見出し画像

震災は今も続いている

11年前、私は「忘れられない日」と題して、こんなブログを書いていました。

「(前略)。最近は地震がよく発生していることもあり、最初はそれらの一つと捉えたが、詳しい情報が入るにつれてその深刻さに身震いした。まち全体が破壊されている。しかも広範囲にわたって。その後も余震が続き、余震といえないような大規模な地震が発生している。原子力発電所も気になる。新幹線開業イベントはもちろん中止。一地方ではなく国家的な災害。私たちに何ができるのか、私たちは今何をしなければならないのか、急いで検討し、準備を整えなければならない。危機管理監のもとに災害支援本部を設置することを決め、支援要請に迅速に対応していく。早速給水車2台が現地に向かう。その間にも津波警報が発令中であり、支援だけでなくいざという時の備えも怠ってはならないと緊張感を保つ。大変なことが起きてしまったが、混乱しないよう、冷静に迅速に対応していきたい。(2011年3月12日)」(『コウヤマノート 熊本市政4,383日の軌跡』より)

心の動揺がそのまま文章に表れているようでもあります。実際に、このときは既に水道局の給水車を現地に走らせ、その後、多くの保健師や他の職員さんたちも避難所での支援にあたられました。私も何度か、熊本にとっての重点支援先であった宮城県東松島市や南三陸町を訪れています。

今も時々思い出すのは、ある被災した自治体職員さんのお話。自らも被災者であるにも関わらず、地震発生直後から、それこそ不眠不休で人命救助や救護、避難所の運営にあたられており、その中にはご遺体を安置するという役割もありました。火葬が追いつかないために、仮で一旦埋葬し、火葬場が空いたらご遺体を掘り起こして荼毘に付す、そんなことが被災地では行われていたのです。その方の身体を心配された上司が「少し休むように」と促すと、「行方不明になっている両親と、いつかここで会えるような気がするので」と断られました。

その職員さんは今どうしておられるのか。ご両親との再会は果たされたのか。もちろん知る由もありません。11年が経過した今も行方不明者は2,523人とのこと。あの地震から、時が止まったままの人たちが、未だたくさんいらっしゃるのでしょう。

災害に関連する言葉の中には、場合によっては押し付けにもなりかねない言葉がいくつかあります。『寄り添う』や『絆』を濫用しないように心がけてきました。今後は『震災から〇〇年』といった表現も気をつけなければならないと思っています。

震災は今も続いているのですから。

そのことを私たちは決して忘れてはいけません。戦争や感染症のまん延などから、記憶の隅に押し込まれてしまわないように、再度しっかりと記憶に焼き付け、遠い被災地のことを思う。3月11日は、静かに痛みと悲しみを分かちあう、祈りの日だと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?