コルトレーンの囁き Vol.4

『涙のわけ』

コルトレーンのサックスはその日の心理状態で全く違った音色に聴こえる。

いわゆる「シーツ・オブ・サウンド」と呼ばれる高速アレンジは要注意だ。心身ともに元気な時はいい。次々と押し寄せる波の上を悠々と駆け抜けるサーファーにでもなった気分で気持ちよく乗れる。しかし落ち込んでいる時や弱っている時は真逆の効果だ。次々と押し寄せる音の波に飲み込まれ、回転する渦の中でもがき苦しむような錯覚を覚える。テクニックが冴え渡る早口のお喋りはイライラした感情を昂らせ、神経を逆撫でし、こめかみの辺りをキリキリと締め付けてヨーコは思わず音量のボリュームを絞ることさえある。その一方で、ゆったりと歌うようなバラードのナンバーはいつも心を穏やかにしてくれる。そのメロディーを寂しい夜に聴くと、まるで古くからの親友と肩を寄せ合い、温かい想いに包み込まれているような感覚を覚える。ヨーコはこの三年間、幾度となくその音色に慰めてもらったものだ。

聴く側のその時の状態によって音色が様々に変化する。それはある意味、自分自身の心を映す鏡のようだと感じるのだった。

これこそがジャズの真髄のような気がしてならない。ジャズは生き物。演奏する側も聴く側も、その瞬間の感情をぶつけ合う。そこには音楽理論に基づいた確固たるセオリーがありながらも、その場のインプロヴィゼーション(即興)でどこまでも独自の演奏を広げてゆける世界。閉じ込められたもの、固まった思想からの解放。なんて自由。なんて魅力的。人間味溢れる音楽。その精神こそがヨーコがジャズを愛する理由だった。



上階に越してきたユウリと出逢ってひと月が経った。梅雨に入って長雨が続き、ヨーコは益々仕事以外に外へ出掛けなくなった。できるだけ部屋にいたいのは、雨の日の外出が億劫なだけが理由ではない。仕事の日でもなるべく早く帰宅した。それは初めて会ったあの日以来、ユウリがよくこの部屋に遊びに来るようになっていたからだ。

ユウリは昼間、音楽の専門学校に通っていた。大学卒業後に就職してからのニ年間で貯めたお金はあったが、将来の夢のためにもなるべく減らさないように、そしてピアノのテクニックを磨くために、夜はピアノバーで弾き語りの仕事を始めた。明けても暮れてもピアノ三昧の日々はユウリを生き生きと輝かせた。やりたいことに集中できる環境をようやく手に入れたのだ。夢はまだまだ先にあるが今はこうして毎日技術を磨きながら、しっかりと音楽の基礎を学ぶことで少しずつその夢に近づいていると実感しているようだ。それはヨーコにとっても自分のことのように嬉しかった。

授業やバーでの仕事がない日には、どちらが誘うわけでもなく、気付くとユウリはヨーコの部屋を訪ねてきた。授業の進み具合やバイト先での出来事をいつも楽しそうに話して聞かせてくれた。ユウリはぐんぐん伸びる新緑の青葉のようで、その成長著しい様子はヨーコの目にとても逞しく眩しく映った。充実した毎日を送るユウリのそばにいると心が浮き立ち、自然と力が湧いてくるのだった。


ユウリはこの部屋へ来るようになってから始めた料理にも楽しみを見つけたようだ。ヨーコは、二人で作って食べる食事はこんなにも美味しいものだと初めて知った。それは新しい発見であり、新鮮な驚きだった。ヨーコが教えた通り、ユウリは器用に何でも拵えた。気分が乗ってきた時はヨーコが手伝う事を拒んで最初から最後まで一人で何品もの料理を完成させた。それを二人で味わうとユウリは味の感想を聞かせてほしいとせがんだ。ヨーコのために心を込めて作ったものは、決して豪華な食事ではなかったけれど、全てが愛情に満ち溢れていた。なんだって美味しいに決まってる。言葉になんてできない、ただひたすら美味しいとユウリに伝えると、少し不満げな顔をしながらも心の底から溢れ出る喜びを抑えきれずにとびきりの笑顔を見せてくれる。そんなユウリの素直で嬉しそうな顔を見るのが至福の時だった。そして気づくといつもそばにいるユウリはヨーコにとってかけがえのない存在へと少しずつ変化して行った。


「 ヨーコに僕の料理を食べてもらったりピアノを聴いてもらうと元気になれるんだ。喜んでくれるのがとても嬉しいよ。僕は音楽で人を癒したいし、何か嫌なことがあっても少しでも気分良くなって前を向いてくれるきっかけになれば、それ以上はないもいらない。それしか僕ができることはないからね 」


ユウリはいつも自分の部屋から小さなキーボードを持ってきて、ビル・エヴァンスやレッド・ガーランドのナンバーを自己流にアレンジして弾いてみせた。ヨーコの好きな曲を自由自在にアレンジした演奏はオリジナルのそれよりもさらにいいと感じた。そこにはユウリにしか出せない音があった。若さゆえか、少々打鍵が強すぎて、リズムを刻むパーカッションまで同時に演奏しているのかと思うような弾き方も、ユウリ独自のグルーヴになった。弾けるパッションはジャズの世界観を生で体現するライブの醍醐味だ。ヨーコは今まで以上にその音楽の魅力にハマり、ユウリによってジャズの違った楽しみ方を教えてもらえた。そんな日常のひとときは心を和らげ、いつしかユウリの存在が無くてはならない癒しになっていた。


「 僕にとってのジャズは…… 」

ヨーコが何気なく問いかけた言葉に対してそう言ったきり、どこか遠くに視線を投げるようにして黙り込んだ。


「 確かユウリは小さい頃からピアノを習っていたのよね?」


「 ああ、親に勧められてね。僕は何も考えずにただレッスンの後のご褒美が嬉しくてやっていたんだ 」


「 ふふ、子供らしくていいね。美味しいお菓子とか、おもちゃとか?」


「 うん。それもあるけど、僕がうまく弾けると母が喜んだから 」


「 褒めてくれたのね。それはとてもやる気が出るわね。いいお母様だわ 」


その言葉になぜかユウリは表情を曇らせ、下を向いたまままた黙り込んでしまった。

しばし沈黙が二人の間に流れる。今日のコルトレーンは乾いた心に染み入る涙雨のように、どこか切なく、沈んだ心を慰めるようなやさしい音色に聴こえるのだった。


「 本当は嫌で嫌で仕方がなかったんだ 」


窓の外に視線を投げたユウリがポツリと呟いた。

ヨーコは何も言わずに次の言葉を待った。


「 とにかく、母の言う通りにしていれば楽だったんだ。欲しいものは買ってもらえるし褒めてもらえる。でも本当はちっとも楽しくなんてなかった。ピアノなんて大嫌いだったよ 」

堰を切ったようにそこまで言うと窓の外を見ていた視線をゆっくりと移動させてヨーコを見つめた。焦点の定まらない揺らぐ視線はまるで出口のないトンネルの中を覗いているかのように見える。光の見えないその瞳は、言い様のない不穏な翳りをたたえていた。


 この目、どこかで見たことある……


ヨーコは自分の過去に思いを馳せた。自分を殺して生きていたあの頃。嬉しいのか悲しいのか、楽しいのか辛いのか、生きてるのか死んでるのかさえわからなかった日々。自分の思考はそこには無く、感情の蓋は閉じたままだった。思考と感情の回路はわざと繋げないように、自分の心を認識する作業を完全に放棄していた。


しばらく二人は黙って見つめ合っていた。そこに言葉は要らなかった。光のないユウリの目にあの頃の自分を映していた。その目は所在なげに、迷子の仔犬のような頼りない表情でヨーコを見つめ続けた。まるで正解のない問いの答えを欲しがる子供のように。

ヨーコは椅子から立ち上がると、ソファに浅く腰掛けているユウリの前にゆっくりと近づいた。膝と膝がぶつかる。

目の前に立ったヨーコを下から眺める目にはうっすらと涙が光っていた。ヨーコは優しくユウリの頭を抱えるように抱きしめた。涙に濡れた瞳はヨーコのあたたかな胸に埋もれ、反射的に頼りない両腕がヨーコのからだを包むように絡みついてくる。お互いの体温を確かめるように抱きしめ合った。それは男と女という感覚とは違う、性別も年齢も越えた人間同士の労りあいであり、慰めあいだった。そこにあるのは純粋な「愛」だけだった。目の前のこの人をただ救いたい、幸せにしたいという思いだけだった。

雨は静かに降り続いていた。部屋の中のふたりを、コルトレーンのサックスが優しく包み込む。抱きしめあっていると、ふたりの心の中に流れる共通の思いを感じ取ることができた。それは絶望から脱出した先にある何かを掴みかけているようにも見えるし、先が見えない不安の只中にいる心細い根無草のようにも思う。しっかりと大地に足をつけて立っていないと今にも吹き飛ばされそうだ。その時、ヨーコの中にこれまでに抱いたことのない感情の灯火が生まれた。熱く燃え始めた確かな光はヨーコの中心にとても強いエネルギーとして沸き上がってきた。


自分の頬をユウリの頭に当てがうと、暖かなお日さまの匂いがした。静かにその香りを深く吸い込む。そして小さな子供をあやすように優しく髪にキスをして指に絡めるようにして撫でた。

守りたい…… この感情は何なのだろう。ヨーコは自分に問う。ユウリにしか成し得ないことがある。それが何かはまだわからない。けれどユウリの持つ情熱と可能性は、決して他からの力によって潰されてはならないと強く思う。ユウリの世界観を、ユウリの志を、ただその思いのまま真っ直ぐに成し得なければならないと強く感じた。それはヨーコ自身の願いに変わろうとしていた。そして何としても力になろうと決意した。この目の前の青年の希望が叶えられることが、自分の心を強くしてくれる。信じることを再び思い出させてくれる。その先にはきっと、ヨーコ自身が望む世界が待ち受けているような、永遠の安らぎと幸せを手にすることができるような気がした。目を閉じて、永遠の世界を想像してみる。そこにあるのは何なのだろう。桃源郷のような理想の世界に想いを馳せる。憎しみも、苦しみも、ネガティブな想いが何もない世界。存在することをただ肯定していい世界。そこにあるのはきっと、お互いを思い合う愛だけなのだろう。辿り着けるだろうか。ユウリと一緒に遥か彼方にある理想の世界に。


ヨーコの胸に顔を埋めたまま、ユウリは泣いているようだった。時々鼻をすすりながら声を出さずに震えていた。ヨーコはしばらくその姿勢を崩さずにいた。今、目の前にいるのはあの頃の自分だと感じた。声を出さずに、涙を見せずに泣いていたあの頃の自分とユウリを重ね合わせ、懺悔の気持ちを込めていつまでもその存在を抱きしめていた。そして、今腕の中で苦しんでいるユウリの中に燻る悲しみを、いつか必ず取り除いてあげたいと思うのだった。


ー 続くー

  

*この物語はマガジンにまとめています。一話から十話まで全てお読みいただけます。



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