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親ガチャ~さまざまな境遇が人生を決める!?

「親の収入などの境遇次第で子どもの人生が決まる」と思う人は、「どちらかといえば」を含めると73%にもなるそうです。「格差が固定化されると思う人」も59%に達するそう。日本社会の閉塞感を表すものとして、世論調査会が実施した『結婚観・家族観』を巡る全国郵送世論調査の結果が紹介されていました。

どんな親のもとで生まれたのかで、子の将来が左右されることを「親ガチャ」と称するそう。最近になって、その言葉を知ることになりました。コインを入れて出てきたカプセルを空けるまでのワクワクする気持ち、当てが外れてとてもがっかりしてしまう、そんなカプセルトイをするときの気持ちは容易に理解できても、それらを親子関係に例えられると、なんとも複雑な気分になります。子であり親である私としては、複雑というよりも、とても悲しい気持ちにさせられる言葉です。少なくとも私自身は親を当たり外れで捉えたことはありません。仮に時代の違いなのであれば、親としての私は当たりなのか?それとも……
仮に当たりと言われても、とても喜ぶ気にはなれないでしょう。

よく考えれば、親だけでなく学校の先生や職場の上司、自宅のお隣さんなども、基本的に選べるものではなく、転校や転職、引っ越し等の道はあるものの、そんなに簡単に実行に移せることでもありません。運命というと少し大げさかもしれませんが、置かれた環境を受け容れることができるのか、それは受忍の範囲内なのか、自分の人生を自らの力で切り開こうとする意思を持つことができるのか、それぞれの環境で問われることになります。置かれた環境を変えようとすることは、決して逃げではなく、勇気のいることでもあります。その意味では、変えることを否定してしまってはいけないのでしょう。

私は最近、児童養護施設や里親のもとで育った若者たちと接する機会が増えました。何らかの理由で親と一緒に暮らすことができない人たち。その中には、幼い頃の死別を含め実親のことを全く知らない人がいれば、そうではない人も。ある施設の人の話によれば、ほとんどの施設の子には親がいて、子は親の存在を認識していても、面会に来る(来ることのできる)親はごく僅か。当たりも外れもなく、変えることもできず、受け容れざるを得ない環境にいる若者たちです。

そんな若者たちを見ていると、あらゆる格差が叫ばれる中、希望の格差だけは何とかして埋めていかなければならない。どんな境遇にあっても、いくつかの選択肢があり、自らの意思で決めることのできるような環境を整えていかなければならない。親ガチャなどという言葉では済ませられない、そう強く思います。それは私たち社会の責任なのです。

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