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イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて(3)

続きです。今回が最終回です。第三部より。(ちなみに、この目次の日本語訳は、あめんどうさんから出ている邦訳版からのものです。)


[III]導くことから、導かれることへ (From leading to being led)
 誘惑―権力を求めること(Be Powerful)
 チャレンジ―「ほかの人があなたを連れていく」(Somebody Else Will Take You)
 訓練―神学的思索への希望(Theological Reflection)

イエスの御名で ヘンリ・ナウエン

 私が今回本書を読み直したとき、いちばんインパクトを受けたのは、この第三部だったかもしれない。この箇所では特に二点、強く心に響いたことがあった。一つは、クリスチャンリーダーとは、上へ上へ行こうとする人ではなく、キリストの模範に従って、下へ下へと向かう歩みをする人であること。もう一つは、そのようにキリストに導かれて歩んでいくための訓練は、 絶えず熱心に神学的な思いめぐらしをすることである、ということ。

 私たちは皆、影響力のある人になりたいと願う。この世にあってもそうだし、教界にあってもそうだと思う。キリストのために、御国のために影響力のある人になることを求める。それは何ら悪いことではないように思えるし、実際、良いことだと思う。(ヤベツが「私の地境を広げてください」と祈り、神様がそれを聞いてくださったのも、神様のために影響力のある人になるためだった、と「ヤベツの祈り」の著者も言っていたように。)しかし、いくら「キリストのために、御国のために」と言っても、本当に心からそのつもりであっても、力を持つことには、多くの危険も伴う。キリスト教の歴史を見ても、現代の教会を見ても、スキャンダルやその他さまざまな問題の背後には、恐らくいつも、何らかの力の乱用があるだろう。力というのは本当に両刃の剣だ。力を持つことは、私たちの最も純粋な動機や願いさえも、自己実現の道具に変えてしまいかねない。

 ナウエンは、ヨハネ21:18から、とても興味深い指摘をしている。


「まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現わすかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

(ヨハネによる福音書21章18、19節)

 この世は、若いころは他者に依存せざるを得ないが、大人になれば、自分のことは自分で決め、自分の好きなようにできるようになる、と考える。しかし、ナウエンは、イエスの持つ成熟のビジョンはそれとは違うものだったと言う。成熟とは、自分の行きたくないところへ連れていかれることを良しとできるようになることである、と。イエスはペテロに「わたしの羊を飼う」というミニストリー(務め)をお与えになり、さらに、ペテロは自分の望まないところに連れて行かれるようになる、と言われた。このヨハネ21章の箇所は、読めば読むほど、ある種の衝撃を受ける。

 クリスチャンリーダーの道は、この世がこぞって追いかけるような、上へ上へと行く道ではなく、下へ下へとくだり、最後には十字架に到達する道… それは恐ろしいことのように聞こえるけれど、イエスの愛を受け入れた人にとっては、この下へ下がっていく道こそ、喜びと神の平安につながる道であるとナウエンは言う。サーバントリーダーとは、知られざる、好ましくない、痛々しい場所に連れて行かれる人なのだ。

 クリスチャンリーダーにとって重要な資質とは、力と支配ではなく、力を放棄し、謙遜になること。それこそ、イエスが模範を示されたことだった。ただし、無力といっても、自分の考えを持たない、人のほしいままに操作される、弱気で受け身な人のことを言うのではない。そうではなく、愛ゆえに、絶えず自ら力を放棄するような人のことだ。深くイエスを愛しているがゆえに、イエスが導かれるところであればどこへでも従っていく人、イエスと共にいるならば、どこへ導かれようとも、そこには豊かないのちがあると信頼している人のことだ。

 では、そのように導かれていく歩みをするために必要な修練とは何だろうか。ナウエンは、「絶えず熱心に神学的な思いめぐらしをすること(strenuous theological reflection)」を勧める。観想的な祈りが私たちを神の最初の愛の中に留めるように、告白と赦しが私たちの働きを共同体に根ざした相互のものにするように、熱心な神学的思いめぐらしは、自分がどこに導かれていくのかをしっかりと見極めることを助けてくれる。

 ナウエンは言う。物事を神学的に考える司祭や牧師はほとんどいない、と。多くのクリスチャンリーダーたちが掲げる問いは、聖書的に聞こえるような言い方をしているけれど、実はそのほとんどが社会学的あるいは心理学的な問いである。神学的思索、すなわちキリストの思い(mind)を持って行う思索が、ミニストリーの中で実践されているのを見ることは滅多にない。しっかりとした神学的思いめぐらしがなければ、クリスチャンリーダーたちは心理学者もどき、社会学者もどき、ソーシャルワーカーもどきの域を出ることがない。(私が言っているのではなくて、ナウエンが言っていることです。)そうやって、日々の生活の中で苦しんでいる人たち、ストレスのもとにある人たちを助けてあげる人にはなれたとしても、そこに神学的思いめぐらしがなければ、それはクリスチャンリーダーシップと言えるものではない。なぜなら、クリスチャンのリーダーとは、死の力から人類を解放し、永遠のいのちへの道を開かれた方である、そのイエスの御名によって考え、語り、行動する人であるからだ。

 "The task of future Christian leaders is not to make a little contribution to the solution of the pains and tribulations of their time, but to identify and announce the ways in which Jesus is leading God's people out of slavery, through the desert to a new land of freedom. Christian leaders have the arduous task of responding to personal struggles, family conflicts, national calamities, and international tensions with an articulate faith in God's real presence. ... In short, they have to say "no" to the secular world and proclaim in unambiguous terms that the incarnation of God's Word, through whom all things came into being, has made even the smallest event of human history into Kairos, that is, an opportunity to be led deeper into the heart of Christ. The Christian leaders of the future have to be theologians, persons who know the heart of God and are trained --through prayer, study, and careful analysis --to manifest the divine event of God's saving work in the midst of the many seemingly random events of their time. (これからのクリスチャンリーダーの仕事は、この時代の痛みや苦難を解決するためにわずかばかりの貢献をすることではない。そうではなく、イエスが神の民を隷属から解放し、荒野から新しい自由の地へと導いておられるその道を見極め、それを告知することである。クリスチャンリーダーには、個人的な苦しみや、家族の葛藤や、国の惨事や、国家間の緊張状態に対し、神の真の御臨在への信仰をはっきりと言い表すことで応答するという、大変な仕事がある。… つまり、この世に向かって「ノー」と言い、受肉した神の言葉であるお方(すべてのものはその方によって存在している)が、人間の歴史における最も小さな出来事さえも、神の時(カイロス)、すなわち、キリストのお心の奥深くに入っていくための機会としてくださったことを、明確な言葉で宣言しなくてはならないのだ。これからのクリスチャンリーダーは、神学者とならねばならない。すなわち、神のお心を知り、祈りと学びと注意深い分析を通して、一見するとただの成り行きでしかないように見えるこの時代の多くの出来事の中で、神の救いの御業がなされているということを、はっきりと示すことができるように、訓練された人たちでなければならないのである。)"

 このあたりのナウエンの筆致は実にすばらしい。聖霊が彼に臨んでこれを書かせているに違いないと思わされる勢いがある。上記の次に続く段落もご紹介したいのだけれど、あまりやりすぎると出版社さんから苦情がでるかもしれないので、ここまでにします。本書を読んだことのない方は、ぜひ、お読みになってください。

 でも、あとちょっとだけ。(そうしないと、この記事を終えられない。笑)ナウエンの言う神学的思いめぐらしとは、学問的な思索ではなく、キリストの心をもって、苦しいことも喜ばしいことも含む、日々の出来事を見て、そこで神がどのように働いておられるのか、どのように私たちを導いておられるのかを意識すること。そしてクリスチャンリーダーは、人々がその神の御声を聞き分けるのを手伝うために召されている。そのためには、知的な訓練だけでなく、その人(リーダー自身)の身体、精神、心のすべてを含めた深い霊的形成が必要とされる。本来なら、こういった訓練は、まず何よりも神学校においてなされるべきなのに、今の神学校(ナウエンの当時)はすっかり世俗化してしまい、そのような訓練がなされる場からはほど遠くなったとナウエンは嘆く。

 ああ。「絶えず熱心に神学的な思いめぐらしをすること(strenuous theological reflection)」。単なる学問的な思索ではなく、神のみ思いを知り、それがこの世の中で、また私たちの日常生活の中で、どのように現され、私たちをどのように導いておられるのかを考えること… それはもちろん、自分勝手な「私はこう思う」「私にとってはこういう意味だ」という思索ではなく。聖霊様、教えてください。導いてください。そして、キリストに倣って下へ下へと導かれるとき、私が怯えることなく、むしろイエスと共にその道に歩めることを、平安のうちに喜べる者でありますように。

(ブログ『ミルトスの木かげで』より転載)


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