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イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて(1)


 約20年ぶりに、ヘンリ・ナウエンの「イエスの御名でーー聖書的リーダーシップを求めて」を読み返した。(持っているはずなのに、書棚に見つからなかったので、図書館で原書を借りて、だけれど。)

 ハーバード大学で教鞭を取っていたナウエンが、ラルシュ共同体という知的障害者の施設の司祭となる。この世の常識ややり方が通じない環境で、それまで彼が学んできたこと、実践してきたことがもはや意味をなさない環境で、ナウエンがどういう肩書きや業績を持った人なのかをまったく知らないし気にもとめない人たちの中での暮らしを通して、彼が示されたことを元にこれからのクリスチャンのリーダーシップについて思索した本。

 以下のような流れになっているのだけれど、20年前に読んだときよりも、はるかに腑に落ちた。


[I]能力を示すことから、祈りへ (From relevance to prayer)
 誘惑―自分の能力を示すこと
 問い―「あなたはわたしを愛するか」
 訓練―観想的な祈りの恵み
[II]人気を求めることから、仕えることへ (From popularity to ministry)
 誘惑―人の歓心を買うこと
 務め―「わたしの羊を飼いなさい」
 訓練―告白と赦しの回復
[III]導くことから、導かれることへ (From leading to being led)
 誘惑―権力を求めること
 チャレンジ―「ほかの人があなたを連れていく」
 訓練―神学的思索への希望

イエスの御名で:聖書的リーダーシップを求めて ヘンリ・ナウエン


 とてもよかったので、気づきを与えられたことなどを、3回に分けて書き留めておこうと思う。

 第一部「能力を示すことから、祈りへ 」では、聖書的リーダーシップとは、自分の業績や能力を示し、それを提供することによるリーダーシップではなく、ただ神に愛され、選ばれ、贖われた者として、神の愛のもとに、自分の強さではなく弱さ(vulnerability)を差し出していくことだという。

 そして、そのための訓練は、contemplative prayer、観想的な祈り。ナウエンは、mystic(神秘主義者)にならねばならない、という表現を使っている。観想的な祈りは、「あなたはわたしを愛するか?」と問われる神の愛の中に、私たちを絶えず留め、そこに根付かせる。私たちが神の御臨在の中に留まることを可能にする。

 "It is not enough for the priests and ministers of the future to be moral people, well trained, eager to help their fellow humans, and able to respond creatively to the burning issues of their time. All of that is very valuable and important, but it is not the heart of Christian leadership. The central question is, Are the leaders of the future truly men and women of God, people with an ardent desire to dwell in God's presence, to listen to God's voice, to look at God's beauty, to touch God's incarnate Word and to taste fully God's infinite goodness?" クリスチャンのリーダーは、ただ道徳的で、よく訓練され、人々を助け、この時代の逼迫した問題に創造的に応答できる、というだけでは十分ではないのだと言う。それらのことも大切だけれど、クリスチャンのリーダーに求められているのは、有能な人であることではなく、真に神の人であること。神の御声を聞き、神の麗しさを仰ぎ見、人となられた神のことばに触れ、神の尽きることない善を味わうために、神の御臨在の中に留まることを熱烈に求める人だとナウエンは言う。

 そして、そのためには観想的な祈りが不可欠であると言う。「神学('theology')」という言葉は、もともと、「祈りにおける神との一体('union with God in prayer')」を意味していたそうだ。

 私たちは神学の神秘的な側面を取り戻し、クリスチャンのリーダーが語る言葉、与えるアドバイス、開発する戦略が、神を、受肉した「ことば」であるイエスを、親密に知っている心から出てくるものであるようにしなければならない、とナウエンは言う。

 私も覚えがある。何か相談を受けたとき、つい、自分の知識や経験から何かを言おうとしてしまうことがある。私の知識や経験は、この状況にrelevantなのだと誇示したくなる誘惑。しかし、本当に祈りをもって神様に聴くならば、神様の御霊は柔軟に、深遠に、そのときそのときの状況に即した知恵と言葉を与えてくださるのだろう。主が与えてくださるものは、単なるノウハウではない。リーダーとしての経験が長くなると、つい自分がすでに持っているものから答えを引き出そうとしてしまうかもしれないが、その都度、いのちの源であるお方に聴くこと… そのとき、自分でも予想もしていなかったことが示され、自分が助けようとしている人の心や状況にも、思いがけない形で触れることができるのかもしれない。それは、公式ではない。ただ、主のなさること。主の御霊が導いてくださること。

(ブログ『ミルトスの木かげで』より転載)


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