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親子で会話していますか?

今日は、父の一周忌の法要が執り行われました。命日は2月14日なのでもうすぐ1年、早いものです。コロナ禍のために会食は中止。それでも近い親戚に実家に集まっていただき、ご住職からお経をあげてもらうことができました。1時間ほどの読経の最中、父のことを色々と思い出してみました。そして話しかけてもみましたが、もともとほとんど親子の会話はなかったせいか、私の問いかけに答えてくれることはありませんでした。時代でもあったでしょうが、子どもの頃の父は、仕事でほとんど家に居なかったと記憶しています。

今思えば反抗期なのか、長い思春期だったのか、「早く親もとを離れたい」一心で、高校を卒業すると、県外の進学・就職先を自分で決めてしまい、父には事後報告のみ。その後、就職した私が突然、「地元に帰る。しかも父の後を継ぐ形で選挙に出る」と言い出したときには、さぞや驚いたことだと思います。

帰郷してからは、同居ではなかったものの、仕事のことなどで父と話す機会は少なくありませんでした。ところが、それら全ては、ぽつりぽつり・・・・・・お互いに用事を訊ね、答えるとそれで終わり。しばらく沈黙が流れます。共通の話題を探そうにもなかなか見つからず、車中に1時間ほど2人で居ても、会話がゼロなんてことは珍しくありませんでした。私は「親子なんて、そんなものかな」と半ば諦めていたのですが、さて父の方はどうだったのでしょう。

私自身も3人の子どもの父となり、今では皆成人し、社会人や学生となって離れて暮らしています。小さい頃から、そんなに子どもたちと会話をしているわけでもなく、父とあまり変わらないのかもしれません。父の89年間の人生の3分の2ほど、私は親子として過ごさせてもらいましたが、「父のことをほとんど知らないのかもしれない」。お経を聞きながら、そんなことも考えていました。

父は人生を全うしましたが、私の人生はまだこれからも続きます。法要を機に、ようやく父に対峙しようとしているのかもしれません。遺影に語りかけるうちに、これからも私にとって父であり続けてくれることに感謝したい気持ちになりました。父からは、「何を今さら……」と思われるかもしれませんが、これから静かに語らう時間を持つつもりでいます。



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