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「百日紅」著:桜鬼(波の寄る辺)

 読書の鬼こと(こと、というにはぼくが考えた通り名すぎるが)桜鬼(はなおに)氏の最難関作品のうちのひとつ。読みは「びゃくじつこう」。

 氏自らをして「最難関」といわしめるだけのことはある。分量自体は短編の域を出ないものであるが、密度も文体も相応に堅い。それでいて、中身が見えない二重底の箱を覗き込んでいるような気持ち悪さが常に付きまとう。小説同人誌に限った世界でいえば、かなり尖った作品であることに異論はない。それは小説それ自体についてももちろんのこと、「この小説を単体で小説同人誌として頒布すること」自体が、より尖っているといえるだろう。この小説は常に読者を値踏みしており、試し続けている。しかも、読み手が確実に「読破」することがないと確信しているようにすら感じられる。それは一種の高慢にも受け取られるだろう。しかし、ぼくはそこに真摯さと、氏の清純さを感じた。これは紛れもない、氏が全力投球を試みた作品であるとぼくは読む。さらにいえば、本来であれば様々な氏の作を読み重ねた者が到達すべき本作を、氏はおそらく(ある種の挑戦的な視線でもって)いったん早めに推薦するものと思われる。この小説には氏の「書き手としての魂」が封ぜられていて、けれども目の前に見える硝子の箱にしまわれた神秘的なそれは「偽物」、本物は鏡で隠された二重底の奥か、もしくは「まだ存在しない」のどちらかで、少なくとも氏は「偽物」を取らせたいのではないか、というような気概をぼくは感じた。

 つまるところ、可能であれば、ぼくは氏の様々な作品を読んでから、もういちど本作に立ち戻る必要がどこかであるのだろう。そしてそれはほかの読み手のみなさんも、おそらくそうであるようにぼくは思う。

 他にいえることがあるとするならば、おそらく「ほころび」や「まぼろし」の配置を氏以外に読み解くことは、というよりも現在の氏ですらもしかすると不可能になっている可能性があるのだということである。いずれにしても絢爛にして堅実な文体の中にどことなく違和感が添えられていくさまは最初こそ気になったが徐々に癖になっていった。そういう類の毒のようで、それが氏の書き手としての持ち味なのかもしれない。

 もう少し、他の作品を読むべきだと思った。

おすしを~~~~~よこせ!!!!!!!!おすしをよこせ!!!!!!!よこせ~~~~~~!!!!!!!おすしを~~~~~~~~~!!!!!!!!!!よこせ~~~~!