90 転枝氏のはなし


 ということで人物編(と言うべきかどうか迷うけれども、そういうシリーズでいってみようとおもう)最初のターゲット(もしくは、犠牲者)は、ある程度書きやすい人間にしようと思って、時期的にも彼が適当と思われるので、今回は転枝氏について書いてみようと思う。
 ぼくと彼の大まかな出会いや軌跡についてはカクヨムで公開されている「〇(ゼロ)」に該当の項目があるので、もしお時間があれば参照して欲しい。もっとも、この記事を読む時点で少なくともあなたは「お時間がある」ひとであるので、できれば読んでいただいて損はないように思う。
 そこに書いていることに残念ながら嘘いつわりはない。正真正銘、ぼくが彼と出会ってからずっと思っていたことをその項にはつづっており、最終的に本になってからもそこまで大幅に改稿されることはないはずだ。彼がどう思っているかは知らないが、ぼくとしては彼にはそれほどに強い感情を抱いている。それは、ぼくと彼がほぼ対照的な環境下で人生を過ごしておきながら、最終的にある地点で交わったことに端を発するのだろうと思われる。「熱的死」の感想記事でも書いたが、彼の作品はひとつひとつのフレーズの威力をより高める努力がなされているように思う。そして、それらや彼と実際に語っている中で考えてきたのだが、ぼくと彼、すなわちひざのうらはやおと転枝は本当に真っ向から対照的な書き手であるという気づきを得た。


 どういうことか。端的にいえば、転枝氏は「転枝」という書き手を世界中に広めるための努力を惜しまない。そこには「転枝」という書き手は所与で、それをどう広げていくかという取り組みがなされているように思う。つまり、彼にとっては転枝という書き手が書く以上それはすべて転枝の小説、文章その他のメディアということになり、それ自体を広報していく手法をとっていて、実際彼の行動はおおよそそこに根付いているといっていいだろう。つまり、彼にとって「転枝」こそが自分であり、彼が著すもの、ことをより多くの人間に広めていく、という理念がもとにあるのだ。
 いっぽう、ぼくは同じような行動をしているように見えるが、その理念は正反対だ。いずれ詳しく書くことになるが、ぼくは「ひざのうらはやお」という書き手がなんであるのかを実は、まったくわかっていない。奇妙なはなしに思われるかもしれないが、ぼくにとって小説を書くということは書き手としての「ひざのうらはやお」を自ら分析し、解析し、その成果を発表する場に等しい。ぼくは世界でもっとも「ひざのうらはやお」を知りたいという欲求にかられ続けている。「ひざのうらはやお」が今小説を書くとしたら、それはどういった小説であるのか、ほかに何かをするとしたら、何をするのか。そこに他者は残念ながら介在しない。ぼくは「ひざのうらはやお」という存在しない書き手を追い続けている形式上の存在であり、だから便宜的にぼくは「ひざのうらはやお」を名乗っているし、むしろ「ひざのうらはやお」によって「名乗らされている」のである。だから別に「ひざのうらはやお」がどういった人間であろうが、それを解析するだけであり、ほかにどういう人間に知られていようが実はそこまで興味がないのだ。
 だから、ぼくと彼は非常に似た手法を用いるにもかかわらず、出来あがったものやオーディエンス、つまり読み手の属性が全く異なっている。ほぼ対照的で、互いに交わるようで交わらないといっていいはずだ。彼の小説を好む読み手はおそらく「ひざのうらはやお」の小説を読みたがらないだろうし、だとするならばおそらくその逆も然りだろう。それは、小説を書くモチベーションとスコープがすべてあべこべであるからで、そういった面でぼくと彼は同じひとつの地平線上にいるということにもなる。これがぼくと彼を結びつける奇妙な線であるともいえる。
 しかしそこにも妙な不平等さが存在する。ぼくは彼の小説をあまり好まない。彼はそうでもない。つまりそこに差が存在している。


 ぼくが彼の小説を読みにくいと感じるのは、そのほとんどは彼が描く登場人物の「くせ」が苦手であるからといっていい。少なくとも、ぼくが読んできた彼の小説の登場人物は一貫して「だらしない」属性を持ちつづけている。それが退廃的な雰囲気を帯びており、ある種の「色気」が現れることによって一定の読み手を引きつけていることは間違いがないのだが、実のところぼくは「ひざのうらはやお」たる中でそういった人間同士が共犯関係的に共鳴しうるある種の「だらしなさ」が極端に苦手である。べつのわかりやすい言葉を用いると「ひざのうらはやお」は「病的に潔癖」であるともいえるだろう。登場人物、ひいては小説それ自体の「だらしなさ」を感じたときにどうしようもなく憤りを感じてしまい、先を読む気がまったく起きなくなってしまうのである。これはぼく自身の敗北であると受け止めている。実際、ぼくの小説も彼の小説もどちらもまともに読むことのできる人間が心底うらやましいと思うくらいだ。


 とはいえ、ぼくにそういった感情をつくづく想起させるという意味で、やはり彼は優れた書き手であるということは明らかなのであろうと思う。だからこそ、ぼくは彼をどうにかして追いつき、どうにかして打ち砕きたいとどこかで思っている。ということだけは今一度、きちんと宣言しておきたい。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!