コルトレーンの囁き Vol.5

『シルバーグレイの心』

涙のわけは聞かずにいた。そこには言葉にできない何かを感じたから。言いたくなる時がきたらその時に思う存分聞いてあげたいと思った。

本当に辛いとき、人はそれをなかなか言葉には出せない。何が苦しいのか、どうして欲しいのかなんて簡単に言語化できるようであれば、もう出口は見えている。あとは吐き出すだけ吐き出してしまえばその思いは綺麗に葬り去ることができるだろう。その原因を探り当て、正面から向き合い、問題に対峙するまでが時間がかかるのかもしれない。だがそれは他人がどうこうできるものではなく、あくまでも自分にしか成し得ないとヨーコは身をもって知っていた。


「 ごめん…… 」


「 謝ることはないわ。誰だって泣きたい時はあるもの 」


ユウリはソファから立ち上がると東の窓辺に近付いた。ガラス越しに外を眺めながら、まるで独り言のように語り始めた。


「 父と母は仮面夫婦だった。幼い時からずっと感じていたんだ。父は僕には優しかったけれど、何故か母には距離を置いていた。母は自分にも他人にも厳しい人でね、いつも完璧を求めた。自分の考えは常に正しいと断言していて、それ以外の意見や思想を受け入れない人だった。そんな母を父は窮屈に感じていたんだと思う。気の優しい父は心の安らぎを家の外に求めた。仕事が忙しいからと言って滅多に帰ってこなかった。外に女がいたんだ。母はそれを分かっていた。理想とする生活を守るため、僕を守るために見て見ぬふりをしていたよ。そしていつの間にか母にとって、僕の存在が全てになってしまった  」


昨夜からの雨は一向に止む気配がない。窓の外はオーガンジーのカーテンを何枚も重ねたように白く霞んでいる。その霞の向こう側にある何かをユウリはぼんやりと見つめている。話の続きを促すようにヨーコは黙ってその背中を見守った。


「 僕のピアノは母を上機嫌にしたよ。上手く弾けばとても喜んでくれた。僕は母の笑顔が見たくて必死に練習した。コンクールで一番にならないと母にがっかりされてしまうと思ってね。父が不在で悲しそうにしている母に、少しでも笑顔になってもらうためにとにかく必死だった 」


「 お母様のためにピアノを弾いていたのね 」


「 半分はね。もう半分は父への復讐かな 」


復讐という強い言葉にユウリの中に燻る苦悩を見た。優しかった父親への愛情は、母親と自分を裏切ったことでいつしか恨みへと変わってしまった。大好きだった父親との軋轢は決して望んだことではなかったはずだ。しかし側にいて自分を育ててくれた母親への思慕はそれを受け入れることでしか示す術がなかったのだろう。子供とはそういうものだ。親を選べないし、環境を変える術も力も持ち得ない。小さな心をどれほど痛めただろう。想像しただけでヨーコは胸が締め付けられるように苦しくなった。後ろから見たユウリの背中が小さく震えている。ヨーコは背後から近づき、迷子の幼な子を導くようにそっと手を繋いで、ユウリと同じ窓の外に視線を向けた。


「 僕が7才の時、朝いつもの時間になっても母が起きてこなくて…… 寝室にいってみたら、真っ青な顔をした母がベッドに横たわっていたんだ。死んでるのかと思ったよ。その日も父は不在だったから僕は救急車を呼んだ。何度も何度も母に向かって大声で呼び掛けた。母はピクリとも動かなくて、ほんとうにこのまま死んでしまうのかと思った。母はいつも飲んでいた睡眠薬を眠れないからと大量に飲んだんだ。もしこのまま母が死んでしまったら、僕はこの世界でひとりぼっちになってしまうかもしれないと物凄い恐怖を感じた 」


その時の場面が今、はっきりと見えているのだろう。力のない視線の先に記憶の断片が彷徨っている。シルバーグレイの空の向こうには、輝く太陽と果てしない青空が広がっていると頭では分かっているが、それら全てを覆い隠す分厚い雨雲は、まるで今のユウリの心の情景をそのまま映しているスクリーンのようだった。


「クラシックってね、過去の歴史を遡る音楽なんだ。そのスケールは完璧すぎるほどの完成形で絶対に壊してはいけない。繰り返し繰り返し、出来上がったものに自分を近づけて行くんだ。でも学びは尽きない。いくら頑張ったとしても完璧にそれを自分のものにするのは無理だ。完成されたものを越えることなんてできない。未来のない音楽なんだ。僕にとってはね 」


「 なるほど、そういう捉え方もあるのね。でも有名なミュージシャンも始めはクラシックをやっていた人が多いと聴いたことがあるわ。そこから広がる音楽の世界は、きっとクラシックを知らないところからは生まれてはこないんじゃないかしら。基礎や土台がしっかりとあるからこそ、その上に作られるものはあらゆる可能性が広がる気がするわ 」


ユウリは手を繋いで並んで立つヨーコに向き合い、真っ直ぐな視線を向けた。とても真剣な目をしていた。


「 僕は子供だったんだ。今は素直にヨーコの意見に耳を傾けられるよ。だけど僕にとってクラシックはやりたいことができない、表現したいことがどうしても伝えきれない、狭い箱に閉じ込められたような感覚だった。譜面通りに、教えられた通りに弾かなければ結果は得られない。そうしなければ母を悲しませることになるからね。でもそこから僕は逃げたんだ。僕がやりたいのはもっと自由な表現だった。ジャズは僕の心を解放してくれた。ジャズに出会って初めて自分からピアノを弾きたいと思ったんだ 」


「 それがジャズを始めた理由ね 」


「 確かに始めはそうだった。でも、ジャズを知れば知るほど、やはりそこには完璧なセオリーがあったんだ。それをすべてマスターした上でしか、自由な表現はできないと知ったよ。あんなにも自由で、感覚だけで好きなように弾いていいと思っていたのに、とんでもなく奥が深いんだ。覚えることは山のようにある 。だからもう一度学び直したいと思った。今度こそ、自分自身の音を奏でるために。ピアノを心から好きになるためにね 」


「 ユウリがジャズをやりたいと言ったらお母様は反対されたのよね? 今でもそうなのかしら 」


「 ああ、『裏切られた』と言ったよ。音楽は趣味の範囲でいいと言ってね。あんなにも頑張ったのに。ずっとずっと、母のために頑張ってきたのに。母は僕に大学を卒業したら就職して結婚して、家庭をもって家族を大切にする人生を期待していたんだ。まるで自分の人生をやり直すようにね。また新たなレールを敷いてそれに僕を無理やり乗せようとした。一旦はその通りにしたよ。それしか他に選ぶ術は無かった。選択肢はないと思ってた。考える余地を与えられなかった 」


ユウリの瞳に浮かぶ鈍色の陰りにヨーコは過去の自分を見ていた。夫との生活は自分で選んだものなど何一つなかった。全ては夫の決定のもとに定められた価値観の中で生きていた。そこにヨーコの意思が介入する余地は無く、かといって異を唱える気力もない。その事をおかしいとも、間違ってるとも考える隙間さえなかった。全ては決められたことを受け入れ、それについて何も感じないでいる自分を見て見ぬ振りをして、感情の扉を開こうともしなかった。


箱のなかで飼われたねずみは十分な餌を与えられ、限られた空間で外の世界を見ることなく、ここは快適だと思い込んで自由を奪われたまま生きる。きっと死ぬまで何の疑いもなく過ごすのだろう。それはそれで幸せなことなのかもしれない。しかし自ら箱を食い破り、閉ざされた世界から外へ出てみて気づくことは想像もつかないほどに沢山あるはずだ。その証拠にヨーコは離婚した後の3年間で数えきれないほどの感情を取り戻した。それは体験した者にしか分かり得ない、日々の生活の中にある感動と驚きの数々だった。 

5月の晴れた空がこの上もなく青く芳しいことも。秋の夕暮れの風が寂しく冷たいことも。コーヒーの甘く柔らかな香りも、自由に跳ねるジャズの嫋やかな調べも。以前は何も感じないままに見過ごしてきた。見てはいる、聴いてはいるけれど、心は動かなかった。美しかったことも、悲しかったことも、美味しかったことも、心地良かったことも。何も覚えていない。色彩も音も匂いも味わいも、何も覚えていないのだ。


生きていると実感するためには箱を食い破ることは必然だった。そうしなければいつか窒息して死んでしまう。そのとこに気づけたことはヨーコにとってはとてもラッキーだった。気づけたからこそ今がある。過去の自分を悔いるのを誰かのせいにするのは簡単だけれど、そこに囚われていたのでは誰かの存在をずっと引き摺ることになる。

ヨーコのなかに、元夫の存在は今は微塵もなかった。だからこそ、今この生活を心から肯定し、自由を実感し、自分の人生を生きているのだと自覚できるのだった。


ユウリはどうなのだろう。母親の敷いたレールを自ら降り、自分の本当にやりたいことを始めてはみたものの、やはりそこには母親の影が付き纏っているように見えた。母親のために頑張ってきたクラシックを否定し、自分の感覚で自由に表現できると思って飛び込んだジャズの世界。母親を裏切った上に成り立つ自分の今をユウリはどのように捉えているのだろう。そこに少しでも罪悪感があるとしたら……

ユウリを苦しめる核の部分を取り除いてあげたいと思った。そうしなければ、ユウリの音楽を、魂の求めるジャズを、心の底から楽しむことはきっとできないだろう。何にも囚われることなく、心の欲するままに、全ての縛りから解放されて奏でられるユウリのピアノを、ヨーコはどうしても聴いてみたいと思った。


室内に響くコルトレーンのサックスは、セッションするピアノの音色と共に何層もの色彩を重ね合わせながら伸びやかに響き合っていた。それは一見自由気ままに演奏しているようで、決して独りよがりではない。相手のリズムを感じ、同じヴァイブスで畝りながら進行してゆく。共鳴し合い、高め合いながら、優しく、お互いを思いやるように。


窓の外の雨は、二人の世界を見守るように音もなく静かに降り続いていた。


ー 続く ー


*この物語はマガジンにまとめています。一話から十話まで全てお読みいただけます。


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