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信仰について考える

今日、7月15日は熊本の一部地域ではお盆。私も実家に行き仏壇に手をあわせ、その帰りにお墓にもお参りしてきました。両親が元気な頃までは、13日にご先祖さまをお墓に迎えに行き、15日に見送るのが、我が家の習慣でした。その両親も鬼籍に入り、最近では1日で済ませることも多くなりました。

そういえば、私の実家が神社であることを知る人からは、家に仏壇があることを不思議がる人もいます。れっきとした浄土真宗で、神主を務めていた両親ともに仏式で葬儀を執り行いました。『神仏習合』とまでは言わずとも、家には仏壇があっても、お正月には神社に初詣に行く。そして最近は少なくなったのかもしれませんがクリスマスにはツリーを飾り、ケーキ等でお祝いをするのはごく一般的な日本人。私自身も、どうしても守るべき教義があるわけでもないのですから、それだけ宗教に関しては寛容な国といえるのかもしれません。

安倍元総理の襲撃事件から1週間が過ぎた今も、メディアでは功績を称えたり、功罪を取り上げたり、今後の政局を占ったりと、しばらくは落ち着く様子はありません。漏れ伝わってくる容疑者の発言から、某宗教団体に注目が集まっています。教団の代表が記者会見を開いたかと思えば、霊感商法や多額の寄付で被害を受けたとする人たちの弁護団がその内容に反論する記者会見を開くなど、詳細が明らかになるに連れて、宗教について色々と考えさせられています。

「カルトと宗教の違い?」
「そもそも宗教って何?」
「信教の自由とは?」
「政教分離はなぜ必要なのか?」

熊本にはかつて『オウム真理教』の拠点があり、その教祖は熊本県の出身でした。その宗教団体が勢力を広げ、国政選挙に挑戦すると、面白おかしく報じられたこともありましたが、地下鉄サリン事件をきっかけに、過去の殺人事件や暴力的行為も明らかになり、幹部の相次ぐ逮捕の果てに、消滅することになりました。宗教を身にまとったカルト的な集団でした。
また『イエスの方舟』という信仰集団もありました。当時、主宰者が女性を監禁する『カルト集団』のように報じられ、一旦は、名誉毀損や暴力行為などの容疑で指名手配されたものの、結果的にはほとんどが不起訴処分となり、その後も信者とともに幸せに集団生活を送られたとか。現在、日本には18万もの宗教団体があるそうですが、何をもって宗教と呼ぶのか、その評価は、いずれもとても難しいと感じています。

政治と宗教の関係としては、信教の自由があり政教分離があります。過去の教訓から、過度に抑制することなく、一定の距離感を保つことが必要だと言われてきました。ところが最近は、その原則がとても緩くなり、政治と宗教は安易に利用し合うようになってしまった。政治の側は選挙の票として、宗教側は信頼を得るための広告塔として。なかば、それが暗黙の了解のようになってしまったことも、今回の悲劇が生まれた一因と言えるのかもしれません。

人間は一人では生きていけない弱い生き物なのだと思っています。特に、辛いとき、苦しいときなどは、誰かに、何かにすがろうとする。その支えに宗教がなっているとするなら、決して否定されるものではないでしょう。その割に私たちは、宗教に関して、寛容というよりも知らないことが多すぎるのかもしれません。もうタブー視することは止めて、宗教の意義やあり方をあらためて考えることが、今回の事件から得た教訓の一つではないかとも思っています。

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