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イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて(2)

 前回の続きです。第二部より。


[II]人気を求めることから、仕えることへ (From popularity to ministry)
 誘惑―人の歓心を買うこと(Be spectacular)
 務め―「わたしの羊を飼いなさい」
 訓練―告白と赦しの回復

イエスの御名で ヘンリ・ナウエン
 

 Spectacular(スペクタキュラー)でありたい誘惑。ナウエンは、リーダーが陥りやすい誘惑を、なんと的確に言い表していることだろう。Spectacularとは、ショーなどで観客を「うわ~っ、すご~い!」と思わせるようなこと。見事な説教、見事な洞察力、見事な解き明かし、見事な統率力、見事な問題解決能力、見事な… ナウエンは、彼の「見事な」経歴や業績ゆえに、よく訓練され、整えられた、何でも一人でできる、有能な説教者、司祭だと思われるようになっていた。しかし、ラルシュ共同体の傷ついた人々の間で暮らしながら、彼は気がついた。自分のこれまでの生き方は、いつも観客からの拍手喝采を待っている、高いところに張られたロープの上を渡る曲芸師のようだったと。スターになること、ヒーローになること。それはこの世の競争社会が当然のように追求することだけれど、聖書的なリーダーとは決してヒーローになることではない。

 イエスはパウロに、「羊を飼う」という務め(ministry)をお与えになった。そして、弟子たちを二人ずつペアで送り出した。ナウエンは、この「羊を飼う」という務めは、個人プレイでなされるものではなく、共同体としてなされるものだと説明する。さらに、共同体としてなされるだけでなく、共同体の中のメンバー同士として、相互になされるものでもあると言う。互いに知り、知られ、赦し、赦され、ケアし、ケアされ、愛し、愛されている、共同体の中の兄弟姉妹として、傷つきやすい存在同士としてなされるものなのだと言う。

 これは、今日私たちの知っているリーダーシップのあり方とは、なんと異なることだろう。一般的には、リードする人とされる人、指導する人と指導される人、教える人と教えられる人は、その役割を混同しないことが大切だと思われている。したがって、適切な距離感を保つべきだと思われている。しかしながら、癒したり、和解をもたらしたり、いのちを与えるのは、私たちではない。それをするのはあくまでも神である。私たちは、たとえリーダーの立場にいようとも、自分もまた同じように、ケアされ愛され赦される必要のある、罪深く、傷つきやすく、壊れた人間だ。ナウエンは言う。「The mystery of ministry is that we have been chosen to make our own limited and very conditional love the gateway for the unlimited and unconditional love of God.  限界のある、めいっぱい条件付きでしかない私たちの愛を、限界のない、無条件の神の愛が注がれるための、入り口とするべく私たちは選ばれている、というところに務め(ミニストリー)の奥義(ミステリー)がある」

 サーバント・リーダーシップという言葉が近年よく聞かれるようになった。ナウエンも言っている。しかし、おそらく一般にサーバント・リーダーシップと言うとき、他者の長所を生かせるリーダーとか、目立たない奉仕でも自ら率先して行うリーダー、のような意味で用いられることが多いのではないだろうか。それはそれで、確かに尊い姿だと思うし、自分がヒーローにならない、という点ではナウエンの言っていることと近いけれど、ナウエンが言うのはちょっと違う。ナウエンの言うサーバント・リーダーとは、自分にも弱さがあり、他者からの務めを受ける必要があると認めるしもべの姿を持つリーダー、という意味だ。スターやヒーローになるのでなく、神の務めをなし、また受ける人になること…

 ナウエンは、そのようなリーダーシップを培うための訓練として、「告白と赦し」をあげる。これは、リーダーが、自分を単独で活躍するヒーローに仕立てたくなる誘惑に抗するための訓練である。リーダーとして、弱さは見せられないと思っていると、それが偽善や隠れた罪の温床になってしまうこともあるし、自分が仕えようとしている人たちとの間にも見えざるバリヤーを作ってしまう。しかし告白を実践することによって、自分の中にある闇に光を当てることができる。そして赦しを受け取ることにより、もはや闇がその人の中で、また共同体の中で、力を持つことができなくなる。罪の告白と赦しがなされる場に注がれる親密な愛がいかに尊いものか、経験したことのある人ならよく知っているだろう。

 とはいえ、説教壇から自分の罪や失敗を具体的に告白しなくてはならない、という意味ではない。そういうことではなく、リーダーもまた、自分の属する共同体に対して説明責任を負い、完全無敵のヒーローとしてではなく、弱さや傷も持った人間として、共同体からの愛とサポートを必要としているということ。そして、弱さを隠した自分、という姿で仕えるのでなく、弱さや傷も含めた等身大の自分で仕えるということ。「告白と赦し」を実践することは、スペクタキュラー(「すご~い人」)であらねばならないという、不健全な理想やプレッシャーから、リーダーを自由にするのだと思う。そして結果として、そこにスペクタキュラーな神様の御業が現されるのだと思う。ただし、神様のスペクタキュラーというのは、人の目には、目立たず、地味なものかもしれないけれど。

(ブログ『ミルトスの木かげで』より転載)


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