短編小説「風に乗る」

 船には誰もいなかった。僕だけがそこに佇んでいた。だからきっと我に返れた。
 甲板をぐるりと見回して、誰もいないことを確認した。
 どれだけの乗客を載せていたのか、見当もつかないくらい大きい。この船はその昔、東京湾を往復するものとして動いていたらしい。内部にそんな説明書きがあった。生ぬるい風が穏やかに吹いている。甲板は濃い緑色に塗られていて、どこまでも薄く蒼く広がっている空と白い外装は不思議に調和していた。内部に降りる階段はなぜか洞窟のように湿っぽい。くぐり抜けるように入った。
 船は海面を滑るように静かに動いている。摩擦係数のない物体があるとしたらこの船の底なのではないか。珍しく下らないことを考えた。
 船には誰もいなかった。
 そう思っていた。
 誰もいない売店の、何もない陳列棚をぼんやりと見ていたら背後に気配を感じた。振り返ると黒い影法師がそこに立っていた。黒い帽子、黒い髪、黒いシャツ、黒いズボンに黒いナップサックを背負って、黒いブーツを履いている。
「やあ」
 彼は快活に挨拶をした。見知った声のような気もするし、全く聞いたことのない声のような気もした。
「知っているか?」
 彼は僕を知っているようだった。
「僕は何も知らない」
「知らないのか。知らないならば、それはとても幸福なことだ」
「一体何のことだい?」
「それすら知らないというのはなお、幸福なことだ。本当に君は何も知らないのだな」
 彼は寂しく笑った。
「ということは、君がそうなのか」
「さっきから何の話をしているんだ?」
「何も。強いていうなら、君が紛れもなく『そう』であるということだけだよ」
「一体何のことだ」
「君には向かうべき場所がある。それは僕、いや、僕らでは届くことの出来なかった場所だ」
「僕に行くあてなんかない」
「いや、ある。あるんだ」
 彼は憮然と言う。
「まず甲板に出てみよう」
 彼はするりと外に出た。ぼんやりとした明かりはともすれば彼を消してしまうような気がしていたが、そんなことはなかった。輪郭は全く歪まなくて、そればかりがどこか自然さを欠いていた。その不自然さを口にすれば彼は笑ってしまうような気がしたから言うことはなかった。
 眩しさに一瞬目を細める。甲板の上は変わらず穏やかな風が吹いていた。薄く融けるような蒼が天上に広がっている。その蒼に、遠く一箇所だけ白い線が引かれていた。飛行機の跡だ。僕と彼以外にも、少なくとも誰かがいるようだった。
 理由もなく胸騒ぎがした。
「よく聞いてくれ」
 厳しい表情で彼は言った。
「チャンスは一度きりしかない」
 彼はどこからともなく凧のような乗り物を取り出した。両脇にしっかりとした持ち手があって、風を受けて滑空するようなものらしい。
「もうすぐ、大きな風が吹く」
 彼の表情にはどこか期待と緊張が入り交じっているように見えた。
「風が吹いたら、それを両手に広げるんだ。風を掴んで、逃がさないように」
「どこまで行けばいい?」
「頃合いでわかる」
「ほんとうに?」
「ああ」
 彼が言葉を飲み込んだ時だった。
 びゅわっ。
 一陣の風が吹いた。
 とっさに凧を広げた。
 持ち手が引っ張られたのでしっかりと握る。
 蹴ることもなく、するりと身体が持ち上がった。
 風を掴んで僕は空を昇っていく。
「頼んだ!」
 彼の大きな声が聞こえた。なんとか視線を海に戻す。船の上、黒い点が動いている。彼が手を振っているのだとわかったときには、船がぐるぐると猛烈な速度で旋回を始めていることに気づいた。船が小さくなる。彼も小さくなる。僕は空を昇っていく。風の勢いは収まらない。上へ上へ。ただただ風を掴んでいた。その間にも、旋回してちぎれて沈んでいく船から目が離せなかった。
 船が見えなくなるまで、僕は船を見つめ続けていた。

 蒼は少しだけ暗く濃くなったような気がした。分厚い雲も少し増えた。それでも僕は風を掴み続けるしかなかった。手を離して落ちる気にはなれなかった。蒼と白に満たされたこの世界で、黒は異物だった。
 風を切るひゅう、という音に混じって、微かに発動機のごお、という音がした。プロペラらしき羽音も断続的に聞こえてくる。目を凝らすと遥か先に小さな点が見えた。さっき見たものだろうか。だとすれば、大きなプロペラのついた飛行機のはずだった。点は橙色で、黒と同じくらいこの世界では目立つ。
 どこに向かって飛べばいいのかもわからなかったし、実際のところ僕に目的地があるようには思えなかった。空はあまりにも高すぎて息苦しかった。冷たい。身を切るように冷たい。けれど降りる気にはなれなかったし、風は降ろしてくれそうにもなかった。手は離せそうにない。風はどんどん冷たく速くなっていく。なぜだろう、船の上よりもずっと生きているような気がした。
 影法師の彼はどうしているだろう。船は散り散りに引き裂かれてしまった。まるで折り紙細工のように波間に飲み込まれてしまった。もし、あの風を僕が見逃していたら、僕は彼と運命を伴にしただろう。彼は船が沈むことをわかっていたのだろうか。もっと示唆的なことを言っていたような気がするが忘れた。
 滑るように空を切る。橙色は少しずつ大きくなってきているような気がした。
 ひんやりとした風に慣れると心地よかった。発動機の音が遠くに、しかしはっきりと聞こえてきた。いつの間にか視界から飛行機雲は消え、橙色の点から尾翼が生えた。
 飛行機が近づいているのではなく、僕が飛行機に近づいていることに気づいたとき、僕は彼に向かっていくことに決めた。風をたぐり寄せながら、飛行機が刻んだ跡をたどった。風をまとめるのに力がいらなくなったとき、飛行機はしっかりと飛行機の形として見えた。一人乗りの小さな飛行機は、思っていたよりずっと平和そうな見た目をしていた。彼が中から手を振っているのも見える。
 ゆっくりと飛行機に近づいていく。プロペラがぶんぶん回っていて怖い。うまく避けるように、胴体のへりに着地した。凧はするりと縮んだ。
 キャノピィは開いている。彼はヘルメットを被って笑っていた。
「ここで君に会えるとは思わなかった」
 発動機の音で耳がどうにかなりそうだったが、不思議と彼の声はしっかり聞こえている。どうやって僕に語りかけているのだろう。船の上の彼と声が似ているような気がした。
「無事風に乗れたということだね」
 僕は小さくうなずいた。
「ここが目指すべき場所ということ?」
 僕がそう言うと、彼は首を横に振った。
「違う。ここはその方向だけど、まだまだ途中」
 彼は被っていたヘッドギアを外して、僕にくれた。まるで使われていなかったかのように乾いていて、軽かった。
 スロットルをロックして、彼は立ち上がった。
「その凧と飛行機を交換しよう」
「どうして?」
 僕は思わず聞いた。交換する必要があるとは思えなかったからだ。
「君はこの飛行機を運転してしかるべき場所に向かう必要がある」
「それはどこ?」
「行けばわかる」
 彼はふわりとキャノピィから身体を抜いた。入れ替わるように凧を持つ。
「君ならきっとたどり着ける」
 そう言い残して彼は、やわらかな翼から飛び立った。
 スロットルのロックは太い針金でかけてあるだけだった。留め金を外すとずしりと重みを感じる。飛行機はゆっくりと翼を振った。不思議と不安はなかった。操縦桿はすぐに身体に馴染んだ。
 かたかた、と機体が縦に小刻みに揺れた。すぐ近くに竜巻が迫っている。操縦桿は引きずられはじめていた。竜巻に黒い点が巻き込まれていくのが見えた。スロットルを戻す。ふわり、と身体が浮いて飛行機は猛烈に墜落を始める。ぶるぶると横に震えながらくるくるときりもみ回転を始めた。見たことのないメーターの針はぐるぐると回ったり端っこに飛んでいったりをくり返した。加速のついた機体はどうにか竜巻をかわし、その遥か下をくぐった。身体が軽い。身体が軽い。僕は操縦桿を引いた。機体はゆるやかに角度を変える。そこで気がついた。
 下は海ではなかった。小さな島の全景が視界に収まっている。海岸は砂浜なのに島の中央に大きな煙突があるのが気になった。飛行機はもう高度を上げられそうになかった。燃料がほとんどなかった。つまりそこ以外に降りられそうな場所はない。一か八か試してみよう。彼は「きっとたどり着ける」と言った。たどり着く場所がこの島ならば悪くない。操縦桿に力がこもる。聞こえている音が遠くなっていく。砂浜の砂粒が見えるようになってきたとき、さざ波が押し寄せる音を聞いた。がたんと身体が大きく跳ねた。

 全身を強く打ちつけたみたいで、身体じゅうのあちこちが痛かった。首は動いた。手も、足も動いた。骨も無事だった。皮膚を切ったようだが血は出ていない。あれだけ大きな衝撃を受けて飛行機から跳ね飛ばされたのに、怪我すらほとんどないことを僕はどこか当然のことのように思っていた。同時に、この島こそが「たどり着くべき場所」であることも疑いようがなくなっていた。勘というにはあまりにも確かすぎるが、運命というほどには悲観的ではなかったし、まして感傷にも浸れなかった。
 島はとても静かで、生き物の気配がしなかった。砂浜の粒は細かすぎて黒いブーツがめり込んでいく。蔦や低木が絡まってはいるが下草はどこか頼りなく虫の音も匂いもしない。島自体が、なにものかの手で作られているのかもしれなかった。僕は島の中心へと歩いている。考えはなかった。ただ、そうすべきと感じただけだ。夢の中を歩いているようだった。僕は僕を見つめているし感じてもいるけれど動かすことはどうにも難しい。そんな感覚が続いている。
 砂浜が消え、いつの間にか湿った柔らかい土が続き、さらさらとした草を踏み分けてしばらく行くと硬い地面に行き当たった。コンクリートを打ち付けた床の先に、ぼろぼろになった廃墟が建っていた。とはいえ朽ち果てているというわけではなく、その中心には大きな煙突がかなり高くまでそびえていた。
 空から見たよりもずっと大きいように感じた。廃墟は工場のようだったがまったく静かで、動いていないように思えた。
 入口を探そうとして辺りを探すと、壁に黒い塊が寄りかかっていた。人間と同じ大きさをしていることに程なくして気づいた。調べようとして近づくと、崩れるように倒れてしまった。フードを被っていた。
 人間の死体だった。死んだばかりという感じではなかったが、腐敗しているようにも思えなかった。本当に人間だろうか。もしかすると、よく似た別の何かなのかもしれなかった。匂いもしないし、虫も寄っていない。けれど朽ち果てているわけでもない。機械の油の臭いだけが微かにした。気味の悪い死体だった。見ていられないほどではないけれど。
 倒れた先が開いていて、廃墟の中に足を踏み入れた。思っていたとおり、工場のようだった。開けた広い空間に、大きな機械がまとまりをもって座っていた。どれも動く気配はなかった。入ってすぐの大きなベルトコンベヤーはベルトがちぎれていたし、奥にある、何かをかき回すための巨大な回転かごは底が抜けていた。太いコードがコンセントから引き抜かれていた。側に死体があったからきっと彼の仕業だ。死体は工場のあらゆるところにあって、みんな同じように黒ずくめで、同じような背格好だった。この工場で働いていたのだろう。僕はコードをコンセントに差しこんでみた。明かりがついて遠くで何かが動いた音がした。たぶん発動機だろうと思う。
 そういえば船で出会った彼や飛行機に乗っていた彼も同じように黒ずくめだった。彼らはこの工場からやってきたのだろうか。一体なんのために。そして、僕をこの工場に向かわせたかったのはどうしてなのだろう。音のする方向へ僕は導かれるように歩いていく。
 奥の部屋に入った。作業員の更衣室みたいだった。閉じたままのロッカーは埃もかぶっていないまま、昨日まで使われていたみたいだった。ここはまだ朽ちていない。僕はロッカーの扉を開けることができないし、きっと僕以外でもそうだろう。奥に扉がある。通り抜けることができそうだった。扉の前の最後のロッカーはなぜか開いていた。ロッカーの扉の裏は大きな鏡になっていて、斜めにひびが入っていた。
 鏡には、黒ずくめの僕が映っていた。
 船での彼、飛行機での彼、死体の彼らと僕は、ほとんど同じだった。何もわからなかった。ただひとつわかっているのは、僕が最後であることだけだ。つまり、彼らはいつか僕になるに違いなかった。
 扉を開けた。
 がらんどうに開けた空間があって、上から光が降り注いでいる。
 煙突はここにつながっていたのだ。
 吸い上げられるように風が吹いている。
 真ん中はくぼんでいて、大きな扇風機がついていた。扇風機の先には発動機が繋がっている。ランプがついている。さっきの電源にどこかで繋がっているのだろう。
 最後だった。
 最期だった。
 僕は知ってしまった。
 わかってしまった。
 知ってしまった以上、わかってしまった以上、もうその前に戻ることはできなかった。僕は僕の、僕らでなく僕としてやるべきことをなさなくてはならなかった。
 くぼみへ身体を降ろす。扇風機の中に入った。長いこと止まっていたとは思えないほど刃は鋭くて、至る所に黒い髪の毛がこびりついていた。どうやらこの身体に血液はないらしい。油の匂いばかりが鼻についた。
 案の定、扇風機の一番下、この部屋のいちばん低いところに小さなペダルがあった。
 ペダルを思いっきり踏み抜いた。
 ためらいはなかった。
 僕が最後だ。
 僕の最期だ。


 発動機がうなりをあげて、僕はふたたび風に乗った。
(了)

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!