月の輝く夜に✨/ Cafe SARI 番外編

その人のことが気になり始めたのはいつ頃からだっただろう。

僕は大体、毎晩同じ時間に仕事を終え、会社を出るのは10時を少し回った頃。自宅の最寄り駅に着いて駅前のコンビニに寄ってビールとつまみを買う。人の多い駅前通りを歩くのは好きじゃないので、一本入った静かな裏通りをゆっくり歩いて帰る。

金曜日。その店の前を通るとき、月に一度か二度、その人が店から出てくるタイミングで鉢合わせるのだ。

店の前で店主らしき女性とその人が立ち話をしている。店主は笑顔で送り出すときにその人の名前を呼んだ。


「杏子さん、今夜はありがとうございました。またお待ちしてますね!」


キョウコサン……っていうんだ、そっか。


見ず知らずの他人なのに、僕はその人の名前を一度聞いて忘れることができなくなった。

店の名は「Cafe SARI」。ドアの横に掲げてある小さなプレートに刻んである字を通り過ぎざまに素早く頭に入れた。

キョウコサンはいつも一人だった。そしていつも黒い服を着ていた。

女らしさのかけらも無いその出立ちに、僕はなぜか惹きつけられた。黒いパンツスーツにペタンコの紐ぐつ。なのにどうしてこんなにもエレガントなんだろう。真っ赤な口紅のせい? いや、そうじゃない。なんとも言えない、その憂いを帯びた瞳、そして明るく朗らかな女性店主の声とは対照的な、その甘く低めのハスキーボイス。彼女の、その一つ一つのディティールが僕のアンテナに敏感に反応した。これってもしかして……


「沙璃さん、ありがと。また来ます、おやすみなさい」

キョウコサンはいつもそう言って、軽く手を振り店を後にする。

僕はなんとなく、キョウコサンの後ろを5メートルくらい離れて歩く癖がついた。なぜだかわからないけれど、その後ろ姿を見ているとハラハラとして心配になるのだ。どう見ても僕より五つは年上であろうその人。いや、もしかすると十ぐらい離れているかもしれない。昔から、女性の年齢を読むのは苦手で、全く見当がつかない。

というか、別にそんなことはどうでもいい。年齢という数字で人の価値を決めることは僕の美学に反する。この世の女性は全て美しく愛しい。いや、そんな風に思わせるなにかが、彼女を見ていると僕のなかに湧きあがってくる。

僕は果たしてキョウコサンにとって価値ある人間だと思ってもらえるだろうか。なんて。話したこともない人の名前を胸の中で反芻する。


少し後ろを歩いていると、キョウコサンの付けている香水が風に乗って僅かに漂ってくる。やさしく柔らかいその香りは、仕事帰りの疲れた僕の脳内を癒すように清めてくれる。

僕は思わず鼻から大きく深呼吸する。あぁ、いい香りだ。こんな風に見ず知らずの女性の香りに癒されるなんて、僕は自分が変態か頭のおかしいヤツになった気がして少し戸惑う。でもそれはどこか懐かしい、安心する香りだった。


確かそんな偶然のタイミングが何回か重なったある夜、とうとうキョウコサンと僕は言葉を交わす事になる。


ある日の仕事帰り。よく晴れた月夜の晩だった。

いつものようにキョウコサンが Cafe SARI から出てきたところにまた出くわした。

いつものように僕はキョウコサンの5メートルぐらい後ろをゆっくりと歩いた。

今夜は少し飲み過ぎているのだろうか。キョウコサンの足取りが怪しい。フラフラとして右に左に揺れながらトボトボと歩いている。

僕は心配になって思わず歩調を早め、今にも躓いて倒れそうなキョウコサンを、何かあったらいつでもすぐに支えられる距離まで詰めた。

そのとき、突然キョウコサンは立ち止まった。そしてくるりと後ろを振り返り、すぐそばまで近づいていた僕とバチンと向き合った。

僕はびっくりして一瞬怯み、思わずくるりと方向転換して慌てて二、三歩歩き出した。痴漢だと間違われたのかもしれない。僕は身の潔白を示したくて、キョウコサンから離れなければと思った。


「ねぇ、君。ちょっと」

う、まずい。やはりキョウコサンは僕を怪しんでいたんだ。もしかすると今までのことも気づいていたのかもしれない。これはいかん。身の潔白を……

僕は観念してまたくるりと振り返り、キョウコサンに対峙した。

「は、はい。僕でしょうか」

「そうね。周りには誰もいないからね」

月の光がキョウコサンの顔を僅かに照らしている。怒っているのかどうか、細かい表情までは暗くて読み取れない。

「あの、すみません。僕、その、決して怪しいものでは……」

なんと言い訳していいのかわからず、僕はしどろもどろになってしまった。

「うふふ、大丈夫よ。警察を呼んだりはしないわ」

あぁ、よかった。わかってもらえた。僕はホッとして少しキョウコサンに近づいた。

「あなた、いつも私の後ろを歩く人でしょ?」

え、まずい。やはりバレてる!どうしよう。

「あ、あの。えっと。そ、そうかも……しれない……ですね。いや、あの、なんだかいつも偶然に会っちゃうんですよね。キョウコサンが Cafe SARI から出てくるタイミングと僕が……あっ!」

なんで名前を知ってるんだよ。もう、完全にストーカーじゃないか。これはアウトだ。完全に怪しい男だ。これは土下座するしかないか。いや、走って逃げるか。いや、なんで逃げるんだよ。これはチャンスだ。キョウコサンと知り合えるチャンスじゃないのか?どっちだ、どっち……

僕の頭の中はフル回転で天国と地獄をぐるぐる回った。人間あまりにも想定外の出来事に出くわすと、足が動かなくなるんだとそのとき初めて思い知った。


「フハハハハハハ!!」

想定外はさらに想定外のハプニングを連れてくるのか、キョウコサンはなんと大声で笑い転げた。おぼつかない足取りで笑い転げたせいで、キョウコサンはフラフラとバランスを失ってよろめいた。

僕は駆け寄ってキョウコサンの身体を支えた。黒いスーツに包んだその腕は想定外に細く、頼りなげだった。

「大丈夫ですか?」

「あはは、ごめんなさい。ヤダわ私ったら。酔っちゃってるわね」

「今夜はたくさん飲まれたんですね。いつもこんなじゃないのに」

「そうね。よくご存知だこと。私の名前まで知ってるのね」

「あぁ。すみません。あの、CafeSARI から出てくるときに、お店の女性がそう呼んでいたのを偶然聞いてしまって……失礼しました」

僕は深々と頭を下げた。

「何も謝ることじゃないわ。覚えていてくださってありがとう。私は吉澤杏子と言います」

「あ、はい。僕は篠田博己です。時々キョウコサンがあの店から出てくるときに帰りが重なって、ちょっと気になってしまって。あの、ほら、お酒を飲んでいるようだから、なんだか心配で。女性が裏通りを一人で歩いて帰るのは。だからその、なんというか……」

「見守ってくださっていた?危ない不良おばさんが、ちゃんと家まで帰り着くようにww」

「いや、そんな……おばさんじゃないです!キョウコサンは」

「へ? あら。それはありがとう。なんだか嬉しいな。ヒロミくんはいつもこんなに遅い時間までお仕事なの?」

「あ、はい。そうですね。いつもこの時間です」

「ダメだなぁ。こんなに遅くまで毎晩働いてちゃ。奥様がおうちで待ちくたびれてるでしょ」

「あ〜、ハハ。それなないですね。僕、シングルなので」

「あら。それは失礼しました。じゃあ私と同じだわ」


……???これってもしかして、次に会う約束をしてもいいってこと?

僕は一瞬戸惑ったけれど、二人を照らす月の光が応援してくれているような気がして勢いづいてしまった。

「あの、思い切って言いますね。キョウコサン、ずっと気になっていました。今度、僕とデートしてくださいませんか? 」

「あら。驚いた。ずいぶんと積極的なのね。でも嬉しいです。ありがとう。私は多分、あなたよりかなり年上だと思うけれど、大丈夫?」

「僕は女性の年齢は全く気にしません。というか、キョウコサンがとても素敵だから、もっとあなたのことを知りたくなりました。僕のことも知りたくなってくださると嬉しいです。これから少しずつ」


こんな風に始まる恋はきっとどこにでもあるのかもしれない。

そしてこれは、イチゴイチエっていう出逢いかもしれない。

でももしかするとこれは、運命の出逢いというものであるのかもしれない。

どこへ向かって行くのかは僕にはわからないけれど、さっきそのか細く頼りなげな腕を取った時、僕が守りたいと思ってしまったことはきっと気のせいじゃない。

見上げると、初秋の澄んだ夜空に満ちた月が光り輝いて、僕たち二人の始まりに微笑みかけているようだった。

僕は勇気を出して言った。

「あの、手を繋ぎませんか?」

僕の突然の申し出ににっこりとやさしく微笑むキョウコサンは、僕にとっての月の女神に見えた。

あらためて、キョウコサン、どうぞよろしく。



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