#17 「生まれてきた」ということを受け入れるのは意外と難しい、みたいなはなし

 子どものころから誕生日という概念が苦手だった。未だに「誕生日を祝う」ということそのものはよくわかっていない。単にぼく自身が生まれ落ちた日であり、それはうるう年も含めて366パターンのうちのひとつでしかない。誰にもコントロールしようもない属性で「おめでとう」というのは、やはり何度考えてもよくわからなかった。まして、生まれたことそのものに関してさして幸福性や肯定感を得られているわけでもない(なんならその逆の感情の方が多いくらいであるのだが)以上、「生まれた日」というのは単に「生まれた日」以上でも以下でもなく、ふつうに過ごすのがいちばんであるとぼくは常に思っている。
 誕生日を祝うというのはつまり、それにかこつけて非日常を楽しみたいと考えるお祭り好き根性、でしかないと思っているし、そういうひとたちに「場を提供する」という意味で、仲間や親族に祝ってもらっていた。
 結婚式や卒業式など、ぼくが苦手としているある種の式典的なものと同様に、つまるところ「祝われたら祝い返す必要がある」という点においてこの勝手な祝福は厄介で、それゆえに誕生日も好きではなくなっていった。

 とはいえ、親にとって自分の子どもが生まれた日というのは間違いなく特別な一日でしかない、というのも最近になって(納得はしていないものの)理解している。
 それに、区切りとするにはいい機会であるのもまた事実であるので、前述のように誕生日という概念をそれとなく憎んではいるものの、ぼくは「自分のために」誕生日を使う、ということを、特に30代にさしかかってから考えるようになった。30になってから毎年、これまでの振り返りを兼ねた「誕生日(近辺)の記事」を更新するというのも習慣になってきている。

 ぼくは今日、32回目の誕生日を迎える。ついに年齢を片手で数えることができなくなってしまった。(指の第一関節の状態までカウントに含めることで242歳まで数えられる、というのはさすがに詭弁すぎるので却下するものとする)
 飛行機の航路でいえば、もうこれ以上高度は上がらないだろう、というところをだいぶ過ぎている、ということがはっきりとわかるような位置にいる、ような感覚である。サッカーでいえば、実質的には後半戦が始まっている感じがしている。残された時間は、多くても無限ではないとあまりにも感覚的に理解してしまった。そんな今日この頃を生きている。

 一方で、誕生日を「1年を息災に生きたことの証」ととらえる向きもある。ハムちゃんが教えてくれた。ぼくもそれを支持したいと思う。人生の一里塚、とでもいうべきだろうか。最後に何を見るのかはわからないが、とにかく歩いてみようという気持ちはいつもある。

 夏はいつも突然やってきて、あっという間に終わってしまう。夏休みを謳歌する学生たちを横目に、ぼくは今日も家路を急ぐ。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!