見出し画像

コルトレーンの囁き Vol.3

『 コントラスト 』

流れるようなピアノの音色に心を奪われ時間の経つのを忘れていると、いつの間にかすっかり陽は西に傾いていた。冷たい夕刻の風がノースリーブの肌に当たって我に返り、もっと聴いていたい名残惜しさに後ろ髪を引かれながら東の窓をゆっくりと閉めた。

途端に上階のピアノの音が消える。本当にこのマンションの防音設備は悲しくなるほどに完璧だ。ヨーコはもう一度ピアノの音を確かめたくて少しだけ窓を開けてみる。でももう何も聴こえなかった。一瞬で部屋の中がモノトーンと化す。いつもの日常に戻ると、ひとりの部屋に流れるコルトレーンは先程のハプニングなどなかったように聴き慣れたメロディを悠然と奏で続けた。

ヨーコは夢から覚めたように我に返り、冷えた体に気づいて無性に熱い物が飲みたくなった。コーヒーを入れるためにお湯を沸かす。カリカリと音をたてながらコーヒー豆をゆっくりとミルで挽く。自分のためだけに選んだのはチョコレートの香りがするモカ イルガチェフェ。ヨーコの大好きな、エチオピアの深く甘いフレーバーだ。

時間はたっぷりとある。こうして何気ない日常のひとりの時間を、何をしても何もしなくても、心の赴くまま好きなように過ごすことに至福の喜びを感じる。それは今のヨーコにとっては一番の楽しみであり、生きていると実感する瞬間だった。思えば結婚していた頃は自分のためだけの贅沢な時間を味わうことなどなかった。それがいかに大切なことであるかは、その渦中にあっては気づかない。自分が何を好むか、どんなことに興味があるか、何をしているときが自分らしくハッピーでいられるか…… 当時はそんなことを改めて考えたことすらなかった。

魂の囁きに耳を傾ける。心のなかに灯る光を見逃さないように目を凝らす。日々の暮らしのなかで、気付かないうちに忙殺された大切なことがたくさんあった気がする。心に蓋をして向き合ってこなかった分、ひとりになってからというもの、こんな風に自分のためだけに過ごすひとときをヨーコは大事にしたいと思うようになった。


時間をかけて丁寧にドリップしたコーヒーをお気に入りの器に注ぎ、リビングに運ぶ。その味と香りを存分に楽しもうとした時、部屋のチャイムが予想外に大きな音を立てて鳴った。

心臓が跳ね上がって手にしたカップを揺らしてしまった。ソーサーに熱いコーヒーがこぼれる。舌打ちしたい気持ちでサイドテーブルに置き、ヨーコは急いでドアフォンを取った。


「 はい…… 」

てっきり宅配の荷物だと思い、せっかく入れたコーヒーをこぼしてしまった苛立ちで、いつもよりワントーン低い不機嫌な声が出た。


「 あ……すみません。上の階の者です 」

人は想定外のことが突然起こり、余りに驚くと言葉を失うらしい。しばらく無言のままどう返事をするか答えを探しあぐねていると、再びドアの向こうの見知らぬ男の声が耳元に響いた。


「 あの…… 先週、上の階に越してきた佐倉といいます。ご挨拶が遅れてすみません 」


「 あ、はい。えっと…… どうも。 あ、ちょっとお待ち下さい。今開けます 」


ヨーコは一瞬そのままドアフォン越しの挨拶だけで済ませるかどうか迷った。その間ほんの数秒。しかし次の瞬間、ドアを開けてその声の主をどうしても見てみたいという気持ちが強く湧き起こった。今しがた、コルトレーンのサックスに合わせてピアノを奏でていた人物がその人かどうかを、どうしても確かめたい衝動にかられた。



ドアを開けるとそこに立っていたのは想像よりも遥かに若い青年だった。年の頃は20代半ばといったところか。ヨーコが見上げる程の目線、背丈はおそらく180センチ以上はありそうだ。細身だけれど広い肩から二の腕にかけてしっかりと筋肉のついた体躯に、今どき流行りのオーバーサイズの真っ白いパーカーにブルーデニム。その色のコントラストが眩しかったのか、それとも青年の瑞々しい若さに面食らったのか。ヨーコは突然目の前に現れた衝撃に軽い目眩を覚えながらも、至近距離で真っ直ぐに見つめてくる仔犬のようなキラキラ光る瞳に釘付けになった。

美しい青年だった。存在自体が現実とは別次元の澄んだ空気感を纏っていた。こんなにも一瞬で人を惹きつけるなんて。ヨーコは青年の澄んだ瞳から目を逸らすことができず、これまで感じたことのない特別なエネルギーを突然見せつけられたようで狼狽えてしまった。少しクセのある前髪が右半分の顔にかかり、彫りの深い優しい目元に影を作っている。しかしその憂いを帯びた目元とは対照的に、口許には幼い子供のように無邪気な微笑みを湛え、何か言いたげな様子が伺える。

白と青。光と影。静寂と躍動。成熟と未熟。あらゆる対極のコントラストに包まれた謎の人物は、圧倒的な存在感をもって何の前触れもなく目の前に現れた。このときのことをヨーコは後になって時々思い出す。それはまるで長い時間ひとりでもがき苦しんだあとに突然届いた、神様からのギフトのような出逢いだったと。これを運命と呼ぶのだとしたらそのインパクトは十分すぎるほどに鮮烈な驚きをもってヨーコに与えられた。


「 えっと…… とてもいい香りですね 」

「 は?」

「 あの、いえ、コーヒー? ……ですか? 」

「 ……え、あぁそうです。今入れたところで 」

青年は目を瞑ってゆっくりと味わうように大きく息を吸った。

「 凄くいい香りだ…… 」

「 はぁ…… あ、よかったら召し上がりますか? 」

「 え?  いいんですか?  いや、でも…… えっとぉ…… はい、嬉しいです!」


いきなり見ず知らずの他人を部屋に入れることなどこれまで一度もなかったが、多分自分より十以上は若いであろうその青年のあどけない雰囲気が一人暮らしの警戒心を容易く解いた。そしてやはり先ほどの即興のピアノセッションが気になって仕方がないヨーコは、それを確かめるためにもこの青年とどうしても話をしてみたくなった。


リビングに招き入れ、佐倉と名乗った青年を部屋の中央に設えた二人掛けのソファーに促す。言われた通り大人しくそこに浅く腰掛けてしばらくはキョロキョロと部屋の中を眺めていたが、新しく入れたコーヒーを手渡すとはっとして我に返り、恥ずかしそうに下を向いて小さく礼を言った。嬉しそうにやさしい笑みを湛えながら大切な宝物を扱うようにして慎重に器を受け取った青年の柔らかな所作に一瞬どきりとする。すっぽりと包み込むようにしてカップを持つ長く美しい指に思わず見とれて目が離せない。

ヨーコは突然の来訪者に自分の忙しなく揺れる心を持て余し、青年の座った位置から少し離れた窓辺にある一人がけの椅子に静かに腰を落ち着けた。まるで早鐘のように鳴り響く自分の鼓動が相手にも聞こえるような気がして、少し距離をとって青年に対峙した。

何故こんなにドキドキしているのだろうか、私は。落ち着け。ずっと年下の、まだ子供の面影を残すような青年を前にして何を焦っているのだ。


「 佐倉さん? でしたね。初めまして、水橋ヨーコです 」

「 あ、はい。初めまして。僕は佐倉ユウリといいます 」

「 ユウリくん、もしかして…… ピアノを弾く? 」

ユウリは驚いたように一瞬固まったが、みるみる顔を紅潮させたかと思うとペコリと頭を下げた。

「 すみません。やはり響きますか?なるべくヘッドホンをして弾くようにしているんですが。このマンションは防音がしっかりしてると聞いていたもので…… ちょっと油断してました 」


やはりそうだ。この人だったんだ。

謎が溶けたのと先ほどの素晴らしい音の主が目の前にいることでヨーコの心は少女のように躍動した。

「 いいえ、うるさくなんてないの。全然気付かなかったから。その、さっきまでは…… 」

そう言ってユウリと視線を合わせると、通じ合った者同士の安堵のようなものをお互いに感じて自然と微笑みがこぼれた。


「 ジャズ、お好きなんですか?さっきコルトレーン聴いてましたよね? 」

ユウリが嬉しそうに尋ねる。

「 ええ、好きと言っても別に詳しくはないのよ。ただ、ずっと聴いていたいというか、家にいるときはいつもジャズを流しているの。落ち着くし、リラックスできるし、常に側にあるという感じね 」

ヨーコの答えに嬉しそうに満面の笑みを浮かべて、ユウリは大きく頷いた。

「 そっか、そうなんだ。うんうん 」

妙に納得したように何度も頷き、ユウリは先ほどヨーコに振る舞われたコーヒーを一口飲んだ。

「 うわっ、このコーヒーめちゃくちゃ美味しい!」

「 そう、気に入った? ならよかった。先ほどの素敵なピアノのお礼です 」

「 あ、そうだ。ご挨拶にこれを…… お好きかどうかわからないけれど 」

そう言って差し出したのはヨーコの好きなフルボディのボルドーワインだった。

お互いに自分のお気に入りのプレゼントを交換したような気分になって微笑みあった。いくら若いとはいえ相手は異性だ。なのになんだか懐かしいような、まるで自分も20代の女子に戻ったような錯覚に戸惑う。とても新鮮な気分になったヨーコは目の前の青年ともっと話したくなった。こんな風に人と向かい合って話をしたくなったのはいつぶりだろう。突然目の前に現れて、いきなり部屋に入れて、話し始めてまだ何分も経っていないのに。ヨーコは自分自身の身に何が起こったのかもよく分からないまま、それを少しも変だと思わない不思議な感覚に身を委ねてみることにした。心の求めるままに。気持ちの赴くままに行動する。それは離婚してひとりになってから、意識的に心掛けて練習してきたことだった。その先に広がるまだ見ぬ新しい景色を見るために。それはきっと自分の人生を歩むということに繋がるのだと信じていた。



ユウリは学生だった。年齢は25才。幼少のころからクラシックピアノは習っていたが、いつかはやってみたかったジャズへの憧れをずっと捨てきれなかったという。大学を出た後に一旦は父親の経営する会社の関連企業に就職したものの夢を捨てきれず、やはり音楽の道に進みたいと自分の意思を告げるも母親からの猛反対にあった。しかしその意思を押し通して音楽の専門学校に入り直した。もう後がない立場に自らを置き、心身ともに独立すべく決意を新たに実家を出た。ユウリは自分の身の上話とその固い決意を、熱い情熱とともにヨーコに伝えてくれた。一生懸命に言葉を選びながら話すユウリにヨーコは無条件に惹かれていくのを感じた。


「 ひとり暮らし、初めてなんですよ。知らないことが多過ぎてなんだか色々と不安で…… 」

「 そう、私でよければ何でも聞いてください。少なくともあなたよりは色んな経験を積んでると思うから 」

「 ありがとうございます。嬉しいな。とても心強いです。あの、もしよかったら水橋さんのことも教えてくださいますか? もちろん、話せる範囲で構いませんけど 」

ヨーコは自分の身の上話をどこまで話すか少し考えた。若い青年に離婚の話というのはどう考えても言いにくいし相手も戸惑うだろう。その辺りはやんわりと避けて、ヨーコの仕事である銀座の美術商の話や、このマンションでの暮らしと生活に役立つ周辺の情報など、プライベートにはあまり触れずに差し障りのないことを一通り話して聞かせた。ユウリは目を輝かせながら興味深くヨーコの話を聞いていた。そのユウリの受け答えの言葉や態度から、自然と滲み出る育ちの良さと素直な性格が垣間見れた。改めてヨーコは初対面のこの青年を部屋に入れたことを後悔せずに済んで胸を撫で下ろした。それどころか、もっと話したい欲求が自然と二人の間に沸き起こるのがとても不思議で嬉しかった。二人はお互いに自分のことをたくさん話したくなった。目の前にいる知り合って間もないその人に、自分のことを聞いてほしい、理解してもらいたいという衝動に駆られ、その思いが言葉となっていくらでも溢れ出てきた。


しばらくの間、二人は時間を忘れて話し込んだ。共通の話題はやはりジャズの話だった。ヨーコは今一番よく聴いているのはジョン・コルトレーンとビル・エヴァンスだと言うと、ユウリはどういうところが好きなのかをヨーコに問うた。古き良き時代の心躍るスウィングやビバップもいいけれど、現代の洋楽から自然な流れで興味を持ったヨーコが好きなのは都会の香りがする洗練されたビル・エヴァンスのピアノや、フリージャズの自由な演奏が魅力のコルトレーンのサックスだった。ヨーコにとって彼らのナンバーを聴くことは、まるで一編の恋愛小説を読んだり情緒的な映画を観るような感覚だった。物語が見えてくるようなメロディライン、美しくも切ない旋律はヨーコにどれほどの慰めと希望を与えてくれたか計り知れない。この十年、ヨーコの支えになったのは人との触れ合いや刺激ではなかった。生きていていい、そのままでいいと思わせてくれたのは、孤独なひとりの時間に語りかけるようにして寄り添ってくれたジャズの調べだった。心の欲するままに、必要とするものだけを自由に選びたいと願うとき、自然とそこに流れるのはコルトレーンのサックスやビルのピアノだった。感性を研ぎ澄ますように没入すると、その調べは言葉巧みにヨーコに語りかけてきた。それらは時に泣きじゃくる子供をあやすように優しく、時に挫けそうな同志を励ますように厳しく。落ち込んだときには何も語らずに寄り添う古い友人のように側にいてくれた。ただいつもそこにいて見守ってくれている。ヨーコは自分自身にとってのジャズの存在をユウリに向かって語りながら自らも深く再認識するのだった。

そしてこの部屋に招き入れた初対面の青年に対して何の違和感もない自分を酷く滑稽に感じながらも、ヨーコのお気に入りのコーヒーを嬉しそうに飲んで無邪気な笑顔を見せるユウリといる自分がとてもリラックスしていることに気がついた。そこにはとても心地よい空気とゆったりと流れるやさしい時間だけがあった。


自分の目指すジャズの話をするユウリには音楽に対する一途な熱い思いを感じた。ヨーコは今のユウリと同じ25才の過去の自分に想いを馳せてみた。既に社会人でひとり暮らしはしていたものの、まだまだ世間知らずの子供だった。こんな風に熱く語れるものなど何もなかった。覚悟もなければ信じるものもない、ただ楽しいことだけに時間を費やす漠然とした毎日を過ごしていた。今から考えるとそれは取り返しのつかない無駄な時間だったのかもしれないと思う。その若さと情熱をもって初めて成し遂げられることがきっとあったはずだ。そして今、目の前の志高き青年のために自分がもしなにかの役に立てるのなら、可能な限り力になりたいと素直に思った。それは何故なのか、その時のヨーコにはまだよく分からなかった。ただ、ユウリの持つ純粋で熱いエネルギーに自分も少しでも近づきたい気がした。もう一度人生を懸けて何かを成し遂げることに力を尽くしてみたいような、大切な何かを掴みかけているような。言葉に表すには漠然としすぎているその思いは、ヨーコがこれまで味わったことないとても新鮮で不思議な感覚だった。


- 続く -


*この物語はマガジンにまとめています。一話から十話まで全てお読みいただけます。



#連載小説 #過去作品リライト #小説 #自由 #再生

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?