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『普通』という言葉の違和感

最近、『普通』って言葉がとても気になるようになりました。普通免許、普通郵便、普通預金、普通交付税、普通ごみ、普通電車……以前はあまり意識することはなかったのですが、どれも当たり前のように使われてきた言葉です。普通の対義語を調べてみると、希少、奇抜、特別、特殊、特異、異常…などが出てきますが、この中でも、特異や異常、特殊の反対の意味として濫用されることが、私は嫌なんです。使い方によっては、容易に人を傷付けてしまう危険な言葉だと感じています。

多くの人は自分のことを普通だと思っています。その普通の基準はあくまで主観。本来、普通とは寛容さを表す言葉だと思うのですが、同じような価値観を持つ他者の同意を得た『普通の仲間』を増やそうとする行為が、第三者を差別したり、排除するような排他的な言葉に変化してしまっています。「自分の標準から外れた価値観や考えを決して受け容れようとはせずに、異質なものとして攻撃する」―最近、よく見かける光景です。

普通に関わることであえて言えば、『議論』と最近聞くようになった『論破』とは全く別物です。論破とは自分の考えを押し通し、相手を負かすことが目的です。議論もしくは熟議とは、自分の考えを持ちつつも、相手の異なる見解に触れることで、よりよき考えや解決策を導き出すこと。普通か、普通でないかなんて関係ありません。熟議と論破合戦の境は微妙でもあり、議論好きの私は気をつけないといけないところでもあります。

「熟議だ」「論破だ」と騒がしい世界に巻き込まれたくない人は、目立つことを控えたり、自分の意見を封印することで自己防衛を図ります。困るのは普通と称するグループに入ることで、異質な人を集団で排除しようとすること。いじめの典型的な例です。普通って、なかなか『クセモノ』だと思いませんか?

普通という言葉にマイナスイメージを持つようになったのとは逆に、『無関心』という元々マイナスイメージの言葉がプラスに変わってきました。普通じゃないからと責めるくらいなら、極端かもしれないけれど、無関心でいた方がよい。愛情と背中合わせの無関心。相手がどうであろうと関係ない。自分が普通であるという感覚を捨てる。そうすれば異質な存在がなくなり、排除もなくなる。共感まではいかなくても、せめて愛情を持った無関心であることはできるはず。理想は、無関心を装っていても、何か困ったことがあればそっと手を差し伸べる。そんな人が増えていけば、もっと誰もが住みやすい世の中になるのかもしれません。そんな社会を目指したいものです。

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