見出し画像

「落下の解剖学」 “分からなさ”とどう付き合っているのか

アカデミー賞作品賞候補作品「落下の解剖学」を観ました。

スリリングなサスペンス、ではない

まず、この映画に「スリリングなサスペンス」や「いわゆる推理モノ」を期待して観にいくと大きな肩透かしを喰らいます。
事件パートにも裁判パートにもスリルはないし(違う意味で存分にスリリングではあるが)、巧妙なトリックもなければ痛快な解決パートもない。

この映画は、日常に溢れる“分からなさ”とどう付き合うか、いや、現に私たちは“分からなさ”とどう付き合っているのかを、ある男性の死とそれによる裁判というストーリーを借りることで白日の元に晒し出すような映画だと思いました。

とにかく、この映画は“分からなさ”で溢れています。
事件の真相も分からないし、登場人物の発言が本心を表しているのかも分からない。
そしてひとつ上のレイヤーでは、つまりメタな目線で言えば、この映画が何を目指しているのか私たち観客にはなかなか分からない。

日常は“分からなさ”で溢れている。その中で、私たち人間はどうやって生きているんだろうか?真実を確かめることはできるのだろうか?という映画だと思います。

以下、ネタバレを含みます。


主観と客観のずれ(ネタバレあり)

日常には、いつも主観と客観のずれがあります。
「こうだと思ったけど実際は違った」とか「〇〇と言っていたけど本当はそうじゃないらしい」とか。
「客観的事実」という言葉があるが、「これは客観的事実だと思う」というのはすでに主観的になっている。

劇中の裁判で、裁判長も検事も弁護士も客観的事実を明らかにしようとするのだが、めいめいの主観がその邪魔をする。
そして、映画を観ている私たちも、何が客観的な事実なのかを知りたいのにそこに辿り着けないもどかしさを一緒になって追体験することになる。
「主人公のサンドラのことは信じたい」とか「息子のダニエルは嘘をついていないはずだ」とか、そういった主観や願望を基にすることでしか真実と認定することができない状況に追い込まれる。
先に「スリルはない」と書いたが、存分にスリリングではないでしょうか。

それでも確かめたい(ネタバレあり)

何が真実か確定的には分からない中で、それでも私たちは日々を送っている。いろいろな場面で判断を迫られ、実際に判断を下している。

劇中、(これは一例ではあるが)ダニエルもまた真実の分からなさに苛まれ苦悩する。
そして彼は、思わぬ行動を起こす。愛犬にアスピリンを食べさせたのだ。そうやってようやく、「少しだけ確からしい真実」に近づく。
ダニエルのこの「確かめたい」という無垢な思いが、少しだけ物事を前進させる。

私たちもそうやって、少しずつ「少しだけ確からしい真実」を確かめながら、この“分からなさ”で溢れる日常を生きているような気がします。

まとめ

この映画は、スリリングなサスペンスでもないし、痛快な謎解きミステリーでもないし、大ドンデン返しを楽しむような映画でもない。
家族の人間ドラマであり、日常に溢れる不確かさに抗いながらそれでも懸命に生きている者たちのドラマです。
そこさえ間違わなければ、俳優たちの素晴らしい演技と丁寧に作られたストーリーを楽しめ、観た後にもじんわりと心に残る良作だと思いました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?