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コルトレーンの囁き Vol.6

『 過去 

五月晴れとは今日のような日のことを言うのだろう。梅雨入りしてからというもの、連日続いていた雨がようやく止み、今日は久しぶりの快晴だ。たまには街に出ないと世の中の流れから遠退いてしまう。ヨーコはしばらく出掛けていなかった青山から表参道辺りを散策したいと言ってユウリを連れ出した。本当は先日の涙を見て以来、塞ぎがちだったユウリの気持ちを、外に出て少しでも紛らわすことができればと思ったのだ。

梅雨明けを待てないとばかりに、夏のような太陽がジリジリと容赦なく照りつける。日焼けを避けたい年頃のヨーコにとって、強い紫外線は大敵だ。しかしユウリはそんな事を構う気遣いは微塵もない。若さとはそういうものだ。梅雨の晴れ間の輝く緑と爽やかな外気に触れたユウリは少し気分も晴れたように見える。隣を歩くヨーコにとっては強すぎる日差しを避けるため、木陰を探して外苑前の銀杏並木を歩こうと提案した。


「 この道、気持ちいいね。秋はここが黄金色に染まるんだよね。その頃また一緒に来ようよ 」

無邪気にはしゃぐユウリを眩しく眺める。こうして少し先の未来を約束できることに心が弾んだ。黄金色に染まったこの銀杏並木を二人で歩くことを想像してみる。その季節の前には夏が来る。夏の前には梅雨が明ける。逆算するようにしてそこに至るまでの一日一日が一気に色づき始める。今よりほんの少し先の未来。その楽しみを一緒に分かち合いたいと思える人に出逢えた喜びを、ヨーコはひとり密かに噛みしめていた。

だけど期待はしない。大切に思う相手であればこそ、その人に余計な荷物は背負わせたくないと思う。それは一回りも年上の女の心得として、いつも自覚していようと心に刻んでいた。もしもユウリに年相応の可愛い人が現れたらすぐに身を引くつもりでいる。自分のような人間が側でウロウロしていてはユウリの将来には邪魔でしかない。求められることは何でもしてあげたいけれど、それはあくまでも自分がそうしたいからであって、見返りなどは全く考えない。こうして一緒に過ごす時間がこの先どれくらいあるのかは分からないけれど、ほんの少し先の未来の約束があるだけでヨーコは満足だった。それが叶えられるかどうかは別として。


「ねえ、お腹すいたよ。ここ、入ってみない? 」

銀杏並木の通り沿いにあるレストランは以前一度来たことがあった。あれはまだ結婚していた頃に元夫と来たのだ。一瞬戸惑ったが、今となっては何の思いもない。今日またここでユウリと楽しい時間を過ごせたら、過去の思い出など何の影響もなく、ここでの記憶は簡単に塗り替えられるだろう。ヨーコは自分の心を試してみたい気持ちも相まって、ユウリとその店に入ることにした。 


・・・・・・・・


ゆったりとした店内でメイン料理をそれぞれ選べるプリフィクスのコースを味わった。ヨーコはスズキのポアレ、ユーリは牛フィレ肉のソテーを選んだ。こんな風に外で時間をかけて食事をするのは久しぶりだ。以前に聞いた話だと、ユウリは子供の頃から母親と二人でよく外食をしたと言っていた。家の中の寂しい雰囲気の中で会話もなく味気ない食事をするより、外に出ることで母親の気分がその時だけでも晴れるのを子供ながらに敏感に感じ取れたという。美しく装い、気分よく過ごす母親を見ていると、ユウリ自身の心も穏やかに落ち着いて、きっと安心したのだろうと想像する。


一方ヨーコも、プライベートで男性と食事に出掛けるのはこんなに気持ちが上がるものなのかと再認識するのだった。それは目の前にいるユーリが、とても大切で愛しい人だからに違いない。心が浮き立ち、華やいでいるのが自分でも分かる。こんな時間を持てることに心の奥底からじわりと嬉しさが込み上げてくる。


真っ白なテーブルクロスの上に運ばれてくる一皿ずつをゆっくりと味わう。磨きあげられたシルバーのカトラリーが整然と並んでいる。店内の計算された照明や美しく飾られたウェルカムフラワーが華やかな空気を演出し、ここで過ごす時間をさらに特別なものにしてくれている。

ふと周りを見渡すと、どのテーブルも若いカップルだと気づいてヨーコは少し気持ちが揺れ動いた。あの人たちの目には私たち二人がどのような関係に映っているのだろう。自分の年齢があと十才若かったらと、ヨーコはこれまで感じたことのない思いに戸惑いの気持ちを隠せないでいた。

気にし過ぎなのだと分かっている。誰も自分のことなど見てはいない。余計なことを考えず、この時間を存分に楽しもうと、揺れる心の軸を戻すように目の前に座るユウリに微笑みかけた。

椅子の背もたれから少し離した背中を真っ直ぐに美しく保ちながら、落ち着いた様子で座るユウリに視線を集中させる。こうして改めて見ると、潤う新緑のようにその身体から放たれるエネルギーが眩しくて、ヨーコはしばし見とれてしまうのだった。

舞台上で演奏するときもきっとこんなふうに美しい姿勢でピアノに向かうのだろうと想像してみる。タキシードを着て優雅にショパンを弾くユウリはさぞかし神々しいに違いない。でもそれは彼が望むことではなかったと言う。持って生まれた才能を持て余しながら、どこへ向かっていけばいいのかわからなかった幼い日のユウリが今目の前にいたとしたら、自分は一体どんな言葉をかけてあげられるのだろう。

答えは自分の中にしかない。ヨーコは今までの人生を振り返って思う。それはようやく我に返ったようにあらゆる感覚が戻ってきた今だからこそ実感することだった。ユウリが今もがき苦しむことは長い目で見たらきっと必要な時間なのだと思うと、ただそばにいて迷う心に寄り添うことぐらいしか自分にできることはない。この若く美しい青年が、もがきながら進んでいく道を少しでも明るく照らすことができたら。それだけできっと自分は十分に幸せなのだと改めてその願いを心に刻んだ。


「よし、前菜に出てきた真鯛のカルパッチョ、今度家で再現しよう。僕がヨーコのためにディナーコースを作るよ 」


「 本当に? それはうれしいなぁ。じゃあ、いい素材を仕入れにいかなくちゃね 」


今日は出かけてきて良かった。元気を取り戻したように見えるユウリの笑顔を見て、今日の太陽とこのひとときに感謝した。

ドルチェの後のエスプレッソを飲みながら寛いでいると、背後のテーブルに新しい客が通された気配がした。背中越しに聞こえてきた若い女の不機嫌そうな声が耳について、ヨーコは夢のような時間から一気に現実の世界へと引き戻された。そしてこともあろうに後ろの席の二人は、椅子に座るなり何やら小競り合いを始めた。


「 こんなのじゃなくて、もっと大きいのが欲しいって言ったじゃない 」

「 なんだよ、ダイヤなんてどれも同じだよ。それだって結構したんだ。君が簡単に買えるような代物じゃないんだぞ 」


一瞬、息が止まった。聞き覚えのある声に身体が反射的に硬直する。後ろを振り返るかどうか躊躇っていると、向かいに座るユウリが強ばった様子のヨーコの異変に気づいた。


「 ヨーコ?どうかしたの……  」

声を出さずに首を降ったが遅かった。

背後から男がわざとらしく大きな声で話しかけてきた。


「 あれぇ? 誰かと思った。何年ぶりだよ、ヨーコじゃないか 」


現実を受け入れたくなかったが、認めざるを得なかった。3年ぶりに会う元夫だった。やはりここへ来たのは間違いだったか。ヨーコはその瞬間この店に入ったことを激しく後悔した。さっきまでの鮮やかな時間が一気に色を失う。胃の辺りがギュッと掴まれるように痛み、血の気が引いていくのがわかる。ヨーコは動揺を隠すように、わざと抑揚のない声で応えた。


「 あら、お久しぶり。こんなところで会うなんてね 」


振り向くとそこには元夫と、その向かいの席にはとても不釣り合いな若い女が座っていた。そのせいか、3年ぶりに見る男は随分と老けて見える。若い女はその年齢には不似合いな、一目でマダム向けの海外ブランドだとわかる煌びやかな服を着ていた。昼間のランチデートにしては化粧も濃い。髪もプロの手で作り込まれたものだとわかる。ヨーコは結婚していた頃の夫の浮気癖を思い出した。嫌な記憶が蘇ってくる。非常識なほどに場違いな女の甘ったるい香水が、店内にいる他の客にも迷惑なほどに漂っている。周りの客たちがあからさまに冷たい視線を女に送っているが他人の視線など全く意に介さず、若い女の注意は不敵な笑みと共にヨーコに向けられた。


「 ねえ、だあれ?その人 」

「 別れた妻だよ。前に話したろ、俺を裏切った張本人だ 」

「 へえ~~、この人なんだぁ 」


女の目が俄然輝きだす。格好の獲物を見つけたとばかりに品のない好奇心を隠そうともしない。その不躾な視線が真っ直ぐヨーコに突き刺さった。


ヨーコは反射的にユウリの顔を見た。離婚の理由はユウリには何も話していなかった。

話の内容で全てを察知したのか、ユウリは手を上げてウェイターを呼んだ。


「ヨーコ。出よう 」

「 あ、ええ、そうね。行きましょう 」


ユウリはテーブルで素早く支払いを済ませると、二人には一切目もくれず、元夫の横を通りすぎて足早に出口へと向かった。あとについて行こうとするヨーコに向かって男は追いかけるように大きな声を出した。


「 今度は随分と若いのを捕まえたんだな。一体どこで見つけてきたんだ? 」

連れの女がケラケラと下品な笑い声を立てた。

「 そんな…… 彼は…… そんなんじゃないわ 」

ヨーコはその場で身体が硬直し、頭の中が真っ白になって咄嗟になんと言い返せばいいのか分からなくなった。恋人ではない。かと言ってわざわざ友達だと言うのもなんだか言い訳がましい。第一、今は赤の他人の男に何を言い訳する必要があるだろうか。ヨーコが言い淀んでいるとユウリが怪訝な表情で戻ってきた。


「 どうしたの、ヨーコ  行くよ 」

男は無遠慮にユウリを上から下まで舐めるように見定めたあと、嘲笑うかのように言った。

「 君、この女をパトロンにするのはお勧めしないな。そんな余裕は全くないはずだからね 。あまり期待しないほうがいいぞ 」

連れの女が物見遊山のように面白がって男とユウリを見比べている。

ユウリは男と視線を合わせることなく、真っ直ぐにヨーコを見つめたままで言った。

「 パトロンなんかじゃありませんよ。僕は今、彼女に正式に付き合って欲しいと申し込んだんです。まだその答えはもらっていませんけどね。きっと良い返事をくれると思います 」

・・・ヨーコ、僕だけを見て。僕を信じて。何も心配はいらないよ・・・

ユウリは心の中で呟くと、ヨーコの手を取り、男を振り切るように足早に店を後にした。


ー 続く ー


*この物語はマガジンにまとめています。一話から十話まで全てお読みいただけます。


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