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武器が流れるSNSという川で

「他人の不幸は蜜の味」

―じゃあ、他人の幸福は、何の味なんだろう。
情報の波に溺れ、疲弊した脳の片隅でふと考えた。


情報が武器になるとき

人間は基本的に、自分が満たされている時しか人を認めることが出来ないのだと思っている。

例えば、虐待を受けていてトイレに閉じ込められ1日1度の白米しか貰えない子がいたとしよう。(この例えは、昨日読了した52ヘルツのクジラたち:町田そのこ著 に出てくる主人公のことだ )
トイレの中、せめてもの現実逃避でスマホを触っている時に、「今日家族で回転寿司行った〜!おなかいっぱい!」なんて同級生の投稿をみたら、私はどうしてこんなに違うんだと、カピカピになった白米を見つめながら惨めさを痛感し、酷く苦しい気持ちを抱くことだろう。
となれば、彼女にとって、
その投稿は「武器」となる。

私たちは自身の空腹が満たせる環境にあるからこそ回転寿司の投稿に対して「へー、よかったね」と思えるし、「そこ行ってみたいな」なんて、ポジティブな反応をとる事ができるのだ。

ルックスとか、人間関係とか、お金とかもそうで、自分がその分野においてある程度満たされているときのみ、他人のつぶやきを参考にしたり祝福したりといった正の感情が生まれる。

だから、私で言うところの今日みたいに、なんかもう、よく分からないけど理由もなく疲れてしまって、自分自身に対しての自信的な何かが色々と欠けているような時に、SNSを見てしまうと、永遠に武器が流れ続ける川のように感じるのだった。

何もどう整形しても到底及ばないんじゃないかと思うほど圧倒的に可愛いくて細いくせにおっぱいはある子。よくわからないカタカナを沢山使って世界を見下すような投稿をしてるけどちゃんと実績を持ってる投資家。海外旅行に年何回も行ける程裕福な親の元に生まれたのに、自分を貧乏だと悲観するJK。

比べてもしょうがないとわかっている。そもそも彼ら彼女らは自分の求める理想像ではない、だから比較する必要が無い。けれど、心が満たされていない時、そこに憧れのひとかけらでも混じった投稿が流れてくると、悔しかな、やるせない気持ちが心にひょっこり現れる。焦点の合わないもやの中、目と口だけある顔でこちらを嘲笑したあと、いやーなきもちをプレゼントに、奴らは消えていくのだった。

比較という本能

比較という行為は、人間の動物本能的な性質の一つだ。古代…狩りの時代から、周囲の人と自分とを比べることで、自らに求められている役割を把握し、作業を分担することで集団行動を円滑にしていたという。

みんなと比べ、武術が得意な人が狩りを担当し、力強い人が荷物を運ぶ。手先の器用な人が武器を作り、、といった適材適所。もし、比較をせず、得手不得手を弁えず、全員が狩りをしていたら、皆早々に死んでいたはずだ。比べることで生き延びてきた我々だから、つい人と比較してしまうことは、そもそも仕方ないことなのだ。(これを知っておくだけでもまぁそれなら仕方ないか、と個人的には思える)

でも、生命を伸ばすという意味の生存、に関しては容易くなった現代社会で、過剰な比較は必要のない感情である。その事実を自覚していても、感情と認識とを切り分けて考えてることは、心が満ちていないと、こんなにもむずかしい。

ふと訪れる懸念

だからこそ、SNSを発信者側で使うとき、ふと怖くなる時がある。
今、私は、武器を流しているのではと。

もしかして、私が呟いた何かが誰かにとっては苦しいかもしれないし、もしかして、私の顔がタイプな有難い女の子がいてその子が落ち込んでる時だったら病ませてしまうかもしれない。(こんなことは自意識過剰かもしれない。)
もしかして、この私の文章を読んで、こんなに文書書けないよ、と悔しい思いをさせるかもしれない。

だからもしかすると、私だって今日も武器を作っているだけなのかもしれなかった。

そういうことを考えていると、ふと、もう何もしたく無くなる瞬間がやってくる。
幸せな投稿をしても、不幸だと嘆いても、どうやったって誰かの受け取り次第で投稿は凶器になる可能性があるのだ。

そう思ったら、頭の奥が黒くなってきて、あぁ、もう、なにもしたくないのかも、と思う。お給仕のことはたぶんきっとやっぱり好きだけど、SNSなんて疲れちゃうし、可能な限り見たくないのかもしれない。でも投稿しないと知って貰えない。未知なる人と会いたいし、会えたらすっごくうれしい。でももう、少なくとも今日は疲れてしまったようだった。(4:00なんだから当たり前だ!早く寝なさい!)

このスマホという魔法の杖のような見た目の毒箱を投げ捨てたい。そして、空が果てしなく広い田んぼ町とかに逃げ出して、稲穂のそよめきをききながら、秋の香りがする風に当たり、誰も通らない道で寝転んで雲の流れをぼんやり見つめたい。

それぞれの惑星で

元来、私の世界には私にとっての幸せがちゃんと沢山あって、あなたの世界にもそれは沢山あるはずなのだ。それは絶対、比較するものじゃない。

ひとりひとり、見える世界はちがうのだから、別の惑星で生きているようなものだ。全く違う惑星の、全く違う貨幣で、全く違う思い出を購入しているのだから、比較しょうがないじゃないか。

なのに、ぐうぜん、同じ地球だから、同じ日本語だから、同じ円だから、私たちは勘違いしてしまう。

SNSは言う。「高級車を何台も持っています最高だよ!」「100万のバッグやっぱ質がいい」「ブランドアクセおじに買ってもらったちょろい」「1000万整形してダイエットも成功!可愛くなったら人生好転!」

電車広告は言う。「すぐにやる人になる!」「億稼ぐ人になる」「夢をみつけよう!」「誰からも愛される秘訣」「愛も自由もやりがいもお金も全部叶う!」

みんなみんな、お前にはこれが足りてないよと物申してくる。あたかもまだ貴方の幸福は小さいですよ〜、貴方はだめですよ〜と、スマホにも、電車にも、きっとテレビにも、どこにいても言われ続ける。SNSだけじゃない、インターフェイス化された世界が、川のような流れに包まれ始めている。


それでも

でも、おかしかな、誰かにとっての武器は、他の誰かにとっての盾になることもあるようだ。

不幸な情報…例えば、詐欺にあって苦しい、とかをみると私は辛くて直ぐ見ないようにしてしまうけど、同じ経験を持つ者たちにとってそれはありがたい情報だ。それきっかけで、慰め合ったり、勇気が出たり、救われることがあるかもしれない。

だから、私の投稿や、このノートも、受け取り手次第で凶器にも盾にも宝にもなるのだろう。

武器が流れる川だけど
宝と思ってもらう人に届くまで
私の幸福が美味しいと感じてくれる人に届くまで

もう少し、ふんわり生きてみようかな

今日自撮り載せるのちがう気がしたのでこれで。
美味しそうでしょ

価値を感じてくれること、生きる糧です。 カフェでの1杯や、本代にさせて頂きます☕️ noteのコメントには返信機能がないので、こちらで感謝を込めた返信をさせて頂きます✉️♡‪