ミックスジュース
いつもの喫茶店の、いつもの席に座って、いつもの窓から、バス停を眺めてる。
窓から見えるバス停には、ポツポツとバスを待つ人がいる。20分に1本、駅前と海沿いのバスターミナルとを巡回するバスが通る。
バスが左から走ってきて、少しの時間だけ停まり、また走り出す。その少しの間に、バス停で待ってた人たちが忽然と消えてしまう。
「手品みたいだな」と思いながら、つい眺めてしまう。
予備校が終わると、週2回はここに来る。
予備校の自習室は息が詰まるし、自分の家は居心地が悪い。気がつくと予備校にも自宅にも全然近くないこの店に来てしまう。静かで、明るくて、何時間いても何も言われない。自習のためにあるような喫茶店。
なにより客が少なくていい。ときどき何組かの客がいることもあるけど、常連さんばっかり。しかもほとんど誰も話さない。静かなのは、たぶんマスターの人柄のせいじゃないか、と思ってる。年齢は60歳から65歳くらい。白髪で痩せていて、とにかく無口。注文を取りに来るときも、黙って水を置き、僕を見下ろしてたたずんでる。だからといって無愛想ってわけじゃない。微笑んでるって感じでもないけど、どこか静かさに余裕があるというか。
僕はいつも同じ飲み物を頼む。同じだからといって、先回りして「いつもので?」なんて聞いたりしない。必ず席まで来て、水を置いて、注文を待つ。その一連の動作は儀式のようで、僕も水が置かれるまでは注文しないことにしてる。
「ミックスジュースで」
最初から決まってるから、なんかセリフを言ってるみたいにぎこちなくなってしまった。マスターは、軽くうなずいてカウンターの奥へ戻る。ミキサーが回る音を聞きながら、カバンから英単語を覚えるための単語帳とノート、筆記用具を出す。この店に来ると、暗記物をしたくなる。
マスターがミックスジュースを無言で、滑るように置いていく。
一口飲む。ああ、とオヤジっぽい息が漏れそうになる。うまい。
そういえばミックスジュースの存在を知ったのは、この店だった。大阪では、ポピュラーな飲み物だというのをテレビかなにかで観たことがある。マスターは大阪の人なのかも知れない。生まれて初めて飲んだミックスジュースは、懐かしい味だった。何が入ってるんだろう。ミカン、バナナ、黄桃、牛乳くらいまではなんとなくわかるけど、それだけじゃない気がする。複雑で、でも素朴な味。その上、最近気づいたんだけど、季節とかによって、味を変えてるっぽい。色だって春にはじめて飲んだときより、少し黄色が濃くなってるし。旬の果物を入れたり、分量を変えたりしているのだろう。まじめに作ってくれてる感じがする。
浪人しようと決めたのは、僕だった。現役で合格した大学には行かなかった。世間的には十分名の通った大学だったから、担任やクラスメートから何を考えているんだ、と問い詰められた。問い詰められたけど、本当の理由は話せなかった。何を言っても嘘臭くなっちゃう気がして、結局嘘を言うのも、本当を言うのも同じことだった。そのつど、その人に合わせて納得してもらえそうな理由を話していた。ただ、両親には申し訳ないと思ってるのに、その気持ちと本当の理由を、うまく伝えられない。春からほとんど口をきいてない。
浪人生活は、とにかく「途中」であることが、つらい。乗ってる電車が故障かなにかで止まってしまったときの、あの息苦しさは「途中」だからではないだろうか。親に対してなのか、お天道様に対してなのか、よくわからない圧倒的な引け目感。どこにも属していないことが、こんなにも苦しいなんて。勉強以外は何をしていても「こんなことをしている場合なのか」という罪悪感でいっぱいになる。なんか本末転倒なんだけど、その罪悪感が嫌で勉強に逃げ込んでいる。
さて、と。意識がゆっくりとテーブルの上に向かう。ボールペンで英単語をノートに書く。暗記をするときには、頭で覚えようとするよりも、手に覚えさせるイメージ。何度も何度も書く。徐々に自分が閉じていく。周りの音が聞こえなくなっていく。
「ふぅ」
わざと少し声に出して、息を吐いた。予定していたページまでの英単語を覚え終わった。ゆっくりと音が耳に入り始める。ミックスジュースを飲みながら、また無意識に窓の外のバス停を眺める。
もう外は暗くなりかけている。バス停には、女子高生の2人組と、小学校低学年くらいの男の子が待っている。女子高生2人は、ずっと笑って話してる。もちろん声は聞こえないけど、オーバーな身振りを見れば、まあ、くだらない話なんだろう。楽しそうで、にやけてしまいそうになる。男の子は、うつむいている。ランドセルが大きく見える。
左からバスが走ってくる。視界の焦点を、女子高生と男の子がいる場所に集中する。周りの風景を意識的にぼかす。バスが停まる。僕はその視界のまま、焦点をずらさない。バスが停まる前の女子高生と男の子のイメージが残っている。バスが発車する。そして、彼らは忽然といなくなる……はずだった。あれ、まだいる。女子高生2人だけが姿を消し、ランドセルの男の子は、手品が始まる前と同じ格好で、そこにいた。手品は失敗だった。
変だな。ほかの行き先のバスは来ないはずだから、別のバスを待ってる、ってことはないし。男の子は、道路よりも少し下がったところで、相変わらずつまらなそうにうつむいている。あの子、なんで消えないんだろう。
そういえば、ランドセルって持ってなかったな。
男の子を眺めながら、なんとなくそんなことを考えていた。小学校入学前、僕はランドセルを断固拒否したらしい。僕自身はまったく覚えてないんだけど、多分僕なりの美意識が許さなかったんだと思う。両親は、せっかく買ったランドセルを使わせようと、なだめたり、すかしたりしたけれど、絶対に背負わなかったそうだ。このことは、僕の頑固さを物語るエピソードとして、両親がよく親戚なんかに披露していた。頑固、か。そうなのかもな、と、今度は進路のことを考えながら思う。「なりたいものになりたい」ってだけなんだけど、それをどう伝えればいいのかな。
次のバスがやってきた。男の子は、少し顔を上げて、バスを見ている。今度は、ちゃんと消えるかな。僕はまた焦点を男の子の周りにだけ合わせ、バスが過ぎるのを待つ。
バスが過ぎた。男の子は、また消えなかった。
迷子か、バス停自体を間違ってるんじゃないだろうか。いずれにせよ声を掛けに行ったほうがいいのかな。特に何が起きたわけでもないのに、変な胸騒ぎがしていた。あと1本だけ様子を見よう、と思った。もう残り少ないミックスジュースをすすりながら、次のバスを待つ。男の子の様子はあまり変わらない。男の子はもう30分以上、バス停にいることになる。
次のバスがやってきた。もう、手品はいい。男の子を凝視する。バスが停まる。バスが走り去ったあと、男の子は、また消えていなかった。
消えていない代わりに、父親らしき男の人と、手をつないで楽しそうに歩く後姿に変わっていた。なんだ、あの男の子、バスで戻ってくるお父さんを待ってたのか。よかった。
大きなランドセルが、楽しげに揺れていた。僕は自分の勘違いからくる胸騒ぎや、取り越し苦労がおかしくてたまらなくなった。頬杖をつきながら、小さくなっていく親子の後姿を眺めていた。
不意に「帰ったら両親に謝ろう。そして、なぜ浪人することを選んだのか、何をしたいのかをきちんと話そう」と思った。
入口近くのレジに向かう。
マスターが僕を見て、一瞬だけ「おや」という顔をした。気のせいかもしれない。おつりをもらうとき触れた指は、ひんやりとしていた。
僕はできるだけ丁寧に「ごちそうさまでした」と言って、ドアを開けた。
「カラン」という、いい音がした。(了)
初出:『喫茶キングダム』(2010年)
そんなそんな。