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「インターステラー」 届かないメッセージ

クリストファー・ノーラン監督の「インターステラー」を観ました。
正直、ちょっと期待はずれでした。

この映画の核は、「『相手に届かないかもしれないメッセージ』をどう扱うか?」だと思います。
まるで見当違いだったらごめんなさい。そうだと仮定して感想を書きます。

相手に届かないかもしれないメッセージ

劇中、まさに時空を超えて「届かないかもしれないメッセージ」のやりとりが試みられる。何度も何度も。
「メッセージを受信できるけど送信できない状況」や「メッセージを送信できるけど受信できない状況」がいろんな形で登場する。本当に何度も何度も。
言い換えれば、「受信したけど受信できたことを送信者に伝えられない状況」や「送信したけどそれを相手が受信してくれているか分からない状況」。
そんな状況下でのメッセージの「やりとり可能性」を探る、なかなか普遍的で奥深そうなテーマです。

相手に届くかわからない(しかも、たとえ届いても送信者は届いたことを確認できない)メッセージを送ることに、どれほどの意味があるのか?というような、「相手に届かないかもしれないメッセージ」の取り扱いをきちんと掘り下げて、SF映画の形を借りてそれを考察するような映画だったらもっと響いたと思います。

この映画から導かれる「『届かないかもしれないメッセージ』についての真理」は次のようなものだと思う。

  • 『届かないかもしれないメッセージ』は、相手を無条件に信じているときにだけ意味を成す

  • しかもそのときメッセージの中身はあんまり関係ない

普遍的で全人類的な真理だと思う。

以下ネタバレあります。


致命的な問題点 (ネタバレあり)

このようなことを表現したいのなら、父と娘は再会する必要はなかったはず。
というか、再会して「メッセージが伝わっていたよね」と確認し合うのはナンセンス。
裏を返せば、「届かないかもしれないメッセージのやりとりに意味があったことを確認するには、やっぱり直接会って確認し合うしかない」ということになっちゃうから。

たとえば、娘はすでに息を引き取っていて、ビデオレターの形で「伝わっていたのよ」と父親に伝わる、という方がこの映画らしいと思う。
「『伝わっていたのよ』と父親に伝わったことを娘はついに確認できない。それでもいいのです。」という映画でしょ?

ではどうして再会させたのか?
それは、映画制作サイドが観客を信じきれなかったからではないでしょうか。

『届かないかもしれないメッセージ』は、相手を無条件に信じているときにだけ意味を成す。」という命題を、制作サイド自身が実践できなかった。
この命題を観客に伝えるには、伝わりやすい形(再会して確認し合うという形)で提示しないと伝わらないんじゃないかと疑ってしまった。
観客を信じきれなかったことで、このメッセージはこのメッセージ自身の定義により意味を失ってしまったのではないでしょうか。

他にもいろいろ気になる点が (ネタバレあり)

ラストが気に食わないから「期待はずれ」と言ってるわけじゃないです。全編を通して、いろんなことを取り扱ってて、とっちらかってる。

「プランB」の場合、人類は「生き残った」と言えるのか?それを人類は生物として望むことができるのか?とか、生存できない星に着陸しちゃったけど助かりたいから嘘ついて信号送っちゃおうか?(あの博士の葛藤ですね)とか、絶望の状況でも科学者は科学を追求できるのか?とか、ワームホール&ブラックホール&五次元世界のビジュアル表現とか、面白そうなテーマがいくつかあって、贅沢にとっちらかっている。

「SF映画の形を借りて、そこらの映画にはない深遠なテーマを取り扱う映画」だったはずが、結局「よくあるてんこもりSF映画(そのくせ難解)」になってしまった。

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