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「おふでさきの物語」 第一章 その2

 世界中の生命が神様に祈りを捧げるとき、きっと神様の心もどんどんと元気になっていくことでしょう。もし世界中の心が沈んでいたら、やっぱり神様の心も沈んでいます。そうしたら、この世界中の生命たちが成長していく勢いも、やっぱり遅くなってしまいます。そんなことになったら大変です。やはり全ての生命を慈しむ神様にとってみれば、それは可愛そうに思えてなりません。神様は全ての生命たちに元気になってもらいたいのです。だからこそ、大切な「祈り」をしっかりと教えていく必要がありました。そうして早くこの「祈り」を命あるものたちにつとめてもらいたい。神様はそう願ったのでした。それは「祈り」には大きな力があるからでした。祈りを捧げることによって、この世界には不思議な変化があらわれます。新しい世界が開けてくるのです。でも、まだそのゴーサインを、命ある者はみていません。でもやがてその日がくれば、きっと分かる日が来るはずです。不思議な変化や大きな変化は誰にでもわかります。きっと命あるものすべてが感動するにちがいありません。どんなことでも物事が見えかけてきたら多くのことを語れるでしょう。でも多くのものに「なるほど」と理解させるには、まだ見えないときにこそ、大切なことを伝えていかなければならないのです。そのためには、まず人々が心を落ち着かせて、平和な世界にさせる必要があります。もちろん平和な世界など簡単にできるはずもありません。多くの人間たちはきっと不可能だと思っているでしょう。でも私がなんとか手を差し伸べて実現させよう。神様はそうつぶやいたのでした。
 ではどうやって実現させるのでしょうか。それには神様の思いを、しっかりと命ある者たちに伝える必要があります。ちょうどこの秩序正しい世界のように、秩序正しい、整然とした言葉で伝えよう。無理に手をとって人間たちに教えるのでもなければ、きつい口調で攻め続けるのでもありません。しっかりとした言葉を筆にあらわして伝えていこう。もちろん、人間たちには多くの間違いがあるかもしれない。でも無理矢理させるのではなくて、違うところをしっかりと言葉で教えていこう。そうしないと、このまま違った方向へ人間たちが進んで行くと、非常に可愛そうなことになってしまう。この世の中の災いごと、たとえば、この世のあらゆる病気はすべて、人間達の心の使い方が、原因となっているのですから。しかも、今の人間たちの姿は、神様の目からみても、決して喜べるものではありません。まさに今、多くの災いが人間たちに降りかかってもおかしくないくらいです。
 これまでにも神様の法則とは違う、本当に喜べない姿になったとき、災いがこの地球上に降り注いだことがありました。それはもちろん神様自身が行ったと言えるかもしれませんが、どうしてもせずにはおれなかったのでした。もし、これからそういった災いが降りかかるならば、きっと人間の科学や医学の力をもってしても、きっと克服することはできないでしょう。そうなったら、もう簡単な問題ではありません。非常に重大なことになってしまいます。だからそうならないように、しっかりとした言葉で人間たちにつたえなければならないのです。
 では、どうやって伝えたらよいのでしょうか。
 神様は手本となる人生を示そうと考えました。
 そのために必要なこと。それはその手本となる者やその家庭をつくることでした。そうして、まず手本の中心となる者の住む家庭から、この世界を掃除していくことでした。掃除をして、しっかりとした手本となる家ができたなら、人間達にその家を手本に素晴らしい道を歩むように伝えることができるからです。
 どうして掃除がひつようなのでしょうか。それは神様が望む世界へと歩んでいく上で、足並みがそろわないことには、なんにもならないからです。
ですから、その家にすむものは、足並みがそろわないことによって起こる様々なできごとを、病気や災難だとおもっているけれど、本当はそうではなくで、全部神様の残念な気持ちが表れた結果なのです。その残念な気持ちは、決して簡単なものではありません。この大きな神様が長い時間をかけて考えた結果で、積もりに積もった残念なのでした。
 この残念な気持ちというのは、どこからくるのでしょう。それは人間の心にある悪の、その根源となる部分が退かないからです。その闇の部分が退かない限り、神様が実現したい、素晴らしい世界を作り上げていく上で妨げとなってしまうのです。でも、この諸悪の根源を退けると言うことが、たとえどんなに難しいことであったとしても、神様には退けることができるという大いなる自信がありました。それは神様がこの世界を作り育ててきたからにちがいありません。この諸悪の根源を取り除いたなら、神様が望む世界へと歩んでいく上で、世界中の足並みが自然とそろっていくということでもあります。
 この時間をきってそれを実行に移すというのも、神様の大いなる意志の表れと言えるでしょう。お手本となる家の者や周囲のものは、この大いなる神様の意志が依頼できないので、驚くに違いありません。でも、それはこれから先の道を知らないからです。でも、だんだんと時間がたてば、きっと人間たちも次第に神様の思いを理解して、なるほどと思うことでしょう。
それまで人間たちは、何も信じないかもしれません。それどころか迷信であるとか嘘であるとかいって笑うかもしれません。本当は神様が人間たちに伝えたいこと、伝えようとしていることに、何の間違いもないのです。人間たちは一つ一つ現れてくる事象を通して、物事を悟っていけばよいのです。
 たとえばこういったことなのです。
 この世の中を見渡すと様々な道があることに気づくでしょう。どのようなところの道だと特定はしません。ただその道というものにたとえて話を進めて行こうと思うのです。急な坂道や茨の生い茂った険しい道あるいは崖道、あるいは誰かが剣で襲ってくるかもしれないような暗い道もあります。それから火の粉をくぐるような道もあれば底なし沼に足をとられるようなことがあるかもしれません。それでも、まっすぐに進んでいくと、かならず細い一本の道に辿り着くでしょう。その細い道をどんどんと進んでいけばやがて大きな道が現れてきます。これが本当に確かな道ではないでしょうか。これは決して他人事だと思ってはいけません。誰の人生にもあてはまる。
本当に大切な道の話なのです。


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