#7 「書くものがない」と書くとき、すでに書くべきものを「知っている」矛盾とどう向き合うのか、みたいなはなし

 まだまだ夏から秋にはならなそうである。

 あとがきを書くのが好きだ。というか、もはやあとがきを書くためだけに小説を書いているといっても過言ではないし、なんならぼくが書いているエッセイ的な文章はすべて文庫についているあとがきのパロディみたいなところがあったりする。だから同人誌であとがきに困っているひとを見たり、そもそもあとがきが不要だと思っているひとがそこそこいるのがカルチャーショックだった。文庫のあとがきのあこがれからひざのうらはやおの書き手人生(人生というほど大げさなものではないかもしれないが、とりあえずそれはひとまずこの場ではおいておくとして)は始まっているのだ。

 それゆえに、あとがきが一種の「ロマン」であり、裏を返せばコンテンツとしてはあくまで蛇足の存在であるということも十分にわかっている。だから、別にあとがきをこさえないひとをどうとも思わないし、それはおのおののスタイルの差であろうと思う。ただ、ひざのうらはやおにとっては、そもそもあとがきを書くために小説を書いて本にしているのだから、あとがきを書かないわけにはいかないし、実際あとがきに書くべきことが本編より全然重たいことだってありうるくらいだ。そういう作品でも、実際に評価されるのは小説本編のみであるし、かりにぼくが同人誌を批評するのだとしたらあとがきはあとがきとして、つまり本編とは別物として、その関連性でのみ考慮するというスタイルをとることになるだろう。

 ようやく、「猫にコンドーム」「飛んで火に入る」そして「驟雨、あとを濁さず」の三作が出そろったかたちとなった。これからこれら宇佐見三部作を「統合」する作業に入ることとなる。その段階で、これらを読み返し、また近しい同人仲間の小説も読み返すに、どうもぼくとかれらとでは小説に対する向き合い方がずいぶん違うのだなあ、と思い知らされた。なにがどう、というのを言語化するのはすこしはばかられる(というか、それこそが実のところ宇佐見三部作をはじめとするこれからのひざのうらはやおのテーマだったりするので)が、かれらとかれらが書いた小説は極めて近いというか、密接につながっている――がゆえに、完全に分離している――ような気がしている。これはぼくにとっては奇妙だ。ぼくは、ぼく自身が書く小説とは完璧に分離している。しているがゆえに、ぼくが書いたものはぼくの「周辺」を「写し取った」ものを組み合わせた域を出ず、したがってそれらを組み合わせることによってぼくの陰影が浮かび上がってきてしまうことに恐れを抱いているし、現にそれをどうするかというのが喫緊の課題だったりするわけであるが、かれらはまだそれに無邪気であるというか、意識的でないというか、そうであってもいいと受け入れているというか、そんな感じがしている。それはスタイルの問題、と片付けていいのだろうか、と少し考え込んでしまう。ぼくが、ほぼ同世代であるかれらに対しどこか隔世の感を抱いているのは、小説に対する感覚がまるで違っていることからきているのではないか、と考えるようになった。どちらがよいのかはぼくにはわからない。ぼくはかれらにはなれないし、かれらはもしかしたらぼくにはなれないのかもしれないが、その確証もない。ただ、別に「だからなんやねん」と思っているだけであって、その「だからなんやねん」というつっこみがぼくの生命線でありつづけている。

 最近とみにこの「だからなんやねん」の精神が重要であり、また青年レベル50くらいからおっさんレベル2にジョブチェンジしたこともありこの「だからなんやねん」のスキルがえらく重要だということをかみしめている。

 まあ、なにとは言わないが、つまりはそういうことである。ぼくはどうせ伝わらないと考えて書いているし、これからもそうするつもりである、というただそれだけの表明である。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!