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【責任をともなう判断】45 杉本通信~真贋を見極める~

こんにちは

こんにちは!ナカモリです。皆さま三連休はいかがお過ごしでしょうか。
週末から週明けにかけては台風14号の日本列島接近・上陸が予報されております。全国の皆さま、大雨や土砂災害に十分注意してくださいませ。


本題に入る前に、お知らせがあります!
東北大学文学部百周年記念事業・デジタルミュージアム 
" 歴史を映す名品 "
 が文学部のホームページにアップされました!

東北大学文学部は今年で創立100周年を迎えました。
それを記念して、附属図書館や文学部の研究室が所蔵する珠玉の「名品」を、文学部の先生方が紹介する、デジタルミュージアムが公開されています。
東日美からは長岡先生が河口慧海請来チベット資料を、そして杉本は福島三春藩の秋田家肖像画について解説しています。

その他にインタビュー動画もあり、先生方が文学部でどのような研究をされているのか知ることができます。
こちらはインタビュー・撮影を東日美の院生・助手の先輩方が、動画編集を杉本が手がけております。ご興味のある方は是非ご覧ください!



今回の話題

さて、今回は、「真贋を判断すること」について考えます。

前回の記事でも触れましたが、美術史の研究においては、作品が偽物であるにも関わらず、本物とみなされ、訂正されないままになっていることがあります。
杉本はこの原因として、上下関係や、自分の立場を危うくしたくない、といった理由で、他の研究者の意見への批判が十分にされていない現状を挙げていました。
加えて、研究者の考え方の癖にも原因があると考えています。

概して我々は「頭でっかち」になりがちだ。それを自覚せねばならない。だ
から勉強したことと、現実で行われていたことを合致させる努力が必要なわけである。
けれども、多くがその現実と一致させる努力をしていない。「頭でっかち」
とは勉強したことと、現実の有様が一致していない状況を言う。

『杉本通信』(50)より

上に引用した杉本の考えを読んで、「学校の勉強ばかりできても仕方がない」とか、「学校の勉強は役に立たない」といった言葉を思い出しました。

(世間でよく言われるこれらを初めて聞いた時には、私も若かったので「うるさいなぁ」と思わなくもなかったのですが、)
杉本のみならず、社会人として働く大人たちが色々な表現でこの問題に言及しているということは、学んで来たことを現実に合致させられないことが多いのだろうと感じました。
故に、学校の勉強を社会で活かせるか否かは、自分の努力次第であり、知識の適切なアウトプットは、美術史研究以外のいかなる場所で働くにしても重要な技術なのだと思います。

一方で、私たちより上の世代の学芸員は、学生時代に真贋について学んでいないために、そもそもアウトプットするための知識を持てなかったのではないか、とも感じました。それならば、現場に出てからたくさん作品を見て、真贋を見極められるように訓練すれば良いだろうと考えましたが、杉本は、ものを見る量ではなく「責任をともなう判断」の重要性を説いています。

もちろん先ほど述べたように、考える方向性が悪い...ということもあるが、
実は「経験」や「年数」が人を作るのではない...ということだ。
重要なのは「経験」や「年数」の多寡ではなく、どのくらいの「判断」をい
かに試行錯誤して下してきたか...ということである。
もちろん人生経験が豊富ならば、「判断」に迫られる場面も数々遭遇してき
たはずである。けれども、その「判断」の場面から逃げたり人に任せたりするような、責任のともなわない「判断」であれば、それは「経験」たり得ない。
問われるべきは「経験」の多寡ではなく、責任をともなう「判断」の多寡で
ある。
だから美術作品を数多く見てみても、真贋に対する「判断」、作品レベルに
対する「判断」を人の頭を借りて行っていれば、それは「経験」たり得ないわけである。もちろん、その「判断」には、すべて試行錯誤を経たうえでの「理由づけ」が必要となる。

『杉本通信』(50)より

杉本は、作品の真贋を判断するのに他人の基準を使っていても、その判断は自分の「経験」にはならないと言います。

この「他人の基準」を、自転車の補助輪に例えると分かりやすいかもしれません。

「他人の基準」=補助輪(?)

子供のころ、自転車に乗れるようになる前には補助輪をつけて練習した方も多いと思います。初めて乗る自転車は、補助輪をつけた途端に車体が安定して、どこまでもスイスイ漕いで行けそうな気がします。しかし、十分練習した後に「よし、一人で乗ってみるぞ」と補助輪を外しても、すぐにまっすぐ漕ぐ事はほぼ不可能です。それまでスイスイ進めていたのは、自分の実力ではなく、あくまで補助輪の恩恵にあやかっていただけだったからです。


それと同じで、他人の基準を元に真贋を判断しても、それは自分の実力にはならない、ということではないでしょうか。
何度も転んで、その末にバランス感覚を身につけ、やっとの思いで自転車に乗れるようになったように、試行錯誤を重ねて自分なりの基準を獲得してこそ、理由づけされた「責任をともなう判断」が可能になり、それが経験として自分の糧になっていくのだと思います。

ありがとうございました

今回は、作品の真贋を見極めるのに重要な「責任をともなう判断」についてお伝えしました。

一人前の研究者としてやっていくためには、自分なりの基準を獲得することが必須です。しかし、私のような初学者にとっては、真贋を判断する上で、一つ軸となる「他人の基準=補助輪」は、はじめの一歩を踏み出すために必要でしょう。
ですから、試行錯誤を重ねて他人の基準でものを見ることから徐々に脱却し、自分で進んでいけるだけの力を身につけることが、大切なのではないかと考えました。

それでは、今回はここまで。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!

【参考】

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