#19 「それよりも他にやることがある」人たちは声をあげることはないが、かといってそうではないひとたちが勝手にその人たちのぶんの声をあげることは(立場が違うので)できない、みたいなはなし



 SNSを漫然と見ていると、戦争はここにも広がっているのだなと感じることが多くなった。特に、話者の身分を簡単に偽れる世界では、本当の情報なんてきっと数えられるくらいにしかないのではないかと思い知らされる。

 SNSで何かを語る人間は、例外なく「それよりも他にやることがある」ひとたち「ではない」ということもわかってきた。「仕事」で何かを語っている人もいれば、他にやることがないから語っている人もいるし、何かの合間にどうしても救われたいと思って語る人もいる。それより他にやることがある人たちはみな、SNS以外のことをしているし、なんなら公衆に語りかけているような場合ではない。つまり、社会をどうにか動かすべく、努めて粛々と働いているひとたちは、声をあげているような余裕はないし、その権力をわざわざ行使する場面もないということでもある。

 逆に言えば、その場で語っているひとたちは、「語ることによって」社会を動かそうとしているひとであるともいえる。これが案外、そう、本当に、みなさんが思っている以上にバカにならないのである。

 これは知人には何度も語っていることであるので、ぼくをリアル環境で見たことがある人間であればだいたい一度は耳にしていると思うが、こりもせずここにも書こうと思う。

 ぼくが千葉県民だったころ、仕事の一環で当時の千葉県知事の講演を聞きに行ったことがある。ぼくはその県知事があまり好きではなかった。タレント出身である知名度を生かして参議院に入り(参議院は全国比例があるのでタレント出身者のような実績以上に知名度のある人間が入りやすいのである。ためしに「参議院 タレント」なんかで検索してみれば、その意外な多さに驚くだろう)、そこから知事になった彼はたたずまいもなんだかあまり知的ではなさそうだし、それこそ党派性で担ぎ出された飾りの人間のように思えてならなかったからだ。

 しかし、いざ講演を聞いてみると、その吸い込まれるような声色、抑制の利いたトーンに乗って、側近が書いたであろうお役所言葉がありえないほどに心に響いてきて驚いてしまった。同じ言葉を語って、これほどの説得力を持たせられる人間が果たしてどれほどいるだろうか。その講演を聞いたのはもう十年近く前の話であるが、今になってもふと思い出し、考えさせられる出来事となった。

 彼はただ語っただけに過ぎない。けれども、他の誰かが語る以上の圧倒的な威力を保持しているし、その能力を十分すぎるほどに発揮して知事の任期を全うした。ぼくは今でも彼をそれほど評価しているわけではないが、かつてほど嫌いではないし、少なくとも当時は、知事になるべくしてなっていたのだとは思うようになった。それが彼の「仕事」であったのだろうと、そう思っている。なお、今の千葉県知事についてはコメントを控えることとしたい。

 ぼくが言いたかったのは、語る「内容」以上に語る「人間」とその「技法」が、相手に伝わるかどうかを左右するし、ひいてはその差だけで社会が大きく変わってしまうということだ。そして、それに自覚的でなければ、この「技法」によって簡単に誘導されてしまうということも申し添えておきたい。

 ぼくは「連帯」「絆」という言葉が嫌いだ。どちらも、その言葉を使った側が使われる側をイデオロギー的な側面で拘束するためにしか使用されていないからだ。その言葉を使った時点で、そいつはこちらを結果的に下に見ているわけである。だからこの言葉を湯水のごとく使ってくるひとたちは信用ならないと思っている。

 昨今、この言葉をSNSで目にすることが増えている。SNSには意識下にしろ無意識下にしろだれかを支配したいという欲望が見え隠れするひとが非常に増えた。今まではそんなことなかったようなひとたちですら、そういった人間に一瞬の隙を突かれたのか、やはりそういった言葉で周りを縛り付けようとしているのを見るようになった。だからぼくは、最近ほとんど活動という活動をしなくなったし、年初に述べた通り、「黙る」ことについての訓練を行うようになった。もっとも、実際には、「他にやることが多すぎる」から活動自体が物理的にできなくなっているともいえるが。

 いずれにしても、たとえばこうした形で「黙っている」ぼくの言葉を「代弁」できる人間はいない。そう、いない。ぼくの言葉を勝手に代弁する人間は総じて嘘つきだし、その立場になりえない。

 逆に言えば、「沈黙は加担しているとみなす」という考え方で沈黙しているひとをいたずらに攻撃するひとが増えてきたが、これは自滅的な考え方ともいえる。沈黙は「沈黙」以外の何物でもなく、つまるところ何らかの立場を表明している人間の、敵でも味方でもないだけだが、攻撃すればたちまち攻撃者の敵にはなるからである。敵でも味方でもないのだから、せめて敵にならないように利用する、くらいの政治的スキルは持ち合わせていないと、語ることで身を立てていくのは難しいのではないかと、ぼくは思う。

 もちろん、ほんとうに「敵」という場合も少なくないのだが、しかしあなたの面前で「敵」であると表明していない限り、そしてあなたが攻撃をしない限りは、その沈黙者はどちらでもないのだ。いたずらに「敵」を増やさないためにも、それはわきまえておかねばならないと思う。

 願わくば、粛々と働いているひとたちを「代弁者」の「嘘」で追い込まないように生きていきたい今日この頃である。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!