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「天体観測」永坂暖日(夢想叙事)


 たしか、ぼくが休止を発表してすぐのテキレボで新刊だったような気がする。発行日的には、おそらくそんな感じだろう。その告知ツイートからぼくはおそらく真っ先にこれを手に入れようと思ったはずだ。なにしろ、地下都市でSFなのだから。ぼくがもっとも好きなジャンルの、もっとも好きな要素が正面で掲げられており、しかもその書き手はかつて現代小説の短編集を読んでその文章力と視点とギミックに(個人的に)安定性を感じた永坂氏とあれば買わないという手はない。


 ぼくが永坂氏の作品を読むのは「サボテンの子どもたち」に次いで2作目である。「サボテン〜」は現代小説よりの作品であるが、共通するのは作品内で同じ世界設定を共有しているところだ。さらにいえば、いずれも氏の作品は「背景」の中でも論理的な部分がよく見えてくるつくりになっている。
 ぼくの作品を読んだことがあるひとはここでなにかに気がつくであろう。そう、この2作を読んだうえで考えるならば、ぼくと氏の描写としての手癖が非常に共通するものがあるということである。実際、本作も「SF」であり「架空都市」であり「都市に生きるひとびとを描いた小説集」であるわけだが、これとまったく同じ要素を組み合わせた作品集がぼくにも存在する。そう、「煤煙〜浦安八景〜」である。それだけ、氏とぼくが見ている部分、書きたいと思う部分は、表面的に言えば、おそらくすごく似ているだろうし、実際似この作品をよんでぼくはそれをすごく感じた。


 しかし、実際にどちらの作品を読んだひとは、「永坂暖日とひざのうらはやおが同じタイプの書き手? 馬鹿をいうな」と思うだろうし、実際読んでみればわかるがそれはその通りであると言わざるを得ない。なぜこれだけ視点と要素、すなわち広義の部分における「ごうがふかいな」が似ているにもかかわらず「作風」がまったく異なるのだろうか。
 大きな理由は文章構成にある。これは間違いがない。ひざのうらはやおになくて永坂氏にあるもの、それは文章の論理構成のとりやすさである。ここまでぼくは3作品ほど連続で感想を書いている(我ながら思うがものすごいスピードだ、もっと早くからやっておけばよかったと思うほどに)し、しかもそのすべての作品に対して結果的に「読みやすい」とコメントしているが、これは別に語彙や表現の問題(つまり、ぼくの表現のくせとして多用している)というわけではなく、ぼくはそれぞれの作品に対して、別の理由で読みやすさを感じたわけで、さらにいえばこれら、つまり前述3作品および本作と比べれば、「煤煙」をはじめとするひざのうらはやお作品は圧倒的に「読みにくい」ということを暗に示しているともいえる。これがおそらく、もっとも大きな差であると考える。特に、永坂氏において特筆すべきなのは徹底して客観的かつ論理的な筆致であると言わざるを得ない。ぼくが今まで見てきた書き手の中でもかなり理知的ですっきりとした文章によって物語が綴られていて、物語の背景を非常にはっきりと示すことのできる美しさがそこにある。ぼくは氏のような書き方をしてみたいが、なぜかできない。そう、できないではなくて、「なぜか」できないのである。そこにあこがれがある、ということだけはここではっきりと書いておきたい。


 本作において、舞台となる都市はいくつかあるし、そこで用いられている技術や文化も(それなりの統一性はあるものの)かなり書き分けられている。複雑に絡み合った要素をすっきりとわかりやすく抜き出して、氏はそれをはっきりとした背景に仕上げる。それでいて登場人物の会話や仕草の機微もしっかりと描写している。ひとつひとつはしっかりと完結しており、また全体として同じ方向を向いているというのも美しい。さらに個人的なことを書けば、これらの背景設定にもかかわらず本作のタイトルが「天体観測」であるというところが、絶妙と言わざるを得ない。


 もし、ぼくの「煤煙〜浦安八景〜」をお求めになった方で、その理由が「都市の風景」だったり「SF要素」だったりであるならば、本作はマストといってもいいだろう。ぼくにとってはジャストミートだった。
 そして、もしこの記事を読んで、本作を持っている方は、ぜひお手元にある「煤煙〜浦安八景〜」と比べてみてほしい。何もかもが逆ベクトルであることに驚くだろう。
 え、「煤煙〜浦安八景〜」も本作も持っていない?
 それは大変だ。今週中であれば「テキレボEX」でどちらも買うことができるので、購入ページから検索してみよう。

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