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コルトレーンの囁き Vol.10~Final~
『希望の風』
あなたが日本を経ってからもうすぐ二度目の夏が巡ってきます。
早いものですね。
旅立つときにあなたから預かったラベンダーは今年もたくさんの可愛い花を咲かせて私の心を慰めてくれています。
そちらの生活にはもうすっかり慣れたでしょうね。
あなたからのメールでその充実した生活が手に取るように分かります。あなたの音楽に対する情熱も、ジャズに対する信念も、生き生きと演奏するあなたの姿から伝わってきました。送ってくれた動画を何度も繰り返し観ています。
先日のライブバーでのセッションの様子、観客との一体感がこちらにまで伝わって来ました。ジャズは本当に生きている音楽なんですね。あなたのいうジャズのセオリーやたくさんの決まりごとは難しくて私には分からないけれど、自信を持って伸び伸びとピアノを弾くあなたと、一緒に演奏する仲間たちとのアイコンタクトや満足そうな笑顔を観ていると、私までとてもハッピーな気持ちになりました。これがジャズなんだ、あなたのやりたかった音楽なんだと教えてもらえた気がします。
次のオーディションはいつかしら? きっとうまくいくと信じています。自信を持って、あなたのピアノを思う存分奏でてください。まずは楽しんで!そうすれば結果は必ずついてくるから。そして、くれぐれも身体に気を付けてね。ではまたメールします。
ヨーコは送信ボタンを押して大きくひとつ、息をついた。
ラベンダーの花が咲くと、コーヒーではなく紅茶が飲みたくなる。花の香りが濃厚で、コーヒーだとお互いの主張が強すぎるのだ。この頃ヨーコはお茶の時間にアールグレイを入れて飲んでいる。相性の良い組み合わせはジャズのセッションのようにお互いを高め合い、それぞれの個性を引き立たせるようだ。まさにこのラベンダーとアールグレイのように。
紅茶にほんの少し垂らすカルヴァドスは、ラベンダーとともにユウリがこの部屋に置いていったものだ。ずいぶんと前に、一緒に飲もうと言ってユウリが自分の部屋から持ってきた。二人でよくコルトレーンを聴きながら、このリンゴがほのかに香るブランデーをソーダ割りにして飲んだ。
ユウリがニューヨークへ旅立ってから、ひとりの部屋でカルヴァドスを飲みながらジャズを聴いていると、まるでユウリがそこにいるような錯覚を覚えた。その香りと味わいはひとりの静かな夜を慰め、ユウリの腕の中にいる時と同じようにヨーコの心をあたたかく包んでくれた。たとえいなくなった今でも、この部屋はユウリの気配がそこかしこに溢れている。
部屋の中央のソファに座るとき、ユウリはいつもクッションを抱きかかえるようにして気がつくとそこでよく眠り込んでいた。キッチンのカウンターでコーヒーを飲むときに座る少し背が高過ぎるスツールは、いつの間にかユウリ専用になっていた。バルコニーのハーブの水やりもユウリの方がよく気がついたし、そのハーブを使った料理を器用に創作してはヨーコに振る舞ってくれた。いつでもそばにいて、二人はたわいのない同じ時間を共に過ごした。その時間は失くしてみて初めて、かけがえのない穏やかでやさしい時間だったと分かる。
こうしているとユウリが今にも何か話しかけてくるような気がする。しなやかに鍵盤の上を踊る長い指が髪に触れてくるような気がする。だから不思議と離れているという感覚がない。ニューヨークと東京の約一万キロの距離を全く自覚させないのだった。寂しくないと言えば嘘になるけれど、いつでもヨーコの心の中にはユウリの存在をはっきりと感じることができた。
また以前のようにひとりの生活に戻れば、味気ない日常を送るのだと思っていたけれど、全くそうではなかった。そこには過去のトラウマに怯える時間もなければ、孤独と不安に押し潰される恐怖もない。そして独り身の自由気ままな開放感とも違った何かがあった。この地球上に愛する人がいるという確かな事実が、何よりもヨーコの心を強くした。そしてその心をしっかりと繋ぎ止める愛情の絆は距離など何の問題もないのだと確信するのだった。
会いたい時に会えない状況というのは確かに辛いと思う。けれどもそれ以上に、愛する人の輝く姿を見ることや、ここで待っていてほしいと言ってくれる言葉がヨーコの心を穏やかに満たしていた。足りないものは何もない。渇きなどないと思える自分が素直に嬉しかった。
向こうに行ってから頻繁に届くメールでユウリは時々弱音を吐いた。ニューヨークでの生活は言葉や習慣の違う面で想像を越えた苦労があるようだ。様々な人種の坩堝で揉まれる中、落胆や挫折は日常茶飯事だった。落ち込んだ気持ちを持て余すように時々愚痴のようなことを書いてはきたが、その心の軸は全く折れることはなかった。厳しい環境の中で生きていくには、これまでの人生で一番の課題だった自己主張が最も重要だということを知った。そしてそれを克服した先には本当の自由が待っていたのだと言う。失敗は数限りなくあったが、経験は少しずつ自信に繋がっていった。そしてどこまで行っても終わりのないジャズの旅は、これまでユウリ自身が気付かなかった音楽への愛と探究心を更に深めていくようだった。
今度はいつ会えるのだろう・・・
ヨーコはラベンダーとアールグレイの香りにユウリとの日々を思い出しながら、終わりの見えない旅に思いを馳せた。
その時、ユウリからのメールが届く通知が小さく音を立てた。
『 ヨーコ、今日のそちらの空模様はどうなの?もう梅雨明けしたのかな。 実はグッドニュースがあるよ。日本のライブハウスからオファーが来たんだ。先日のライブ映像をネットで見て、日本に帰って来た時は是非うちの店でやってくれないかって。もちろん即OKしたよ!初めての日本での仕事になるんだ。うまくいけば契約できるかもしれない。これは喜ぶべきことだよね? 』
ユウリが帰ってくる。ヨーコは突然の知らせに心が弾んだ。しかしその仕事は一度きりになるかもしれない。するとまたニューヨークへ戻ってしまうのか…… その時自分は冷静でいられるだろうか。帰国のニュースは何よりも嬉しいけれど、その後のことを考えると心はとても複雑で、何と返信していいのか戸惑ってしまうのだった。
『 おめでとう!ユウリの実力で手にした仕事が成功することを祈っています。
こちらはもうそろそろ梅雨が明けるわ。今日もとてもいい天気よ 』
ユウリからの返信は驚くほどすぐに来た。
『 でも今日は午後から雨が降るみたいだよ。西の空を見てごらん。雨雲が近づいてきてるみたいだ 』
何気なく窓の外に視線を移す。
・・・そうかしら?今日は一日晴れの予報のはずだけど・・・
窓辺に近付いて空を見上げる。やはり西の空に雨雲なんて見当たらない。一体何の情報を見てユウリはそんな事を……
その時、どこからかピアノの音色が聴こえたような気がした。
あぁ、あの時もそうだった。
この部屋から流れるコルトレーンのサックスに合わせるようにして、上階からユウリのピアノが聴こえてきたのだ。
あれから三年の月日が経とうとしている。
ヨーコはユウリに出逢う前の三年間に想いを馳せる。それはひたすら自分を癒すリハビリのための日々だった。
離婚後の生活は自分自身と正直に向き合い、心を解放することに専念した。自分のために過ごす時間。それは自らの感情に素直に従って過ごすことに心を砕く必要があった。好きな音楽を聴き、好きなコーヒーを飲み、好きなものに囲まれて過ごす。それはとても簡単なことのようで難しく、難しいようで実は簡単なことなのだった。こころのままに生きていい。そのことに気づくのに、実に三年という歳月がかかった。
ー 人生の休み時間 ー
ユウリに出逢うまでのあの三年間があったから、また再び前を向くことができたのだと思う。
そしてユウリとめぐり逢った。一人の人と向き合い、愛すること、愛されることの尊さを知った。
お互いを想う心はお互いを強くし、生きている意味を見つけることができた。
風に乗ってまたピアノの音が聴こえた。
どこから聴こえてくるのだろう……
目を閉じて耳を澄ませる。
確かに聴こえる。あの日のユウリのピアノが。
世界中どこにいても。日本でも、ニューヨークでも。いつでもどこにいても、その音色はヨーコの心の中にクリアに再現できるのだった。
今日、部屋に流れるコルトレーンはとても穏やかだ。いつかまた会える日が必ず来る。その日を夢に見ながら日々を丁寧に生きよう。ヨーコの心にやさしく囁くようなサックスの音色が深く染み渡った。
幸せだな……
『 ねえ、さっきから弾いてるのに、まだ気がつかない?』
何?
ユウリからのメールが続けて届く。
『 西の空に雨雲が近付いてるって言ったでしょ? もう一度見てごらん 』
窓の外を見上げるといつの間にか西の空が暗くなっていた。
『 今夜は僕がディナーを作るよ。一緒に部屋で食べよう。前菜はヨーコの好きな真鯛のカルパッチョにする? バルコニーのパセリを摘んでおいてね。それから、新しい僕のオリジナルナンバーを聴いてくれるかな。ヨーコのために作った曲だよ。一番最初に聴かせたいんだ。それから…… 』
その続きは驚きの涙で滲んで読むことができない。今、上階から聴こえてくるのは間違いなくユウリのピアノだった。
「 聴こえる!ユウリの音!」
ヨーコは小さく叫んだ。予期せぬサプライズが身体中の細胞を跳ね上げ、一斉に躍動する。ユウリが帰ってきた!すぐそこにいる。早く会いたい、今すぐ顔が見たい!
ヨーコは逸る気持ちを抑えきれず、最後まで読めないメールを置き去りにして上階のユウリの元へと駆け出した。
ようやく今、ヨーコの人生は希望という名の追い風を受けて動き出す。
心のままに。魂の求める方向へ。
・・・Fin・・・
Thank you reading it until the very end.
*この物語はマガジンにまとめています。一話から十話まで全てお読みいただけます。
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