見出し画像

Cafe SARI . 10 (番外編 / 沙璃のある一日)

今年の春はとにかく天候が不安定だった。

毎日のように気温が激しく上下し、4月だというのにいきなり夏日が来たり。そうかと思うと五月晴れを期待する心を裏切るように、まるで梅雨入りしたかのようなぐずついた空模様が続いたり。これではせっかく一年で一番清々しい、緑の季節が台無しだ。

本格的に梅雨入りする前に、この季節でしか味わえないことを楽しみたい。さて、一体何をするべきか。沙璃は頭を捻って考えたが、そんなに大きな楽しみなど何も思いつかなかった。

そんな時は外に出てみるに限る。日頃から沙璃は日中の空いた時間を利用して、天気のいい日はなるべく散歩に出るなどしてリフレッシュするように心がけていた。


風薫る5月。久しぶりの快晴は空がどこまでも突き抜け、天高く白い雲が走ってゆく。顔を上げると少し鬱々としていた気持ちもスッキリと晴れるようだ。肺いっぱいに緑の匂いの空気を吸い込んで、沙璃は大きく深呼吸した。

「ハァ〜、気持ちいい!」

沙璃の住んでいるマンションから出てすぐ、最寄り駅へと繋がるアーケードをゆっくりとした歩調で歩く。目的のない散歩は誰に気兼ねするでもなく、時間に追われることもない。日中、働いている人たちに対して少しの罪悪感を持ちながら、梅雨入り前のこの時期にしか味わえない清々しい陽の光を、思う存分心と身体に吸収する。


花屋の前を通ると、色とりどりの花の鉢植えが目に止まった。今年の春は例年に比べてとても寒かったので、バルコニーで育てる春の花を買うタイミングを逃してしまった。いつの間にか店頭には紫陽花が並んでいる。毎年のように新種が出る紫陽花は、今年はどんなものが流行るのだろう。沙璃は興味深く品定めする。

珍しい色合いの紫陽花や定番のユリ、早くも夏を思わせる小ぶりの向日葵、これからの季節にぴったりなハイビスカスやアンスリウムなど賑やかな花たちの脇に、ひっそりと控えめに並んだ小さなグリーンたちが目に入った。

最近、バルコニーや庭で栽培するのが流行っているハーブだ。パセリ、バジル、フェンネル、ミント、ローズマリー。ユーカリやラベンダー、レモングラスなどもあってワクワクする。そうだ。今年はフレッシュハーブたちを使ったカクテルや料理を店で提供しよう。ハーブ栽培は毎年のように挑戦しようと思うのだが、なかなか現実には至らなかった。去年もバジルとミントの苗を買ってきて、部屋のバルコニーで増やそうとしたものの、太陽が足りなくてうまく育てられなかった。多分、水もやり過ぎてしまったのだろう。簡単なようで難しい、ハーブは沙璃にとってハードルの高い課題の植物だった。

美しく心惹かれる紫陽花や、元気になれそうな向日葵は次の機会にしよう。沙璃はいくつかの種類のハーブをピックアップして購入し、持ち帰った。早速プランターに植え替えて肥料と水を与える。今年こそ、収穫できるくらいに育てたい。そして新鮮な香りを店のメニューに取り入れてみたい。沙璃はハーブを使った料理を頭の中で考えながら書き出していった。ハーブ料理に合うドリンクも考えなくては。


何気ない、こんな日常が沙璃は好きだった。少し先に小さな楽しみや幸せをそっと置いておく。誰に言うでもなく、大したご褒美など何もないけれど、そこに向かって何かを作り出す行為は、生きていることを十分楽しませてもらえる。

少しずつ時間をかけて何かを積み上げていく作業は、どちらかというと沙璃は得意ではない。すぐに結果が目に見えたり、成果を出すことが生きる悦びに直結するタイプの人間だ。いや、以前はそうだった、と言った方が正しいかもしれない。

離婚を経験して、考え方が大きく変わった。それまでは自分さえ頑張れば必ず結果はついてくる、大きな成果が得られると思っていた。頑張りさえすれば全ては計画通り、自分の思うがままになると信じていた。そう、自分という人間を完全に過信していたのだ。

しかし、現実はそうではなかった。自分の思い通りになることなど、一つもなかった。人は一人一人考え方も違うし、感じ方も違う。心で繋がっていれば言葉なんていらないと思っていた。だがそれは独りよがりの幻想だった。人間は言葉で伝えて初めて、お互いの心を理解し合えるのだ。それはいくら尽くしても足りないほどに。これだけ伝えればもう大丈夫などといった思い上がりは通用しない。何故なら人間は、自分のことすら理解など全くできていないのだから。


「君は一人でも大丈夫だよ。君なら一人で生きていける」

そんな、過去に投げかけられた言葉をふと思い出しては悲しくなったりする。でもそれは本当のことなのかもしれない。自分は弱い人間だと言える人は、本当は強いのと同じように、一人で生きていくなんて無理だと思っていても、日々の暮らしの中にこうやって小さな楽しみや幸せを自分で探し出せるのだ。それってとても厚かましくて図々しいじゃないか。楽しく生きようなんて画策している時点で、私はなんと図太い人間だろう。沙璃は悲しみの中にある可笑しみに、少し安堵にも似た感情を見つけては苦笑するのだった。



バジルはイタリアンには欠かせないハーブだ。香りが強く、ガーリックとの相性は抜群にいい。白身魚や鶏肉、ソーセージなどとソテーにしよう。フレッシュバジルはモッツァレラチーズとトマトと一緒にカプレーゼに。白ワインがサイコーのマリアージュを奏でるだろう。

夏に向けてモヒートもいいな。グラスに多めに入れたスペアミントと一欠片のライムをすりこぎで潰して香りと果汁を出し、シロップを加える。氷とホワイトラムを入れてよく混ぜ、ソーダで割って軽くステアする。炭酸の泡が弾けるたびに涼しげなミントの香りが広がって、えもいわれぬ爽快感が漂う。

ローズマリーは肉料理の臭い消しに。ローストポークやタンドリーチキンのオーブン焼きに爽やかな香りを添えてくれる。他のハーブたちと一緒にブーケガルニにして煮込み料理にも使おう。


料理やカクテルを考えていると、そのメニューが好きそうな常連客の顔が自然と浮かんでくる。曜日によって現れる日が決まっている人には、うまくそれが当たるようにスケジューリングすることも大切だ。

喜んでくれるお客たちの様子を思い浮かべながら、沙璃は自然と笑顔になった。ここ Cafe SARI に特別なものなど何もない。わざわざネットで調べてやってくる人など誰もいない。この土地に自然と溶け込んだ、ひっそりと静かな裏通り。今どきのSNSなども使ったこともないしPRなどもしない。たまたま、または間違って入ってきたけれど、居心地が良くてリピートしてくれているお客が大半だ。それでいい。それがいい。日常の中の小さな楽しみ。それこそが沙璃に相応しい幸せの形なのだろうと、自分で納得しながらここまでやってきた。


これからも、自然の流れに身を任せ、少し先に小さな楽しみを作ってそっと置いておく。成果や答えなど何もいらない。そこに向かって淡々と。心穏やかに、静かな時間を過ごしていこう。


部屋に飾るためにハーブと共に買ってきた数本のユーカリの葉を優しく指で擦ってみる。ふわっと広がった緑の芳しい香りを深く吸い込んで気持ちをリフレッシュさせる。さて、早速今夜はバジルとチキンを使って、考えたメニューの試作をしてみよう。きっとあの人が気に入ってくれるはずだ。

沙璃は先程植え替えたプランターから何枚かのミントを摘んでハーブティーを入れた。ガラスのティーポットの中に漂う緑の葉は目にも優しく、すっきりとした香りと味わいに身体中の毒が抜けていくような錯覚を抱いた。沙璃の軽やかな心とリンクするように、ビル・エヴァンス・トリオが奏でる「I Love You」が心地よく部屋に響いている。


今日もいい一日だ。





#小説 #CafeSARI   #ハーブ #ある一日 #番外編 #ビルエヴァンス

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?