで、このお話にでてくる間違いとは、色情の間違いだと、教えて頂いたことがあります。香港で勤めさせて頂いているころ、出張所長だった大向良治先生に教えて頂きました。この話ででてこられる小松駒吉先生は御津大教会の初代会長様ですが、大向先生も御津所属の先生だったからです。
若い頃の間違いの多くはきっと、その後の努力で取り戻せると思います。でも、中には取り返しのつかない間違いだってあるかもしれません。そうならないために、間違いのないつとめ、間違いのない信仰を日々心がけたいものです。
31 天の定規 (2017年9月掲載)
教祖は、ある日飯降伊蔵に、
「伊蔵さん、山から木を一本切って来て、真っ直ぐな柱を作ってみて下され。」
と、仰せになった。伊蔵は、早速、山から一本の木を切って来て、真っ直ぐな柱を一本作った。すると、教祖は、
「伊蔵さん、一度定規にあててみて下され。」
と、仰せられ、更に続いて、
「隙がありませんか。」
と、仰せられた。伊蔵が定規にあててみると、果たして隙がある。そこで、「少し隙がございます。」とお答えすると、教祖は、
「その通り、世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで。」
と、お教え下された。
修養科の教養掛の御用で詰所にいらっしゃる会長様に、好きな逸話篇はありませんかと尋ねると、この逸話篇を挙げられました。いつも自分のことを後回しにして、御本部や大教会の御用をされる会長様らしいなと思いました。それから、しばらくして、前会長様から今月号の随筆の原稿を頂くと、同じく本席様の逸話である「三つの宝」を引用されていて、もっとびっくりしました。
どんなに正しいと思っていることでも、隙や狂いが出てくるのは、神様と人間とでは、見ている景色がまったく、違うからだと思います。ちょうど、お菓子を取り合ってケンカする子供たちの言い分のように、どんなに正しい事を言っているつもりでも、自分の事しか考えていないことが多いからです。でも、子供の目線から親の目線へと変わるように、少しでも神様の見てらっしゃる風景に、自分の見ている世界を近づけていくことが、きっと、確かな定規になっていくように思います。
私自身見ている風景が、神様どころか、会長様や前会長様の見ている風景にも近づいているとは思えません。でも、せめて想像くらいならば、できるように少しなりとも努力をしていきたいと思います。
74 神の理を立てる (2017年10月掲載)。
明治十三年秋の頃、教祖は、つとめをすることを、大層厳しくお急き込み下された。警察の見張、干渉の激しい時であったから、人々が躊躇していると、教祖は、
「人間の義理を病んで神の道を潰すは、道であろうまい。人間の理を立ていでも、神の理を立てるは道であろう。さあ、神の理を潰して人間の理を立てるか、人間の理を立てず神の理を立てるか。これ、二つ一つの返答をせよ。」
と、刻限を以て、厳しくお急き込み下された。。
そこで、皆々相談の上、「心を定めておつとめをさしてもらおう。」ということになった。
ところが、おつとめの手は、めいめいに稽古も出来ていたが、かぐらづとめの人衆は、未だ誰彼と言うて定まってはいなかったので、これもお決め頂いて、勤めさせて頂くことになった。
又、女鳴物は、三味線は飯降よしゑ、胡弓は上田ナライト、琴は辻とめぎくの三人が、教祖からお定め頂いていたが、男鳴物の方は、未だ手合わせも稽古も出来ていないし、俄かのことであるから、どうしたら宜しきやと、種々相談もしたが、人間の心で勝手には出来ないという上から、教祖に、この旨をお伺い申し上げた。すると、教祖は、
「さあさあ鳴物々々という。今のところは、一が二になり、二が三になっても、神がゆるす。皆、勤める者の心の調子を神が受け取るねで。これよう聞き分け。」
という意味のお言葉を下されたので、皆、安心して、勇んで勤めた。山沢為造は、十二下りのてをどりに出させて頂いた。場所は、つとめ場所の北の上段の間の、南につづく八畳の間であった。
詰所でおいて頂くようになって、十年以上たちますが、いつも家内といっしょに「どうしようか?」と相談することがあります。何かと言えば、詰所のおつとめの間、子供たちが、ちっともカシコくおつとめをしてくれないのです。もちろん、ちゃんとしてくれる日もあるのですが、そんな時はめずらしいくらいです。しかも、毎月教養掛の先生や修養科生・講習生の方々が入れ分かるので、その度に雰囲気も変わり、どなたかに迷惑をかけないかと、ハラハラすることも多々あります。
「神の理を立てる」とは、どういうことでしょう?この逸話篇を読で考えているときに、浮かんだのが、おつとめの時に、ケンカをして周囲の方々に迷惑をかける我が子たちの姿でした。あんまり毎日、叱りつけて、おつとめ嫌いにならないかと心配になりますし、周囲の人々に迷惑をかけても申し訳ありません。でも、はしゃいだりケンカしたりする子供を見ながら、ふと思ったことがありました。それは、神様の理を立てていないのは、子供たちじゃなくて、子供たちのことばかりを考えて、今、真剣におつとめをしていない、自分自身じゃないかということです。どうすることが「神の理を立てる」ことになるのか、どうすれば子供たちがちゃんとおつとめをしてくれるのか。具体的なことは、まだわかりませんが、少なくとも神さま方を向き続けないと、「神の理を立てる」ことは、出来ないような気がします。今日はちゃんとおつとめをしてくれるかな?
135 皆丸い心で (2017年11月掲載)
明治十六、七年頃の話。久保小三郎が、子供の楢治郎の眼病を救けて頂いて、お礼詣りに、妻子を連れておぢばへ帰らせて頂いた時のことである。
教祖は、赤衣を召してお居間に端座して居られた。取次に導かれて御前へ出た小三郎夫婦は、畏れ多さに、頭も上げられない程恐縮していた。
しかし、楢治郎は、当時七、八才の子供のこととて、気がねもなくあたりを見廻していると、教祖の側らに置いてあった葡萄が目に付いた。それで、その葡萄をジッと見詰めていると、教祖は、静かにその一房をお手になされて、
「よう帰って来なはったなあ。これを上げましょう。世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。この道は、先永う楽しんで通る道や程に。」
と、仰せになって、それを楢治郎に下された。
「中国は自由でいい」
上海に留学していた20年以上も昔のことです。
中国ほど不自由で面倒くさい国はないと思っていた私にとって、それは忘れられない言葉になりました。友人であった北朝鮮から来た留学生の言葉だったからです。それからしばらくたった94年の夏、金日成の死去に伴い、北朝鮮の留学生が全員、本国へ引き揚げることになったのでした。余りにも慌てて帰国した彼らは、自分たちの部屋の片付け方をメモにして、他の留学生達に頼みました。金日成の写真には黒い紐をかけ、北朝鮮製と中国製以外の品物は全て処分し、国から貸与され物品は、大切に扱ってきたと分かるように整理してほしい。そうしないと、彼らに帰国後どんな罰が下るか分からなかったのです。
考えるまでもなく、何か問題やいざこざがあったとき、一番辛い思いをするのは、板挟みになる人々です。それは国と国といった大きなことでなくとも、会社や家庭の中でも、身の回りでも、様々な場面実際に見聞きしたり、経験したりすることでしょう。
「よう帰って来なはったなあ。これを上げましょう。世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。この道は、先永う楽しんで通る道や程に。」
皆が丸い心で繋がったなら、板挟みで苦しむ人もなくなって、皆が永く楽しんで通れる道になるはずです。
ひながたの最初は貧に落ちきられたことですが、その教祖の御苦労は、貧しさではなく、人間を救けたいという神様の親心と人間思案で戸惑う家人との板挟みだったと聞かせて頂いたことがあります。
陽気ぐらしへと歩む道とは、きっとそんな板挟みに苦しむ人がいなくなっていく道でもあると思います。そして、そうなっていくような道の通り方をしたいものです。
82 ヨイショ (2017年12月掲載)
明治十四年、おぢばの東、滝本の村から、かんろだいの石出しが行われた。この石出しは、山から山の麓までは、真明組の井筒梅治郎、山の麓からお屋敷までは、明心組の梅谷四郎兵衞が、御命を頂いていたというが、その時、ちょうど、お屋敷に滞在中の兵庫真明組の上田籐吉以下十数名の一行は、布留からお屋敷までの石引きに参加させて頂いた。
その石は、九つの車に載せられていたが、その一つが、お屋敷の門まで来た時に、動かなくなってしまった。が、ちょうどその時、教祖が、お居間からお出ましになって、
「ヨイショ」
と、お声をおかけ下さると、皆も一気に押して、ツーッと入ってしまった。
一同は、その時の教祖の神々しくも勇ましいお姿に、心から感激した、と言う。
詰所におらせて頂いていると、大教会長様からよく「どんな些細なことでもいいから、常々、目標をもって、勤めるように」という意味のことを聞かせて頂きます。特に12月になると「今年1年、それぞれが立てた目標がどれだけ実現できているかを心の中で、今一度振り返るように」と、やはり今年も聞かせて頂きました。恥ずかしながら、実現できたものより、実現していない目標の方が多いどころか、すっかり忘れていたような目標を思い出すこともあるほどで、本当に申し訳ない限りです。続いていることと言えば、毎月、ちゃんと、この教会報を会長様に届けることくらいで、それ以外のことはやはり、出来ておりません。でも、それでもあえて書きます。それは、出来ていないことばかりの日常ですが、それでも、少しくらいは頑張ってきたことが、誰の心にもしまってあるはずだということです。もしかしたら今はでいていないかもしれませんが、頑張っていたことがあった人も多いはずです。そうして、しっかりとおぢばの方向いて頑張っていて、何かの理由で前へ進まなくなったとき、「ヨイショ!」という教祖のかけ声を聞いた人も、やはりいらっしゃるような気がします。三年後、飾東大教会では創立130周年記念祭並びに五代会長就任奉告祭がつとめられます。目標をもって勤める中で、すこしでも「ヨイショ!」という教祖のお声が聞こえるように、頑張っていきたいものですね。
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