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メメントモリ~冥福を祈る時

昨日は、安倍元首相の国葬が行われた……らしい。

あえて伝聞調にしたのも、国葬に関する報道には一切接しないように注意していたからです。国葬、内閣葬、合同葬、国民葬、形式は何であれ、人を弔う際は静かな環境で故人の生き様を振り返り、見送る場でありたい、政治利用などかけらも考えてほしくないと切に願うものだからです。

意見を表明することは自由かもしれませんが、「国葬反対」とシュプレヒコールをあげるデモの様子などは見たくありませんし、評論家が過去の業績を必要以上に美化するようなコメントなども聞きたくありません。祈りたい人が祈る。誰が出席するとかしないとか、踏み絵を踏ませるかのようなプレッシャーをかけたり、案内状が来たけれど私は行かないアピールなど、どちらの行為も虚しさを感じてしまいます。

そう考えると、7月21日付のnoteにも著したように、このような状況にした者の責任はとても重いと言わざるを得ません。海外の要人が参列することを機に、トップが会談を行うことを『弔問外交』と呼ぶそうです。岸田首相が立て続けに30名ほどと会談したとか。要人と顔を合わせる機会は多い方がいいのかもしれませんが、それが半ば常識のように扱われる感覚が私には理解できません。不謹慎極まりないとすら思えてしまいます。一体、誰のための、何を目的とした国葬だったのでしょうか。

【国葬の是非を問う】
https://note.com/s_kohyama/n/n04e48eff063a

なぜそんなことを考えたのか?先日、北九州文化芸術劇場での公演を観に行った際、偶然でしたが、作家であり写真家の藤原新也氏の展覧会が階下で開催中で、久しぶりに彼の作品の数々に触れたからかもしれません。20歳代の前半に、彼の著作『メメント・モリ』を読んだときの衝撃が蘇りました。「メメント・モリ」とはラテン語で「死を想え」。死体を漁る犬の写真と「ニンゲンは犬に食われるほど自由だ」という文章の衝撃は、しっかりと脳裏に焼き付いていました。

安倍元首相は好き嫌いのはっきりと分かれる政治家だった。そして非業の死を遂げられた。だからこそ最期は静かに見送るべきだったと思います。あたかも人の死を弄ぶかのようなセレモニーは見たくなかったのが率直な気持ちです。ご冥福を祈りたいと思います。

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