見出し画像

【短編小説】月夜

念願の美大に合格した『僕』は、父の旧友である画家『先生』の家に下宿することになる。僕が絵を志す理由になった『先生』の代表作である『月夜』の連作について先生は語りたがらなかった――。 穏やかに続く先生との日々の中で、ある日先生が語った『月夜』の秘密とは。薄青い月夜の情景の中で、先生が見たもの、信じたもの。 『僕』が子供のころから憧れた絵の中で、先生の見ていた真実とは。

 一、下宿


 一年間の浪人生活の後、僕は志望の美大に合格することができた。

 問題は、東京にあるその大学に通うためには下宿先を探さなければならないということを、それまで受験のことで頭がいっぱいだった僕は見事に失念していたということだ。
 進学が決まり、我に返った三月の初めには、大学近くの物件は埋まってしまっていた。

 大学近くの不動産屋に何件か当たってみても、どこも
「近い部屋は埋まっちゃいましたねえ。予算に二・三万上乗せするか、幾つか離れた駅でしたら見つかると思いますけども」
 と媚を滲ませた声で申し合わせたような返答をし、その度に僕は申し訳程度の苦笑いを顔に貼り付けながら「考えます」と会釈をして店を出ることを繰り返した。

 暗黒時代だった受験を越えたのに。
 漸く目の前が開けたと思った早々、ぶつかった問題に僕は早くも気持ちが暗く澱み始めているのを感じていた。逃げ込むように駅前にあった喫茶店に入り、先刻不動産屋に渡された何枚かの紙をぼんやり眺める。
 ――大学に合格通知さえ貰えれば、半ば自動的に華々しい一人暮らしと大学生活が始まるのだと信じていた自分が間抜けだったということなのだろう。
 このままずるずる迷ったままで、部屋が見つからなかったら、僕は一体どうなるのだろう。絵を描くことに集中したいからこそ選んだ大学で、生活費のためにアルバイトに明け暮れることは避けたかった。頑張ってこのまま安くて自転車で大学に通える部屋を探すべきなのだろうか。だからと言って、変に安くても幽霊の出る部屋は嫌だし、なにぶん人生初めての一人暮らしで胡散臭い物件は避けたい。
 ——でも、そうも言ってられない立場なんだろうか。
 幾つか駅が離れて電車通学になってしまうと毎日の交通費が余計にかかるから、大学の近くで少し高い部屋に決めたほうが得策なんだろうか。

 文字通りに頭を抱えながら、気を紛らわせたい一心でポケットの携帯電話を取り出してみる。受験だったこともあり、普段メールも通話も着信がほとんどない電話に珍しくランプが点滅して、不在着信があったことを知らせている。

 着信は父からだった。一瞬何か心躍るような期待を淡く抱いてしまった自分に少しの落胆を感じながら、僕はリダイアルのボタンを押した。

「もしもし、お父さん?」

「どうだ、部屋は見つかったか」

「いや、まだ……全然」

 どうしても声が暗くなる。電話口の向こうで昼休み中らしい父は僕の落胆など気にしていないらしく「そうかあ」と暢気な返事をした。

「で、何?」

 憮然とした口調で聞き返した僕に、父は酒に酔っている時のような変に明るい口調で話し始めた。

「父さんのな、大学時代の同級生が、お前の行く大学の教授をやってたことを思い出したんだよ。今もやってるかどうかは知らなかったんだけど連絡してみたら、お前が絵の道に進んだことを大層喜んでくれてな」

「……はあ」

 父の友人が大学の先生に居ることは知らなかったことだけど、今はそんなことに時間を割いている暇はない。大学の先生と縁があるのは悪いことではないのだろうけれど、それは暮らす部屋が決まってから考えることだ。いつになく嬉しそうに話す父の声に、僕は少しの苛立ちを感じていた。父はこちらの心中など、お構いなしな様子に言葉を続ける。

「でな、さっき思いついて電話をしてみたら、今も大学近くに住んでるんだそうだ。お前が部屋を探すのを忘れてて今日慌てて探しに行ったことを話すと、うちに住めばいい、って言うんだよ」

「……えっ?」

 思いもかけない言葉に、声が裏返った。喫茶店中に響いた声に慌てて辺りを見回し、振り向いた他の客に場を取り繕うように頭を下げる。

「父さんもそいつとは旧知の仲だし、お前も急に一人暮らしをしてみるよりも、落ち着くまでその人の家に居させてもらったらどうだ。出たくなったらいつでも知り合いの不動産屋を紹介してくれると言ってる。今の時期は引越しシーズンで見つからないかもしれないが、落ち着いた頃に探せばちょうどいい部屋も見つかるんじゃないかって。父さんもいい考えだと思うんだが」

「え、あの、ちょ、ちょっと待ってよ。……え? 知らない人の家に転がり込むことになるの?」

「お前も知っていると思うよ。その人の画集が家にあったから」

「え、いや、あの、そういう話じゃ……」

「まだ部屋も見つかっていないんだろう? じゃいい話じゃないか。父さんから連絡しておくから、今日のところは家に帰ってくればいい」

「ええ、あの……」

「じゃあな。気をつけて帰れよ」

 耳元でブツッと音が響いて、通話終了という文字が画面に映った。僕は携帯を右手に持ったまま、今の会話を思い返していた。が、いくら思い返して考えてみても、急な話に頭が付いていかない。

 ――僕は、憧れの大学に入って、一人暮らしを始めるんじゃなかったのか。

 切れた電話を手に持ちながら、自分を落ち着かせようと、目の前に置かれたコーヒーを一口啜った。それでも頭は整理されない。僕は今日これから、どうしたらいいんだろう。

 ――だけどこのまま、この喫茶店でいつまでも途方に暮れている訳には行かない。

僕は冷えたコーヒーをもう一口啜って、耳に残る父の最後の言葉を信じ、今日はもうこのまま新幹線に乗って家に帰ろうと思った。


          *


 一人暮らしと自由な大学生活への期待を暗雲に飲み込まれたまま、そこからは知らないうちに着々と話が進み、僕は入学式を控えた三月終わりのある日に、父の友人である高倉氏の家に越した。

 僕が転がり込むことになった高倉氏の家は、大学から歩いて五分ほどの住宅地にある小さな一軒家だった。不動産や物件のことに詳しくない僕ですら、その家が古びていて、あまり手入れをされないままになっていることは分かった。座敷に面した小さな庭だけは多少の手入れがされているらしく、咲き始めた春の花がそこここに顔を擡げている。

 初めて会った高倉氏は父と同級生という割に、幾分父よりも年上に見えた。心配していたような大学教授然とした厳格そうな人や芸術家然とした気難しそうな人ではなく、静かに柔和に笑う人で、不安に巻かれていた僕は、彼の顔を見て少し気が楽になるのを感じた。結婚もせず家族も持たず、この家でずっと一人で暮らしている、と高倉氏は言った。

「もう、大学では教えてらっしゃらないんですか」

 と聞いた僕に、高倉氏は「何年か前までは教えてましたよ。今も訪ねてくる学生相手に時々個人塾のようなことはしてますけれどね」と答えた。

 同じ家に住み始めて数日たった後も、彼は一向に働きに出かける様子もなく、かといって画家らしく絵を描くというわけでもなく、毎日散歩をしたり本を読んだり、まるで隠居した老人のような暮らしを続けていた。
 東に向いた二階の六畳間を借りて住み始めた僕の生活には、殆ど口を出そうとせず、僕と高倉氏の共同生活の始まりは、思っていた以上に和やかなものだった。

 入学式が過ぎ、オリエンテーションと健康診断を済ませ、授業が始まり、浮ついた気持ちのままの見知らぬ街の中での生活にも少し慣れた頃、僕は高倉氏を「先生」と呼ぶことにした。通っている大学で教えていたということも勿論あるけれど、今は絵を描くことを止めてしまった彼の、若い頃に描いていた絵を見せてもらった時、それが僕にとって昔から見慣れた作品であったことに驚いたのも大きな一つの理由であったと思う。
 父の書斎にあった彼の画集に収められたその作品は、幼少の頃、僕が絵を志す切っ掛けになった作品だった。


 二、先生のこと


 僕は幼い頃から、絵を見るのが好きだった。芸術大学に通っていた父の書斎には大小多くの絵画作品と、本棚の半分程度を占めるほどの画集があり、父の蔵書を見ることを嫌がる母親の目を盗んで、僕は父の書斎でよく画集を開いて眺めていた。

 その中にあった『月夜』と題された一冊の中に納められた絵の数々を、僕は今でも一枚ずつ思い出せる。どこか分からない場所、いつか分からない時代、白い月に照らされた静かな朽ち果てた古城の中で、人知れず生きている少女が描かれた連作集だった。
 何かのテーマや題材があったのかもしれない。モデルにした映画や小説があるのかもしれない。当時まだろくに読み書きもできない小学校に上がる前だった僕は、解説に書かれていただろうそれらの情報には見向きもせず、日夜母の目を盗んでは、その一冊を幾度も開いては息を飲んで青さに沈んだその世界を眺めた。

 ――きっとその場所は、暑くも寒くもないのだろう。

僕は目を閉じて夢想する。

――夜が明けることもないのかもしれない。石造りの窓の外に遠く浮かぶ湖が、白く光る月を写して輝く夜。
 風もなく、きっと音もない。
 耳鳴りがするほど静かな夜に、忘れられた城の中で少女が一人バレエを踊る。ゆるく流れるさらさらした薄い布地の、白いワンピースの裾を翻し、金色に光る柔らかそうな髪と猫のように光る目をして、永遠のような静けさの中で一人、月光を浴びながらバレエを踊る。

 母親に与えられたどんな絵本よりも、どんな物語よりも、父の書斎で盗み見たその一冊の中にあった永遠の夜と妖精のような少女の姿は、深く心に刻まれたのだと思う。あんなに美しい絵を、僕は他に見たことがない。
 見ているだけで引き込まれて、見飽きることなく眺めていたいと思わせる絵。描かれているものが現実にないものであったとしても、これだけの力を持って形に残せる絵というものを、僕も志したいと思ったのだ。そしていつか魂を飲み込まれてしまうほどに美しい題材を見つけ出して、こんなふうにひっそりと一冊の本に世界を閉じ込めてしまいたいと、思ったのだ。それが、僕がそもそも絵を志した根本になる出来事だったと思う。


 あの『月夜』を描いた画家が今はもう絵を描くことをやめ、大学の教師をした後に、こうやって僕と同じ屋根の下で共同生活をしている。それがどうしても不思議に思われて、初めは目の前の事実が全く信じられなかった。

 あの日、絵を見せてくれた先生に、僕は動転した頭で
「この絵、知ってます」
 と言うのが精一杯だった。
 先生は穏やかに目を細め、
「おや、そうですか」
 と少し驚いた様子で言った。
 僕はその後に言葉を繋げることができなかった。
 先生の絵に、どれほどに僕が影響されて生きてきたのか。これまでの二十年に満たない人生の中で、先生の絵ほど美しいものを見たことがないということ。僕がこの美大に進む根本の動機になった作品であるということ。美しい作品がこの世に存在することへの感謝を感じているくらいに、先生の作品が僕の中で大きなものであるということ。
 ――伝えるべきことは山のようにあり、今までの憧憬や感傷が堰を切って溢れた。言葉にならない思いに空しく口を開閉させるだけの金魚のような僕を見て、先生は少し照れたようだった。
「昔の絵を見せるのは、何だか気恥ずかしいですね。君からしたら古臭いものでしょう」
 そう言いながら、作品をケースにしまってしまう先生に、僕は
「違うんです」
 と言葉をかけたかった。布をかけられ押入れにしまいこまれてしまう作品と、気恥ずかしそうにする先生の背中に、僕は言いたいことが、伝えるべきことが、あったはずなのに。

 ――まあいいや、機会はいつでもあるだろう。一緒に暮らしているのだから。

そう思った気持ちも勿論あった。それは自分の根幹となる部分を、他人に明かしたことのない僕の感じて然るべき照れでもあったのだと思う。


          *


 新入生歓迎の飲み会や、今年は少し花期の遅れたという桜の花見などの誘いもないではなかったけれど、僕はそれらの誘いのうちの殆どを断った。今は同級生との親睦を深めたい気持ちよりは、少しでも先生と話をしてみたい気持ちのほうが勝っていたからだ。

 五月に入る頃には、授業や演習の中それぞれにグループも出来始め、誘いに乗らなかった僕は、うっかり友人を作りそびれた形で取り残された。人とつるまなければ生きていけないわけでもないし、個人行動には浪人時代から慣れていた僕にとっては気楽な生活であったし、とりたてて気にしていなかったのだけど、家に一度も大学の友人を呼ばない僕を、先生は心配してくれていたらしい。
 大学が終わった後、友人と飲みに行くわけでもなく、アルバイトに帰りが遅くなるわけでもなく、毎日夕方の六時には帰宅して夕食の支度を手伝う僕に、ある日先生が口を開いた。
「一緒に住んでいるからといって、気を遣わなくてもいいんですよ」
 味噌汁に入れるための大根を剥いていた僕は、手を止めて先生の顔を見、「え?」
 と間抜けな声を上げた。インゲンの筋を取る手を休めないまま先生は
「学生さんはいろいろと忙しいでしょう。私に気を遣って毎日家事を手伝えとは言いません。アルバイトだって、友人と遊ぶことだって、恋愛だって、大学生活で大切な経験のうちですよ」
 と顔を上げずに言った。

「絵を描く時間を削ってアルバイトをする予定も今のところありませんし、飲みに行くほど親しくしている友人や女の子はいませんし、こうやって先生と話をしているのは楽しいですよ」
 僕の言葉は先生の予想の斜め上を行くものだったらしい。少しの間呆気に取られたような表情をして手を止めた先生は、「そうですか」と言ってから再び手を動かし始めた。

「君は変わった子ですね。君の父親も変わっていましたけど」

 先生の言葉に、僕は再び手を止めた。父は、息子の僕にとっては真面目でつまらない模範的な父親にしか見えなかったから、先生に見える友人としての父の姿に少し興味がわいた。

「父は変わった人だったんですか」

「ええ」

 手元のインゲンから目線を上げず、先生は答えた。
「どういう風に変わっていたんですか」

「未だに私と親しくしてくれている人間が、変わっていないわけがないでしょう」
 煙に巻くような言葉に、思わず
「ずるいですよ」
 と気持ちがこぼれる。

「何がですか」

「先生は、どんな大学生だったんです?」

 先生は筋取りを終えたらしく、インゲンを鍋に加えて無言でかき回した。

「……私ですか。私は君くらいの年のころは、眠ってばかりいました。眠ることが人生と等価であると信じて、大学にも行かず下宿の部屋で一日中寝てばかりいましたよ」

 そう言って先生は、何か思い出したように遠くを見て笑い、「懐かしいものですね」と呟くように言った。


          *


 一緒に住んでいるうちに、少しずつ先生のことが分かってきたような気持ちがする。金平牛蒡が好きであること。味噌汁は赤味噌じゃないと嫌であること。肉類をあまり好まないこと。その割には貝が好きで、時折市場で安く売っていたらしいサザエを買って、わざわざ庭に小さな七輪を出して酒を飲むこと。

 先生は酒が好きだった。店に飲みに行ったりすることはなく、家でもそんなに頻繁には飲まなかったけれど、時折縁側に卓を出し、一人で酒を飲む先生は大体において気分が良さそうで、嬉しそうな顔をして子供のように笑った。
 「君も飲みますか」と何度か差し出された晩酌を、「未成年ですから」と断った僕に、「何を言ってるんですか、大学生は酒を飲むものですよ」といつもより血色のいい顔で笑ってみせたりした。
 そういう時は、月が明るく出ている夜が多く、僕はやはり『月夜』と題されたあれらの絵を描いた人だけあって、先生は月が好きなんだと思った。

 先生は猫が好きだった。昔は猫を飼っていたと、いつか目を細めて話に聞いたことがある。その猫が死んでしまってからはこんな悲しい思いは二度と御免だと、もう猫は飼わないことに決めたらしい。それでも庭に入り込んでくる近くの飼い猫や野良猫を見ると嬉しそうに手を伸べる。

 ――先生は本当は寂しがりなんではないだろうか。

 そんな先生の後姿を見て、度々僕はそう思うことがあった。僕の下宿を喜んで受け入れてくれたことも、一人住まいの退屈さを紛らわせたかったのかもしれない。

 一度、酔っ払って機嫌がいい先生に、話の勢いで聞いてみたことがある。いつもなら、恥ずかしがって顔を背けるだろう先生が、遠くのほうを見て、「そうなのかもしれないですねえ」と小さな声で言ったのが意外だった。


 少しずつ先生という人間の輪郭が見えて、僕も先生に親近感を抱いていたし、先生も僕という同居人に心を許してくれていたと思う。
 だけど、どんなに機嫌が良くても、僕には先生に聞けないことがあった。
 率直に聞けば何ということはなく教えてくれる話だったのかもしれないけれど、先生が絵を描かなくなった理由と、あの『月夜』に描かれた場所や人物について、先生は話をしたがらなかった、ような気がする。
 先生の作品自体、僕がこの家に越してきた頃に一度、サンプルのように見せてくれただけで、日常の中で先生は過去の作品に一切触れようとしなかった。
 にこやかに料理をし、気の向くままに散歩をして、日の当たる縁側で本を読む先生との暮らしの中で、僕はあの作品が、先生にとっての禁忌とも言える踏み込めない領域であることをうすうす感じていた。


 年齢を聞くと、先生は「もう六十にもなりますかね」と言った。
「父よりも六つも年上なのに、同級生だったんですね」
 と言うと、先生は笑って「私は不真面目な学生でしたから」と言った。

「君の父上は優秀で面白い学生でしたよ」
「僕からは、まじめでつまらない人間に見えます」

 芸術大学に行ったくせに、絵を描くのをやめて、芸術とは関係のない一般企業で働くただのサラリーマンになった父に、僕は少しの軽蔑を感じていた。
 ——僕は父のようになりたくない。一度、絵に進むと決めたのだから、僕は貧しくても美しいものを創る仕事をして生きていこうと思っている。

 僕の言葉に先生は笑った。
 僕は先生がどうして笑ったのかわからずに、馬鹿にされたような気持ちがして押し黙った。

「君のお父さんは、本当に絵が好きな人なんですよ」
 先生は煙草に火をつけて、一口吸い込んでから静かな声で言った。
「……でも」
 反論しようとした僕にふいと先生は笑って見せ、

「絵が大切だからこそ、離れる人も居るというだけです。お父さんの選んだ生き方を、私は誠実なものだと思いますよ」
 と言った。

 僕はそこで「先生は、どうなんですか」と聞きたい気持ちがしたけども、どうしてもその言葉を、口から出すことができなかった。絵を描くことを辞めながらも、絵の教師として絵の近くで生きている先生は、いったいどんな心持をしているのだろう。「描けなくなった」ではなく、「描かなくなった」と言う先生は、一体何を思って描くのを止めたんだろう。僕にはそれを推し量ることはできなかったけれども、この質問をすると、きっと先生を悲しませてしまうという予感が、肺の辺りでそこはかと滲むのを感じた。


 三、美しいもの


 長く続いた梅雨が明けて、このまま永久に降り続くのではないかと思われた薄暗い雨が上がると、あっという間に気温が上がり、遠慮の欠片も見せない態度で夏が訪れた。申し合わせたようなタイミングで油蝉が鳴き始め、空の色が濃く青い。僕は体中に汗を垂らしながら、試験前一週間になった学校から油彩課題のためのカンバスを抱えて、倒れそうになりながら玄関の戸を引いた。

「おかえりなさい」

 座敷から先生が顔を出した。障子の隙間から漏れてくる空気が冷たくて気持ちがいい。壊れそうな冷蔵庫や洗濯機はあるものの、テレビも電子レンジもない先生の家にクーラーがあるということの不自然さに笑いそうになりながら、僕は「帰りました」と靴を脱いだ。

「ところてんがありますよ」
「あ、いただきます」

 重い鞄とカンバスの入った袋を畳に下ろし、その場に僕は力尽きて座り込んだ。

「なんだか夏休み前の荷物をためた小学生みたいですねえ」

 冷たい空気に汗が引いていくのを感じる。目を閉じて息を整えながら僕は自分の小学生の頃を思い返していた。

「先生の子供の頃も、そんな子供だったんですか」
 僕の言葉に、先生が笑う。

「私の小さい頃は、今みたいに冷房もなくて、こんな暑い日は大荷物で汗だくになって帰っては、すぐに風呂場で頭から水を被ったりしてたものです」


 壁にもたれて座り、ところてんを食べる僕に、先生が、
「夏は、どうするのですか」
 と訊いた。

「どう、もする予定はありませんけど。お盆のあたりは家に帰ろうかなと思っているくらいで」
 先生が読みかけて手にしている本の背表紙が目に入る。内田百閒『御馳走帖』。先生は食べ物が好きな人だ、と内心つくづく思う。

「……海とか行かないんですか。若者らしく」
「……先生、海に行きたいんですか?」
「いいえ、私は遠慮したいですが」
「じゃあ何でそんなこと訊くんですか。僕だって暑い中、人の多い場所なんて遠慮したいですよ」

 食べ終えたところてんの三倍酢に浮かんだ青海苔がプイと香る。

「君には恋人はいないんですか」
 笑っていた先生が、ふと顔から笑みを消し、僕に訊いた。
「何ですか、急に。いませんけど」
「心に決めた人が、いるんですか」
「……いいえ?」
「そうですか、ならいいんです」

 目を合わせるのを避けるようにして、先生は手元の本に目線を戻した。僕は見合いでもさせられるのだろうかと頭の端に浮かんだ考えを、女の子でもあるまいし、と笑って打ち消した。


          *


 怒涛のように続いた試験と課題を何とかこなし、気がつけば長い夏休みが始まっていた。朝起きて大学に行かなくてもいい自由を満喫し、僕は昼まで眠って朝方まで部屋で絵を描く生活をし、その中で時折先生の散歩に同伴したりした。

 八月に入りお盆が近づくと、僕は簡単な荷物を纏め、実家へ帰った。最初は一週間くらいのつもりだった帰省は、初めて外に出した子供の初めての帰省ということもあって両親に引き止められ、僕は結局だらだらと絵も描かないまま一月近い時間を自宅で過ごした。

 色んなことを話そうと思っていたのに、父は僕が帰宅している間、何やら忙しそうにしていた。結局先生のことをゆっくり話す時間は取れなかったけれど、帰り際に「渡してくれ」と地酒を手渡された。


          *


 二ヶ月に渡る長い夏休みが終わる前の、だいぶ涼しくなった秋の匂いのする夕方に、僕は先生の散歩に付いて出かけた。

 舗装されたアスファルトの道端に、燃えるような赤い色をした彼岸花を見つけ、僕はそれを一本手折って先生に見せた。

「どうして毎年こう彼岸前の決まった時期にびしっと咲けるんでしょうね。カレンダーでも持ってるんでしょうか」

 片手に団扇を持ち、襟を抜いた浴衣姿で夕方の街をゆっくり歩く先生は、振り向いて彼岸花を見下ろすと、
「それ、家に持って帰っちゃ嫌ですよ」
 と言った。

「持って帰って描こうと思ったんですけど。どうしてですか」
「彼岸花を持って帰ると、家が火事になるんですよ。習いませんでしたか」
「……習いませんでした」

 手折ってしまった彼岸花を今更捨てる訳にも行かず、困りながら僕はそれを手にしたまま押し黙って歩いた。駅と逆の方向の山へ登っていく緩やかな坂道を、先生は草履で軽々と歩く。
 いつになく無口な先生に、怒らせてしまったのだろうか、と少し気まずい気持ちを抱きながら、僕は先生の後をついて坂を上った。道の脇から続いていく茂みの奥で、季節に遅れた油蝉が耳鳴りに似た声を上げている。

 落胆して下を向いて歩いているうちに、普段の運動不足と体力の無さが祟ったのか、マラソンでも走った後のような動悸と息切れに見舞われて僕はしゃがみこんだ。気にせず数歩先に進んだ先生は坂の中腹で立ち止まり、僕に声をかけた。

「御覧なさい、ほら」

 先生の声に呼ばれて顔を上げた僕は、胸の苦しさに座り込んでいたことも忘れ、息を飲んだ。

 大きな河を挟んで住宅地が広がる平野を見下ろして、目の前には一面に沈みつつある夕日を映した空が広がっていた。

 色と色とが混じり合う。水で溶いた絵の具のように透明に光を映した朱鷺色と、深海から拾ったような群青色。白い光と、夜が囁いているような確かな闇。きっぱりとした紅色の透明が境界線なく紺碧の青に溶けて、光の中で真っ白に滲んでいる。地平線近くに低く流れている雲がその強い光を浴びて、濃い影を抱いて浮かぶ。

 ――音もなく、ただ静かに。

 その場に座り込んだまま、息を止めて僕はそれを黙って見ていた。いつしか辺りが暗くなって、混ざり合う色の恍惚はあっけなく闇に飲み込まれて消えた。
 息をつく間もない程の、景色だった。耳に、音が戻ってくる。蝉はまだ鳴き続けていた。

 何も言わず、先生は再び歩き出した。ぐるっと回った先の石段を降り、駅に向かう見慣れた夕闇の街の中に先生の背中を追って歩きながら、僕は自分がさっきの景色の中で、何かを思い出した気がした。
 でもそれは手繰り寄せてみようとしても、さっきの闇に飲まれて消えてしまった色の溶け合う白さのように嘘のように儚くて、この電飾の点り始めた街の中で、僕はもうそれを思い出すことができなくなってしまっていた。

 忘れてしまった夢のようだ、と思う。


 帰り道で先生は、結局一度も言葉をかけてこなかった。僕は先生を怒らせてしまったのだろうかと不安に思いながら、結局道の途中の公園の水溜りに挿してきた彼岸花のことを思い出した。持って帰って、ゆっくり絵に描いてみたかったと、少し残念に思う。

 ――あの、赤の色を例えるなら、何と言うべきなんだろう。あの潔くて迷いのない、覚悟が滲んだような、赤。
 ——覚悟とは何の覚悟だろう。昔の武士は切腹をするのが至上の死に方だと何かで聞いたことを思い出す。あの赤は、死の色なんだろうか。自分の体から流れ出る血を、死ぬ間際に開いた瞳で見詰めたような、赤い色。

 自室の畳に、僕はそのまま横になった。目をつぶると、さっき坂の途中で見た夕焼けが瞼の裏に揺れて消えた。あんな色を、絵に閉じ込めてしまうには、どうしたらいいんだろう。光と闇。昼と夜。赤と青。生と死。悲しいくらいきれいだった、と思う。

 ――先生は、あの景色を見るために、散歩に出かけているんだろうか。

 先生は、美しいものを沢山知っているんだな、と改めて思った。幼い頃に盗み見た『月夜』の中の、青い夜。白い頬の娘。今日の夕焼け。僕の呼吸すら奪ってしまうような強烈さを持った美しいものを、先生はあといくつ知っているんだろう。

 ――先生は、怒っているんだろうか。

 体の中に溜まった水のように流動的な力を弄んでみるように、畳の上に寝返りを打つ。僕は先生を怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。それとも、今日はもともと機嫌が悪かったのだろうか。

 考えていても埒が明かないと思いながらも、僕は先生に話しかける勇気が持てないまま、こうやって一人、自室の畳に寝そべっている。

 ――僕は今、どうするべきなんだろう。

 体を起こし、壁にかけられた時計を見ると、夜の八時を過ぎていた。先生はもう階下で一人で夕食を済ませてしまっただろう。話しかけてもらえないからといって、ふて腐れたように自分からは何も話しかけることもなく、帰宅して黙ったまま自室に籠もってしまったことは良くなかったような気がする。

 僕は、先生に声をかけ、もし怒らせてしまったのなら謝ろうと決意を固め、両の掌で畳から体を押し上げた。


 意を決して、そろりそろりと階段を下りた僕に、台所に居た先生は
「あら、考え事はもういいんですか」
 と、あっけらかんとした声をかけた。

 振り絞った勇気と滅多に怒らない先生に叱られることを覚悟した気持ちが、蹴躓いたように拍子抜けして私は、
「えっ?」
 と間抜けな声を返した。

 恐る恐る覗き込んでみると、怒っている様子はなく、機嫌の悪い様子もなく、先生は普段どおりの顔で団子を捏ねていた。
「……怒ってらっしゃるのかと思っていました」
 僕が小声で投げかけた言葉に、先生は笑って、
「怒る理由が無いじゃありませんか」
 と答えた。

「散歩の途中で何も話さなくなったから、僕は先生を怒らせてしまったのかと思っていました」

 先生は真っ白にしながら団子を捏ねていた手を止め、顔を上げてこちらを見た。少し考えるような顔をして、口を開く。

「ああ。……いいえ、違うんです。最初は君が少し考え事をしていたみたいだから邪魔をしては悪いと思って黙っていたんですけど、途中からは私もぼんやり考え事をしていて。
 君に誤解をさせてしまったなら、悪かったですね。気を使わせてしまって、ごめんなさい」

 そう言って軽く頭を下げた先生に、僕は慌てた。
「いえ、勝手に早合点をして思い込んでしまった僕がいけないんです。こちらこそ、すいませんでした」

 先生は小さく笑い、捏ね終えたらしい団子を、鍋に沸いた湯の中へ一つずつ落とした。

「何を作ってるんですか?」
「団子ですよ。今日は月が明るいので月見でもしようかと」


 庭に向かった縁側に卓を出して、ガラスの皿に盛った団子に餡を添えて置いた。座敷の隅に積まれた座布団のうちの二枚を、卓を挟むようにして敷く。先日、僕が持って帰った父からの土産の地酒と盃を二つ持って現れた先生は、盃のうちのひとつを僕に渡し、卓の向こう側へ腰を下ろした。

 差し出された酌を素直に受けると、先生はいつになく嬉しそうな顔をした。

「今日は断らないんですね」
「はい、先週二十歳になったので」
「あら。それはおめでとう」
「ありがとうございます」

 盃を軽く目の高さに持ち上げて目配せをしてみせ、先生は盃に口を付けた。僕も真似をして一口舐める。ふいに笑いがこみ上げる。

「何ですか」
「いいえ。……いい月夜ですね」

 そう言って見上げた月は、本当に良い月だった。きれいに円く紺色の空に浮かんで、白い光を降らせている。秋の匂いのする夜だ、と思った。
 暑さにかまけ手入れを怠ったらしく少し荒れた庭の隅に、いつの間にかススキが穂を垂れている。

「先生は、やはり月がお好きなんですね」

 慣れない酒を飲んで、僕は気持ちが大きくなっているのだと思う。普段は言えないことを、この静かで明るい月の夜になら、言えるような気持ちがした。

 箸を使わず指先で団子を摘まんで口に運んだ先生は、黙ってそれを咀嚼した。唇に付いた餡を指先で拭い、ふいと顔を背けて先生は小さな声で「きらいですよ」と答えた。


 ふいに湧いた沈黙を紛らわせるように、僕は手酌で酒を盃に注いだ。持ち上げて目を伏せ、恐る恐る啜る。頭が持ち上がる気持ちがして、味わう前に僕は口に含んだ酒を飲み下した。ひとつ息を吐く。

「本当に、もう絵は、描かないんですか」
 僕が下を向いたまま押し出した言葉に、先生が振り向くのが分かる。

「どうして、月を嫌いだなんて言うんですか。あんなにきれいな、月の夜を描いた先生が」

 先生は僕の言葉に答えようとはしなかった。無言のままに盃を口に当てる先生に、僕はさらに言葉を吐き出さずにはいられなかった。

「小さい頃に父の本棚で、先生の描いた『月夜』を見て、僕は絵を描きたいと思ったんです。先生ほどきれいな絵を、力を持った絵を、描く人は居ないと思っています。僕は先生の絵が好きなんです。あんなにきれいな絵を描く先生に、また絵を描いて欲しいと思っているんです」

 押し黙ったまま先生は、煙草に火をつけた。深く吸い込み、溜息にも似た音を立てて、先生は煙を吐き出した。

「……ごめんなさい、勝手なことを言って」

 僕は思わず口に出してしまった言葉を、後悔した。目を伏せたまま庭先の土を見つめる先生を見て、僕は先生を傷つけてしまったことを感じた。

 ――分かっていたことじゃないか。何をしているんだ、僕は。

 過去の絵について、絵を描かなくなったことについて、僕が吐き出した言葉は常日頃から先生に対して思っていた本当の気持ではあったけれど、それは先生にぶつけるべきではなかったのだ。
 先生が日頃意識して、それらの理由を頑なにはぐらかして触れようとしなかったことも、僕は分かっていたのに。

烈しい後悔に襲われ、下を向いた僕に、先生は、
「いいんですよ、……ありがとう」
 と口を開いた。

「そう言ってもらえたら、あの作品も本望でしょう。私があの絵を描いたことを、君が認めてくれたことで、少し気持ちが楽になったかもしれない。でも、私はもう、絵は描きません。理由があるんです」

 そう言って、先生は顔を上げ、僕と目を合わせて静かに笑った。

「……昔話でもしましょうか。今まで人に話したことは、ないんですが」


 「ふう」と一つ大きく溜息を吐き、「何から話せばいいのか分かりませんが」と前置きをして、先生は煌々と光る月を見上げたまま、ゆっくりと話し始めた。
 酒の酔いも手伝っていたのかもしれない。僕にはその先生の寂しげな横顔と、少し甘く香るような夜の匂いのする秋の景色を、現実ではないように感じながら、ただぼんやりと見ていた。


 四、不思議な夢


「小さな頃から繰り返し、私は不思議な夢を見ていました。その夢の中には、見たこともない景色の中で、人知れず暮らす一人の娘が出てきました。 
 初めて彼女に会った時、私はまだ小さな子供だったように思います。

 今となってはもう、人に叱られることもなくなりましたし、叱ってくれる人も居なくなってしまいましたが、子供の頃というのは、親に叱られると絶望的な気持ちになったものでした。
 普段は優しい母が、人相を変えたように、まるで本当の鬼みたいに見えたものです。許してもらうために謝りたいけれど、どうしたら許してもらえるのか分からなくて、私はあの頃よく泣いていました。

 ――庭の隅にあった柿の木が切り倒されてしまう前だから、小学校のことだと思います。

 枝先に実った柿を取りたくて花壇の柵に上がり、柵が倒れて弟に怪我をさせてしまったことがありました。幸い弟は大した怪我ではなかったのですが、母は弟の腕から流れた血を見て半狂乱になって怒り、私を叱りました。
 病院に運ばれた弟を家で一人で待つ時の、圧し掛かるように重い時間を今でも思い出すことができます。いつもは優しい母に叱られたことに対する戸惑いと、弟に怪我をさせてしまったことへの罪悪感に苦しみ、私はその夜、夢の中でも泣いていました。

 夢の中で、私は冷たい石壁の部屋に居ました。ヨーロッパの古い吸血鬼映画にでも出てきそうな、朽ち果てて人々に忘れ去られてしまった古城の一室のような見慣れない場所で、幼い私は、誰も居ないことを幸いに心細さと罪悪感を声にして泣きました。
 泣き声は冷たい石の壁に反響し、吸い込まれて消えていきました。怪我をさせてしまった弟へ謝りそびれてしまったこと。弟を傷つけたことで母が見せた憎しみの目。
『僕はただ、柿の実を取りたかっただけなんだ』
『怪我をさせるつもりなんてなかった』
『大きく実った柿の実を手に取って、弟を喜ばせてやりたかっただけなのに』――。
 昼間、言うことのできなかった弁解や謝罪、自分への叱責の念で潰れてしまいそうな己を泣き声にして吐き出すように、私は夢の中で声を上げて泣きました。
「男の子は泣くものじゃない」
 そう言った母の顔が浮かんで、
『僕はまた、母さんの期待を裏切ってしまった』
と、一層深い腹の奥から嗚咽がこみ上げてくるのが分かったものです。

「どうしたの」

 誰も居ないと思っていた暗闇から、不意にかけられた声に驚いて、私は身を竦ませて振り返りました。

 ――そこに、彼女は居たのです。光の差さない影の中に。埃にまみれた冷たい石の壁の脇にある寝台の上に。

 誰も居ないと思って泣いているところを、知らない人に見られてしまった気恥ずかしさに、私は思わず俯きました。しかし止めようと思っても、込上げてくる嗚咽は急に収まるものではありません。眼球の奥がじっとりと熱く、いやに重く思えました。頬が引き攣り、口の形が歪むのを女に見られることを恥じて、私は手の甲で鼻と口を押さえました。

 女は暗がりに座ったまま、猫のようにじっと、私を見ていました。
 差し込んだ月光に照らされて女の姿が薄闇の中でぼんやりと浮かび、私は初めて、彼女の姿を見たのです。

 見たこともないような白金の長い髪。
 宝石みたいに光を映すエメラルド色の緑。
 血の気のない白い肌と、寝台から床まで垂れている白い服。
 へたりこんだような姿勢で寝台の上に座ったままの女は、当時の私よりは年上に見えましたが、「大人」と言うには頼りない少女であることに気付いて、気恥ずかしく思う気持ちが緩むのを感じました。

 ――アンデルセンの童話にでも出てきそうなお姫様。

 それが、私が彼女を見て抱いた初めての感想でした。

「どうしたの」

 月夜の凪いだ湖面を思わせる、静かで澄んだ声が、私に再び投げかけられました。
 絵本や映画の中で見るような、見慣れない外国のお姫様のような娘を見て、私は自分が泣いていたことも、羞恥を覚えていたことも忘れ、言葉を失ったまま呆気に取られていました。
 当時の絵本にも映画にも、カラーの作品はあまりなかったから、私は、その時、彼女が現世には存在しない妖精の様にも思えました。

 暗がりの中、娘が唇の端で微笑んだのです。優しい、姉のような微笑でした。私には姉が居たことはないのですが、きっと居たとすれば、きっとこんなように笑うのだろうと、思わせるような静かな笑みでした。


 こうやって言葉にして思い返してみると、子供の頃の記憶とは言え、何と凡俗でありきたりに思えてしまうものでしょうね。これが他人の口から聞いた話だったとしたら、私はきっとそのイメージの貧困さに笑ってしまったかもしれません。
 そう思ってしまうくらいに、彼女は絵に描いたような、この世のものではないほど美しく、荘厳で特別な空気を纏って、私の前に居たのです。
 お城の中に住む、白金の髪をした娘。いばら姫や眠り姫として、幼い頃に絵本の中で見てきた異国の昔話に出てくるお姫様のイメージが、彼女を語る時、一番誤解のない言葉だと思います。

 だけど、彼女は笑ったのです。おとぎ話の中のお姫様のようなフィクションではなく、彼女は目の前に居る一人の少女として、私に微笑を向けたのです。
 普段は優しい母に叱られて、絶望と悲しみに泣くことしかできなかった幼い日の私に向かって、彼女は何よりも優しく微笑みをくれたのです。
 薔薇のつぼみが音を立てず開く時のように、彼女は静かに笑いました。その姉のような優しい笑みにあの時の私がどれほど救われたかということを、あの夢を見た頃から五十年近い時間を経た今でも、昨日のことのように思い出せます。

「こちらにいらっしゃい」

 寝台の上に座ったままの娘は、部屋の片隅に座り込んでいた私に向かって言いました。静かで優しい声に手を引かれるようにして私は立ち上がり、娘の座る寝台の前に立ちました。

「悲しいことがあったのね」

 姉妹の居ない家庭で育ち、女性は同級生か先生くらいしか知らない当時の私にとって、目の前で笑う緑の目をした年上の娘は、天使だとか妖精だとかの類の不思議な生き物のように思われました。何だかむず痒い気持ちがして、私は言葉なく頷きました。所在無く垂らしていた私の左手を掬い取った娘が、その掌に小さな物を乗せて、私に握らせたのです。

 ――熱くも、冷たくもない異物。

 手の中にある歪な「もの」を、指を開いて確認しようとした私を、娘は両の掌で私のこぶしを包み、

「これをあげるから、もう、泣かないで」
 と言って私の頬を擦り、微笑んでみせました。


 彼女に何を握らされたのだったか、私はどうしても思い出すことができないでいます。あの掌の中に握ったものを、指を開いて確かめたかどうかすら、思い出すことができないのです。

 その夢を見た翌朝、私は己のこぶしを開いて確かめたのでしょうか。
 夢の中で、あれほど烈しく涙したのだから、目醒めた私の眦には、きっと涙の跡が残っていただろうと思います。乾いた目脂のように睫毛に絡まる涙の残滓を付けたまま、その朝、私は布団の中で一体何を考えたんでしょう。
 夢と共に掻き消えてしまった娘の面影を、瞼の裏に追ったのでしょうか。それとも、彼女が拭ってくれた涙の跡に同情した母が私を優しく抱きしめてくれて、私は夢の中での出来事など、そのまま忘れてしまったのでしょうか。

 私は、不思議な夢の中で白金の髪と緑の目をした娘に会ったことを、誰にも話しませんでした。当時は戦争も終わったばかりで、外国のものが生活の中に殆どなく、あの娘のことを何と言って説明すれば理解してもらえるのかということも、私には分かりませんでしたから。
 それまで、何かあるとすぐ母に何でも話していた私にとって、その不思議な夢を見たことは、初めて私が持った秘密でした。少しの罪悪感と秘密を持っている優越感で、少し大人になったような気持ちがしたことを覚えています。

 その後も、私は度々その不思議な夢を見ました。
 薄暗がりの冷たい石の部屋に居る、妖精のような外国人の娘。夢の中で何度か彼女と話をするうちに、私たちは次第に仲良くなり自分のことを話すようになりました。

 彼女は「もうずっと長い間、この部屋に閉じ込められている」と言い、「私の名前はアナベルと言うの」と名乗りました。彼女は長い間、一人きりで、あの暗く冷たい部屋に閉じ込められているのだということに、私は同情を感じました。
 自分と十も変わらないような少女が、あんなに暗くて寂しい場所に一人きりで閉じ込められていて、寂しくないはずはありませんもの。自分ならきっと耐えられない、可哀相だ、また遊びに来る、と彼女に伝えると、彼女は嬉しそうに笑いました。

 アナベルは年を取りませんでした。
 その不思議な夢を見始めてから、私は現実の中で小学校に上がり、中学校に上がり、高校に上がっても、彼女は初めて会った時から全く変わりませんでした。
 初め私はアナベルを、姉のように慕っていました。そして次第に自分が年をとり、身長が伸びてアナベルと同じ年くらいに見えるようになっても、彼女は変わりませんでした。

 自分が成長する毎に私は、アナベルが本当に美しい人であるという確信をどんどん強めていきました。それまでに見た映画の中のどんな女優よりも、現実の生活の中で見るどんな女性よりも、何倍もアナベルは美しい人でした。

 夢の中で幾度も見蕩れたその面影を、目が醒めると決まって私は思い出せなくなりました。私はそれが苦しくて、歯痒くて、あの夢の中に見た美しい面影を、現実の中でも留めておきたい一心で絵を描き始めたのです。
 あの冷たく薄暗い場所。静かで孤独な月の光る夜の中に居る見たこともないほどに美しい少女の幻影を、この手に留めておきたくて、私は高校に入った頃から狂ったように絵を描き始めました。

 不思議な夢の中でアナベルと会いながらも、私は現実の中でしっかりと生きていたと思います。年相応にバカなこともしましたし、友達ともよく連れ立って遊びましたし、好きな人や恋人ができたこともありました。
 アナベルは、私にとって夜空に見える星のようなもので、手が届かない絶対的な美しさを持った存在であり、憧憬を感じることはあったものの、私は彼女に恋をしようとは思ったことがありませんでした。
 誰も知らない夢の中で、私は目を疑うほどに美しいものを知っている。そのことが嬉しく感じられたことは事実ですが、私にとってそれは、現実の生活とは別次元の話でした。

 高校に入り、自室で絵を描き始めた私に、ある日、父は芸術大学への進学を勧めました。若い頃を戦争に縛られて過ごし、やりたかった勉強もろくにできなかった父は、息子にやりたいようにやらせたいという思いも強かったのでしょう。
 描いても描いても、彼女の美しさの欠片すら捉えることができなかった私は、喜んで父の提案に同意しました。絵を描く力が欲しい。自分の目で見た美しいものを、形にして残せるための力が欲しい。そのために絵の勉強がしたい。それは、私の心からの願いでもありました。

 私は夢の中でアナベルと会う毎に、色んな話をしていたものの、私は彼女のことを殆ど何も知りませんでした。「いつからここに居るの」と聞いても、彼女は「ずっと前。気がつくとここに居て、昔のことは何も憶えていないの」と答えるばかりで、私は彼女の居るその不思議な夢の場所がどこなのかすら知りません。

 遥か昔かもしれないし、遠い未来なのかもしれない。
 いつでもない時間、どこでもない場所なのかもしれない。
 いつ訪れてみても、夜は明けず、暑くも寒くもないその部屋で、窓から空を見上げて涙をこぼす孤独な少女。白金の長い髪と、夜闇に輝く猫の瞳のようなエメラルド色。年を取らないまま、冷たい壁に閉じ込められた娘であるということしか、私は彼女のことを知り得ませんでした。

 私は彼女のことを、オルゴールに仕舞い込まれたまま忘れ去られた宝石のように思いました。輝くばかりに美しい可哀相なアナベル。世界に忘れ去られた部屋で、孤独に溺れる宝石が、ただ世界の終わりを待っている。ただじっと、あの小さな部屋で、生きながら死に続けるお姫様。

 ――彼女のことを知っているのは、きっとこの世界に、ただ僕一人だけだ。

 ――僕のアナベル。永遠のお姫様。手の届かない場所で、君は今日も泣き続けているんだろう。

 そう思うことで、私は彼女に何をしてあげられる訳ではありませんでしたが、私はせめて彼女の姿を、彼女が確かに存在した証を、残したかったのです。

 水晶みたいな涙を。苦しいほどの孤独と絶望を。澄んだエメラルドの瞳に灯る悲しみと、花の香りのする微笑を。白い指を。長い睫毛を。何かを待ち続けている横顔を。

 僕はただ絵に描きたいと思ったのです。目が醒めると消えてしまう幻を、実体そのままに写し取ってしまいたいと思ったのです。

 ……ただ単に、私は自分がいつか彼女のことを忘れてしまうのが、怖かったのかもしれません。いつその不思議な夢を見なくなる日がくるのか分からない。会おうと思っても会うことのできない美しさの結晶のような存在に、今考えると、私はもうその時、恋をしていたのかもしれません」


          *


そこまで話して先生は、息をつくように煙草の煙を吐き出し、盃を唇に運んでから僕に、

「退屈ですか?」
 と訊いた。
「……いいえ」

 身動ぎもせず、息を飲んで話を聞いていた僕は、先生のその問いに、そう答えるのが精一杯だった。何と言っていいのか分からず、いつも話をはぐらかしてばかりの先生が初めて見せた素直な寂しさに、僕は胸を衝かれる思いがしていた。

 小さく笑って先生は、
「君は、優しい人ですね」
 と言って、話を続けた。

          *


「大学に入って暫く経った頃、私はあの夢を、暫く見ていないことに気付きました。

 今の君くらいの年でしょうかね。家族を離れての慣れない生活に少しずつ馴染んで、日々の流れが速く感じられ始める頃です。
 入学したての頃は、私は真面目な学生だったと思います。あまり裕福ではなかった家で、下宿までしてやりたかった勉強をさせてくれる父の優しさの手前、私は勤勉でなければいけないと思っていました。
 遅刻一つせず毎日大学へ通い、課題の期限にも遅れたことはありませんでした。

 大学での生活は順調でしたし、楽しい生活を送っていたと思います。一つ上の彫刻を専攻している恋人も居ましたし、私は目先の生活の中で、自分に課せられた義務を果たすことで精一杯でした。そんな目まぐるしさの中で、ある日、ふと長らくアナベルの夢を見ていないことに気がついたのです。

 足元が音もなく崩れていくような気持ちがして、えもいわれぬ恐怖に私は動けなくなりました。もう断片的にしか思い出せない彼女の面影を、もう二度と見ることはできないのかもしれないという絶望。
 まだあの美しさの欠片すらも掴む力のない私に、それを身に付けるための生活の中で、アナベルを失ってしまうことなど一度も考えたことがありませんでしたから。
 自分が何のために絵の道に進んだのか、自分が今まで何を生きる目標として生きてきたのかということを、あの日私は思い知ったのかもしれません。

 ――彼女なく、あの面影に焦がれることをせず、これからの人生に残された永い時間を、僕はどうやって、何をして、生きてゆけばよいのだろう。

 背筋が凍るようでした。

 ――あの幻影を失ってしまったら、僕はこれから何を描けばいいんだ。

 絵を描くことの目的を失ってしまうということは、絵を描いて生きてゆく決心をしたばかりの私にとって、目の前が暗くなる絶望でした。

 その日から、私は日々の中でアナベルの面影と、あの夢の幻影を、手繰り寄せることだけに力を注ぎました。毎日睡眠薬を飲んでまで頭が痛くなるまで眠くなくても眠り、再びあの夢を見ることを願い、眠りすぎて体が重くなると、ひたすら手繰り寄せるようにして瞼の裏に残る夢の断片を掻き寄せて描きました。
 それまで欠席もせず通っていた大学にも顔を出さなくなり、期限の提出を無視し、部屋から出なくなった私を、一つ上の恋人は心配してくれました。
 度々私の下宿を訪れ、「何かあったのなら話して」と私に訴えかけました。下宿の居間で私は恋人と向き合い話しをしながらも「こんなことをしている時間はないんだ」と、私は苛々していたように思います。自分に与えられた全ての時間を注ぎ込み、自分ができる限りの努力をしてでも、私はアナベルを、私にとっての絶対的な美しさの結晶であるあの夢を、手繰り寄せて、一刻も早く取り戻さねばいけないと思っていました。
 私は恋人に「あなたには関係のないことだから」とだけ告げ、ろくに目も合わせることもせずに帰しました。恋人は泣いていたと思います。それまで仲良く、何一つ問題もなく、私たちは日々を共にしてきていたのですから、今考えると、当たり前なんですが。

 ……恋人は、私の掌を返したような態度に、浮気をしているのだと思い込んだようでした。私が恋人の度重なる見当違いの訴えを無視していると、ある日、恋人は渡していた合鍵を使って、私が眠っている時間に部屋に上がりこみ、家捜しをしたのです。

 「ねえ」と言う声と共に乱暴に揺り起こされて、私は浅い眠りから目覚めました。寝惚けた重い頭で、訳も分からず呆ける私の前に、怒りに涙を滲ませた恋人が居ました。

「ねえ、これは誰なの」

 と、彼女は私の描きかけていたアナベルのデッサンを、寝惚けている私に突きつけました。

「ねえ、これは何なの。説明して。この絵を描くために、家に籠もっていたって言うの。私に訳も話さずに」

 私は目の前で繰り広げられている現実が、信じられずに呆然としていました。恋人は押入れにしまっていた、私がアナベルを描き始めた頃からのデッサンや油絵を引きずり出し、そこいらじゅう足の踏み場もないほどに放り散らしていました。

「ねえ、これ何なの」

 顔を上気させ、怒りに震えて涙まで流す恋人を、私は初めて醜いと思いました。

「あなたはこの人のことが好きなの」
「あなたは私のことを愛しているんじゃなかったの」
「好きな人のことを描きたいと思うのなら、私の絵を描くべきなんじゃないの」

 恋人は、きれいな人だったと思います。背が高くすらりと痩せていて、街を一緒に歩いていると、すれ違った男たちが振り返るのが分かるほど、彼女はきれいな人でした。自分でもそれは承知しているらしく、自分の容姿に自信を持っていたようでした。

 ――ああ、私は、彼女の誇りを踏みにじってしまったのか。

 半狂乱になって怒りに身を任せた彼女は、いつかの母の姿を思い起こさせました。私は目の前で叫ぶ恋人の泣き顔を遠い気持ちで眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えていました。

 何を言っても、どんなに怒鳴って泣いて訴えてみても、ぼんやりと眺めるばかりで何事も語ろうとしない私に、彼女は怒りが心頭に達したようでした。

「死ねばいいのに、こんな女」

 そう叫ぶと、彼女はそれまで手に持っていたデッサンを、力の限りに引き裂きました。憎んでも憎みきれないといったふうに、彼女はそこいらに散らかる作品を踏みつけ、破り、蹂躙していました。

 眼球の裏が静かに熱く充血するのを感じて、私は言葉すら失い、暴れる彼女を突き飛ばしました。

「……帰れよ。二度と顔も見たくない」

 そう言うと、彼女は鞄を掴み、手に持っていた絵を私に投げつけて、部屋を出て行きました。


 ……今こうやって思い返してみて、私は彼女に酷いことをしたのだな、と思います。

 だけれど、当時の私には、そんなことを思う余力はありませんでした。
 私の今まで描いたものを恋人に蹂躙された夜、私は力の限りに泣きました。自分が描いてきた物を踏みにじられたということよりも、その中に微塵でも残っていたかもしれないアナベルの面影を失ってしまったような気持ちに、心が煮えて、涙が止まりませんでした。

 それからの数年間を、私は失意のままに過ごしました。夢も見ず、絵を描く気力すら失ってしまい、当然大学に行くこともなく、私は散らかったままの部屋で、ただ眠って時間を忘れ、現実をやり過ごすようにして暮らしました。

 ……その頃ですよ。君の父上と知り合ったのは。


 籍だけを置いたまま、大学へ全く顔を出さない私の肩書きが五年次に上がった時、大学から「このままでは除籍になる」と通達が送られてきました。

 私はその時、自分の掌の内に、まだ何もないことに気がついたのです。絵を学び、生きて行くつもりでそれまでの時間を生きてきたのに、まだ私の手には、描きたいものを描く力はおろか、この世の中で生きていく力などありはしませんでした。

 流されるようにして私は大学に戻りました。大学卒の学歴だけでも身に付けておかなければ、このまま私は社会に放り出された時、生きていけないような気持ちがしたからです。

 みっともない話ですね。

 

 長く、あの夢を見なくなっていた私は、あの面影を追い続けながら、私は夢の中の娘に恋をしているのだろうか、と自問自答を続けていました。何てバカバカしい話だろう。夢は、ただの夢でしかない。目が醒めると消えてしまう幻でしかない。
 かつて夢を見ていた頃はその夢に焦がれていても、夢を見なくなった今、僕は、この現実を生きていかなければいけないのだ、と自分に言い聞かせて。

 大学に戻った私に、初めて顔を見る同級生は戸惑うような顔を浮かべました。それはそうです。名前だけ名簿に載りながら大学へ出てこなかった何歳も年上の落ちこぼれの同級生に、どう接していいかは分からなくても仕方がありませんから。

 その中で君の父上は、私に興味を持ったようでした。話し相手も居らず、昼休みを大学の中庭で一人、暇つぶしの本を読んで過ごしていた私に、君の父上は積極的に話しかけてきました。

 ――面白い人でしたよ、君の父上は。

 彼は、私にどうして長い間大学を休んでいたのかということは聞こうとせず、ただ私に「興味を持った」「もっと話をしてみたい」と言いました。
 話し相手ができたことで、私も大分救われたような気持ちがしました。大学に行くことが苦痛ではなくなり、私と彼は同級のまま卒業を迎えました。
 彼は地元の企業に就職を決め、私は知り合いの伝手で大学の近くの出版社に就職をしました。私は正直、それきりになるかと思っていたのですが、君の父上は時折手紙や電話をくれ、何だかんだとこうやって今も続いているのですから、不思議なものです。


 就職してどの位経った頃だったかは、もう忘れてしまったんですが、私は再び、あの夢を見たんです。

 久し振りに見る、あの冷たく薄暗い石壁の部屋は、少し様子を変えているように思いました。窓から外を見た時に、外壁を張っていた蔦バラが格子を抜けて部屋の中までも侵食していたのです。埃が積もる部屋の中で、変わらず少女のままのアナベルは驚いたように私を迎えました。

「もう、来ないのかと思ってたわ」

 そう言って嬉しそうに笑う彼女の面影に、私は胸が詰まるように思いました。それは闇の中に咲いた、春を告げる白く小さな花のようでした。私が探して追い続けてきた美しさの結晶は、けして私が自身で作り出したものではなく、確実に、確固として、そこに存在するものであることを知り、私はいい年をした大人であるのに、涙が滲んでくるのを堰き止めることができず、彼女の前で声を立ててしまわぬよう唇を噛んで、泣きました。
 彼女は変わらぬ静かで優しい笑みで、泣いている間、私のことを見守っていました。そのことが、何よりも私には嬉しく感じられました。

「貴方のことを、僕は長い間、考えていました」

 私の言葉に、かつてのようにアナベルは黙って耳を傾けました。私はその時、それまで黙っていたこと、伝えられなかったこと、伝えたいと思ったことを、洗いざらい彼女に話しました。
 彼女の幻影を追い続け、絵の道に進んだこと。
 彼女がここに存在していることを形にして証明したかったということ。
 会えなくなり、面影が薄れてしまうことが何よりも恐ろしかったこと。
 生きてきた間で見たどんなものよりも、どんな人よりも、アナベルが美しく、自分にとって大切で崇高な存在であるかということ。
 そしていつか、アナベルをこの冷たく暗い部屋から連れ出して、私がそれまで生きてきた間に見た美しい景色を、彼女にも見せてあげたいという思い。

「嬉しい」

 と言って、彼女は笑いました。その声は以前と変わらない優しく静かなものでしたが、私にはどこか、弱々しく儚いものであるように感じられました。


 アナベルは私の手を取って握り、静かな声で、
「だけど、もう『最後の朝』が来るの」
 と告げました。言葉の意味が分からないながらも、その指先の氷のような冷たさに驚き、私は彼女の顔を見返しました。

「『最後の朝』って……」
「『最後の朝』が来れば、ここにある全てのものが消えてしまうの」
「それは、……いつのことなの」
「いつかは分からないけど、きっともう、そう遠くはないわ。……ほら」

 アナベルが指を揃えて差し出したその手の甲に、薄く血斑のようなものが薄く滲んでいました。
 月の光が差し込まない暗さのなか、それははっきりと見ることはできませんでしたが、かつては染色されたことのない木綿のようだったその肌の白さが、青みを帯びていることだけは、見て取ることができました。

 言葉を失って立ち尽くした私に、彼女は窓から這い込んでいる蔦バラを指差して言いました。

「少しずつ、崩れているのが分かるの。この場所も。私も」

 唇の端を持ち上げるようにして笑う、痛々しいその笑みで彼女は私の顔を見上げ、言葉を続けました。

「私も、もう歩けないの。脚が駄目になったみたい。でも、あたしが崩れて消えてしまう前に、あなたが来てくれて良かった。
 もう会えないのかと思っていたの。本当に嬉しい」


 そこで途切れてしまった夢に、私は早朝の布団の中で、呆然としました。
 ――アナベルの握った手の冷たさが、まだ手に残っているというのに。

 現実の朝の中で、彼女を救うために何もできない自分に私は砂を噛む思いを押し殺しながら仕事に向かいました。

 ――どうすれば、何をすれば、僕は彼女を救うことができるだろう。
 ――僕は彼女に、一体何をして上げられるだろう。

 仕事など手に付かないまま、熱に浮かされたようにそのことだけが、頭を離れませんでした。苦しくて、悲しくて、やりきれない思いに、私は幾度も、一人帰った自分の部屋で、声を押し殺して泣きました。

 ――できることなら何でもする。
 ――あの場所が崩れてしまう前に、僕が彼女をあの部屋から連れて逃げることができたら。

 あの時の私に、悪魔が魂の契約を持ち出していたなら、私は喜んでその話に乗ったと思います。できることなら、なんでもしてやりたい。
 今まで誰もに忘れられた場所で、ただ一人きり孤独と絶望に耐えていたアナベル。
 美しい景色など何一つ見たことのない、拙い私の話にすら目を輝かせていたアナベル。
 憂いを滲ませた横顔で、窓から明けない夜空を見上げて涙を落とすアナベル。
 ただ、自分が消えていくことを覚悟し、その時を待つアナベル。

 どれほど彼女に想いを重ね、無力な彼女を救えるものなら自分の命すら差し出したいと祈ったところで、私には自分からあの場所へ行くことすら叶わないのです。
 私はただ、祈りました。
 今一度、彼女が消えてしまう前に、彼女と会えることを。
 私が現実の生活に暢気に忙殺されている間に、黙って消えてしまわないことを。
 そして、どうにかして彼女を救う手立てを見つけることができるように。

 ――もう、会えないのかもしれないと思うだけで、胸が締め付けられて涙が出る。
 ――私がどんなに祈ったりしてみたところで、彼女にはもう会えないのかもしれない。

 その苦しさから、私は幾度となく目をつぶり、彼女のことから目を背けようとしました。
 それでもあの、かつては消えてしまうことが恐ろしく、手繰り寄せることに必死だったあの少女の無邪気に笑っているイメージが、瞼を去りませんでした。
 無防備な白い足首。華奢な首筋。細い指先に光る爪。桜貝の色をした唇。髪の間から時折覗く薄い耳朶。いくらでも、思い出せます。悲しいくらいに、私の瞼の裏に映るイメージは明確で、美しいものでした。


 私の身を切るような切実な祈りを他所に、乾いた日々は残酷にも空しく廻っていきました。そして私が、水面に浮かぶ諦めと絶望に溺れてしまいそうになった頃、やっと私は再びアナベルに会うことができました。


 夢の中で私は、力なく寝台に横たわるアナベルの脇に立ち尽くしていました。眠るように瞼を閉じたその白い頬に、恐る恐る私が指先で触れると、彼女はゆっくりと薄く瞼を開きました。

「……良かった。目を覚まさないんじゃないかと……」

 頬に差した薄紅色すらも失ってしまったアナベルが、力なくその右手を持ち上げ、私は彼女の冷たい手を、両手で抱きしめるような気持ちで握り返しました。

 白い袖から差し出されたアナベルの白い腕には、前回はなかった血斑が多く、濃く、浮かんでいました。

 ――本当に、もうアナベルは死んでしまう。

 その動かしきれない事実が辛くて、悲しくて、私はその手を握り締めたまま、少し泣きました。

「泣かないで。……それより、もう、ここに来てはだめ」

 細く弱くなった彼女の声は、それでも優しい響きに満ちていました。私は零れ落ちる涙をせき止められないまま、無言でその言葉に首を振りました。

「……このままここにいたら、あなたまで、死んでしまうわ」

「……僕は」

 夢の中であるというのに、変に唇が乾いていることを感じながら、私は嗚咽の中に言葉を探しました。

「……僕は、自分の中に愛おしさを感じるやり方までも、あなたに教えてもらった気がします」

 アナベルは、薄く持ち上げた瞼の長い睫毛の隙間から、変わらぬエメラルドの色をした瞳で、私のことを見上げていました。

「僕は、思っていたよりもずっと多くのものを……あなたに与えられてきた。何をしてもその感謝すらあなたに伝えることができないことが、何よりも悲しい。あなたを救うことができないのなら、僕もここで、朝を待ちたい。あなたが一人きりで消えてしまわなくてすむように。その時まで、ここであなたの手を握っていたいのです」

 その言葉は、私が現実を捨て、夢の中で彼女と一緒に消えてしまう覚悟をした上で、口にしたものでした。

 ――避けられぬ終末なら、私はせめて、あなたの傍に居たい。

 それまで生きてきた現実など、自分にとっては、アナベルの幻影を恋い慕い、追い求めるためだけの日々でしかなかったと思いました。アナベルの幻影を追う中で、私は自分を包む世界の色彩や眩しさ、美しさや空虚さ、恐ろしさや強さ、儚さを知ったのだと、その時に思い知ったのです。そういったものを見詰めることを教えてくれたのは、今にも目の前で息絶えそうなこの一人の少女だったのです。

 彼女の手を握り、自分自身の死を覚悟することで、私がそれまでに見た全ての美しいものが、消えてしまう記憶のイメージが、細く白い糸で紡がれていくことを感じました。
 純白の固い繭のように、私の中の、深く高い場所で、理想という美しさへの憧れが結晶していくのを、音の無い静けさの中で、私は感じていました。


「……あなたが来てくれることが嬉しくて、ずっと待っていたの」

 暗闇の中、アナベルの唇から言葉がこぼれました。

「あなたのことばかり考えていたの。一緒にいられて幸せだった。だけど、あなたを不幸にしたくないの。だから、もう帰って」

 私は思わず、横たわるアナベルを掻き抱きました。触ると消えてしまいそうな儚さを怖れていたことも忘れて、白金の長い髪に顔を埋めていると微かに甘い匂いがしました。この優しい蜜のような匂いの中で死ぬなら、それでいいと思いました。

 腕の中でアナベルが泣くのを強く抱きしめたまま、この泣いている少女を抱きしめてあげるためだけに、私は今まで生きてきたのだと感じました。白い頬を伝う涙を指先で拭うと、泣きはらしたその微笑みは、かつて見た中で一番に美しいものでした。


 ――諦めに満ちた最後の光は、全てのものを甘く白く溶かしていくのだろう。

 ――抗えないほどの強い力で、私の愛した全てのものを、私を包む全てのものを消し去ってしまう。

 ――でも、きっと、それでいいのだろう。

 私は自分が消え去ってしまうということに、恐怖は感じていませんでした。

 ――僕はアナベルと一緒に消えよう。濁りのない真っ白な朝の光に。


 再び私と手を繋いだアナベルは、死への怯えに顔をこわばらせていました。私はその白い頬に静かにキスをして、彼女が横たわる寝台の傍らに腰をかけ瞼を閉じて、「何も怖くないから。一緒に朝を待とう」と言いました。

 目を閉じたまま私は、アナベルが少しでも怯えず、怖がらず、この最後の時を過ごせるよう祈りました。

迷いはありませんでした。安らかな気持ちで、ゼリーのようにねっとりと重い闇の中、私はアナベルと手を繋いだまま、黙って朝を待ちました」


 五、終焉


 知らないうちに位置を変えた月が、生垣に茂る葉を影にして、庭に映していた。

 時折強く吹く風が、ヒュウヒュウと音を立てた。


 先生は瞼を重そうに伏せて、鼻先に指を沿え、小さく啜った。

「……最後の朝は、来たのですか」

 唐突に途切れた幻の続きをせがむように、僕は黙り込んだ先生の横顔に声をかけた。

 「ええ、来ましたよ」と先生は小さく答え、煙草に火をつけて俯いたまま目を閉じた。

「……それで、」

 先生は一つ深く煙混じりの息を吐いてから、再び言葉を続けた。


          *


「結論から言うと『最後の朝』は、来ました。

 でも、それまでの、あのアナベルと過ごした最後の時間は、私にとって永遠にも思える長い長い時間でした。
 彼女が消えることも、自分が死ぬことも、覚悟を決めた上で、その時を待っていたつもりでしたが、あの長く重く続く絶望的な沈黙の時間を、私は忘れることはないと思います。

 ――このまま、夢が醒めることはない。

 そのことをぼんやりと確信しながら、私は彼女の冷たい手を握り、今までのことを思い返したり、現実の中に置き忘れてきたものはないかと考えてみたり、時折彼女が既にこと切れているのではないかという不安に囚われ、言葉をかけたりしました。

 彼女は、私の呼びかけの声に応えるように、その度に薄く瞼を持ち上げました。その度に私は自分の不安に、間際の彼女を煩わせてしまったことを申し訳なく思い、首を振って微笑んでみせました。

 私が微笑んで見せると、彼女はそれに応えるように、微かに唇の端を持ち上げたことを憶えています。

 長く暗い時間が過ぎてゆくに従って、朝などこのまま来ないのではないか、という思いが湧き上がり始めました。

 ――朝が来ないのであれば、私は彼女を連れて、終末から逃れることもできるのではないか。

 鉄格子のはまった石壁の窓に視線を投げると、夜はまだ深く、夜明けの予感すらも感じさせませんでした。

 ――今なら、まだ間に合うのかもしれない。

 考える猶予など残されていません。私は身を起こし、アナベルの顔を覗き込んで彼女を抱き起こし、

「逃げよう」

 と囁きました。驚いたように、乾いた唇を少し開け、何かを言おうとした彼女を、私は両腕で抱き上げました。彼女は、本当に、嘘のように軽くて、私に掴まることもせず、黙ったまま私の顔を間近で見詰めていました。

 どこへ逃げるなどという目算はありませんでした。私はただ、この部屋から、この場所から遠ざかることができれば、という気持ちでいっぱいでした。
 窓の格子越しにしか見たことのないという世界を、一度でもアナベルに見せてあげたい。
 月夜に輝く湖の光や、遠くまで続いていく針葉樹の森の暗さや、せめて彼女が窓の外にしか望んだことのない景色の実物を、見せてあげたい。
 それだけの思いで、私はただ突き動かされていたと思います。

 アナベルを抱き上げたまま、私は壁際に置かれたままになっていたランタンを爪先で持ち上げて油の残りを確かめるために数回振ってから、つまみを捻り火を点けました。ぼう、と暖色の色をした炎の灯りが壁面を照らすことを確認すると、私はそれを指先にひっかけたままで、彼女を両腕に抱えなおし、閉ざされていた木の扉を蹴破りました。

 呆気ないほど簡単に、扉は破れました。きっと長すぎる時間が経つ間に、扉の木が腐ってしまっていたのでしょう。その向こうには真っ暗な廊下と、その先に続く石の階段がありました。

 私はランタンの光で足元を照らしながら、注意深く歩を進めました。
 怯え、戸惑うように眉を顰めた彼女の蜜色の髪が、私の腕の脇をこぼれて足元まで垂れていました。目が合うたびに、私は彼女の耳元で「大丈夫だよ」と囁きました。彼女は小さく笑いました。

 螺旋になった石の階段には窓もなく、光はただ弱々しいランタンの灯り一つでした。地の果てまで降りていくように階段はどこまでも深く続いていき、見下ろしてみても、その果ては暗闇に沈んで確かめることはできませんでした。

 一段足を下ろすたびに、私の足音は塔の中に大きく響きました。足を踏み外さぬよう、抱きしめた彼女の命を、今自分が預かり守っているのだということを己に強く言い聞かせ、私はゆっくりとその階段を降りていきました。

 アナベルが、それまで力なく下ろしていた腕を持ち上げ、私の首にしがみ付きました。
 驚いて足を止め、彼女の顔を見ると、先ほどまで蒼白だったその頬に、うっすらと赤みが差していました。私はそれが、自分の前にある一つきりの希望に思えました。

 ――きっと、大丈夫。恐ろしいものからはきっと逃げ切れる。僕たちは、これから美しい世界を、この絶望の場所から逃れて生きていける。

 そう思うと、私自身にも力が湧き上がるようでした。


 長く続いた階段を下り終えると、小さな円形のホールのような場所に出ました。ランタンを持ち上げ、あたりを照らすと、その向こうにやはり固く閉じられた木の扉が見えました。

 窓が無いそのホールに、外の様子を伺うためのものが何もないことに、僅かな不安を感じました。

 ――外の様子を見なくなってから、どれほどの時間が経ったのだろう。もう外は薄明るく夜明けが迫っていたら。

 背筋を冷たく予感が走りましたが、ここまできて怯えている訳にはいきませんでした。私は彼女の顔を息の止まる思いで見詰め、一度だけ、口付けを交わしました。


 ――それからのことは良く憶えていません。

 私たちが口付けを交わし、唇を離したか離さないかの時に、出口へ続く木の扉の隙間から強く白い閃光が差し込んで、それと同時か、一瞬遅れほどで今まで漆黒の闇に沈んでいた高い高い塔が、アナベルを長い時間孤独に埋めていた場所が、轟音と共に崩れて落ちました。

 一瞬の間に、私は、その崩れくる石の雨の隙間から、上を見上げた気がします。

 そこには何も、見えませんでした。空もなく、闇もなく、ただ白いだけの光が音もなく降りそそぎ、全てのものを消し去っていく強さで、私たちを包みました」


          *


 僕は胸の底に苦しさを覚えて俯いた。

 僕が子供の頃に焦がれた『月夜』の中にある、冷たく重い恋の記憶。それを先生は僕に今聞かせてくれているのだということ。

「先生は、その時、死んだんですか」

 深刻な声の僕の間の抜けた質問に、先生は声を出して笑った。

「私は今、こうやって生きているじゃないですか。幽霊になった覚えはありませんよ」

 先生につられて僕も笑った。ひとしきり笑いあった後、先生はふと真顔に戻ると、

「でも、君の言うことは、半分は正しいのです」

 と言った。


          *


「私はあの日、アナベルと共に死を迎える覚悟をしていました。『最後の朝』が訪れた時、腕の中に彼女の重さを感じながら私は、これでもう二度と離れることはなく、一緒になれるのだ、と心が軽くなることを感じました。

 ――ですが、私は死ぬことができなかったのです。

 翌朝、私はびっしょりと汗をかいて、布団の中に身を起こしました。
 目に映る自室の天井を呆然と眺めながら、つい先ほどまで自分の腕の中にいたアナベルの面影を追って、私は何故自分が今、ここにいるのかということが理解できませんでした。

 それきり、あの夢を見ることはありませんでした。


 自ら捨てたはずの残骸のような現実の中に一人きりで取り残された私は、その日から再び絵を描き始めたのです。

 仕事になど行っている場合ではありませんでした。私にはしなければいけないことがあったのですから。

 それまでの数年間で溜まっていた有給休暇を纏めて申請し、私は翌日から部屋に籠もって日夜を問わず彼女の姿を描きました。

 瞼を閉じると浮かぶその面影を、かつては自分のために描いた彼女の面影を、私はその時初めて、彼女のために描きました。

 救い出すことはおろか、私は彼女に何も、してあげることはできなかった。美しいものを一つ見せることすら叶わず、あの塔から逃げることも叶わず、彼女を救うことができなかった自分への贖罪の気持ちもありました。

 寝食を忘れて私は、カンバスに向かい、手の筋がちぎれそうになるまで絵を書き続けました。

 眠るアナベル。笑うアナベル。あの澄んだ声で歌うアナベル。連れて出すことは叶わなかったあの月夜の景色の中で、踊るアナベル。見慣れたその横顔。神々しいくらいに美しい彼女を、私は描かなければいけないと思いました。
 彼女の存在した証を残すこと。自分にはできなかった彼女を救うことを、せめて絵の中では実現したいと、私は願ったのです。

 消えてしまったあの月夜の部屋。彼女の座っていた天蓋の付いた寝台と、冷たい石の壁に一つだけ開いた鉄格子の窓から見える、遥かな月夜の湖を。彼女が住んだあの世界を。私は守ることのできなかった彼女に祈るような気持ちで、描きました。

 愛している、という言葉がその時、私の胸の中に張り裂ける気持ちで渦巻いていました。


 それがあの、君が好きだと言ってくれた『月夜』の連作集ですよ」


          *


「……はい」

 僕が頷くのを見た先生は、優しい顔で、静かに笑った。

「それを描き上げてしまってから、私は絵を描くのを止めました。もう二度と絵を描くことはないと思います。描くべきものを失ってしまったのですから」

「…………」

「いやだ、そんなに悲しい顔をしないで下さい」

 先生は笑って僕の顔を覗き込んだ。

「あの時、君の言う通り、私は一度死んだんです。だから今こうやって生きているということは、神様が私に下さった余生なんだと思っています。私は今、幸せに生きていますよ。だから君が、そんなに悲しい顔をすることは何も、ないのです」

 先生らしい言葉だと思った。先生は忘れていたように、卓上に置かれた盃に酒を注いで、するりと一口に飲み込んだ。僕もそれを真似をして、酒を飲んだ。

「それからは、まあ、余計な話なんですけども。

 私が描いた『月夜』を、私は初めて個展という形で人目に触れさせたのです。自分ひとりでしまいこんでいては、あの娘が生きた証拠を残したことにはならない気がして。

 それを偶然見に来ていた小さな美術出版社の人が、本にしないかと言ってくれて。

 私が仕事に戻り、ぼんやりと暮らしている間に、本になった『月夜』が大きな賞を獲ったのです。そうしたら君の今通っている大学から、教員としてこないかと誘われて、私は仕事を辞めて、この家に越してきたのです」

「……じゃあ、この家には長い間、住んでいるんですね」

 何を言っていいか分からず焦った僕が口にした的外れな言葉に、先生は笑った。

「そうですね、もう三十年ぐらいになりますかね」

「……僕は、この家が、好きです。ここで暮らしている先生も、好きです。父が、先生に会わせてくれて、良かった。今は父に感謝しています」

「それは、嬉しいですね」

 先生の語ってくれた過去に、僕は何と言っていいか分からず、ただ胸の中にある言葉を口に出した。それに笑って応えてくれる先生を見て、僕は本当に、心から、この人に会うことができて良かったと感じた。


「それは、本当に、嬉しい言葉なんですが」

 先生は一言ずつを区切るようにいい、僕の顔を真っ直ぐに見た。普段はあまり目を合わせることのない先生の、いつになく真剣な面持ちに、僕は体が固まるのを感じた。

「君は、もう、この家を出なさい」

 思いもかけなかった言葉に、自分の耳を疑った。

「……どうして、ですか。どうして急に……」

 先生は俯き、盃に映った月の像を弄ぶように揺らして、

「君は、若い頃の私に、似ている気がします。だからなのか、時々心配になるのです」

 と言った。

「……僕は、先生が好きです。先生のような人になりたいと思って……」
「だからこそ、君は私と居るべきではない」

 僕の言葉を遮るようにして、きっぱりと言った言葉に、僕は目の前が暗くなるのを感じ、その場に立ち尽くす思いがした。

「この家を出なさい。いい部屋が見つかるよう、私も協力しますから」
 僕は、その言葉に唇を噛んで、俯くことしかできなかった。

「私のように、悲しい思いを、君にはして欲しくないのです」
 鼻の奥がツンと熱くなり、僕は俯いてそれに耐えた。涙が出る。

「私は、君の絵が好きですよ。未熟ではあるけれど、描きたいものに正面から向かい合っている。君は本当に美しいものを、描ける人だと、思っています。
 ……引っ越したら、また遊びにいらっしゃい。いつでも歓迎しますから」


 六、眠り


 僕は先生に促されるままに、「はい」と言い、その月の末に近くのアパートに部屋を見つけ、引っ越した。もとから荷物は多いほうではなく、家具や布団は先生の家にあるものを借りていたから、僕の引越しは歩いて数往復ですむ、とても簡単なものだった。

「また遊びにいらっしゃい。いつでも歓迎しますから」という言葉に甘えて、僕はそれからも毎日のように先生の家に遊びに行った。
 先生は言葉の通りにいつも笑って出迎えてくれ、僕は一緒に住んでいた頃のように、よく夕食の支度を手伝った。

 そのうちに、大掛かりな準備に忙殺された大学祭が終わり、夜が冷たくなって冬が来た。

 「寒くなりましたね」と先生は言い、僕は先生と鍋を囲み、笑いあった。


 授業が終わり、冬休みが始まって、僕はトランク一つに荷物を詰めて実家へ帰った。二十歳になった僕に両親は「これで最後よ」と言いながらお年玉をくれた。
 僕は父に、昔の父の知っている先生の話を聞こうかと少し思って、やめた。

 そうこうしている内にあっという間に時間が過ぎ、父に渡された土産を持って、僕は新幹線に乗った。


 初め、僕は先生が眠っているのだと思った。

 玄関のガラス戸を何度か叩いてみても返事がないので、庭に回り、鍵のかかっていない縁側のガラス戸から中へ入ろうとした時、座敷に布団を敷いて、先生が眠っているのが見えた。

 それはもう夕方で、普段早起きの先生がこんな時間に眠っているのは不自然なことだと思いながら、僕はいつものように鍵のかかっていないガラス戸を引き開け、縁側に上がって再び「先生?」と声をかけた。

 先生は、身動き一つしなかった。僕は不思議に思い、両腕に抱えていた荷物を置いて、腕を伸ばし、先生の頬に触れた。

 ――先生の頬は石のように、冷たく、固かった。


 僕はそのまま、暗くなりゆく部屋の中で座り込み、先生の眠る顔を見ていた。目の前で起きていることに全く実感が湧いていないのに、信じられないくらいの量の涙が怒涛のように頬へ落ちるのを留められなかった。

 先生は本当に、眠っているのではないのだろうか。揺り起こせば、いつもの柔らかい笑い顔で「おや、あけましておめでとう」と笑うのではないのだろうか。僕は何度か腕を伸ばし、先生を揺り起こそうとして、そのまま腕を引っ込めた。

 先生は眠りながら、その表情に薄く幸せな笑みを湛えていた。

 ――先生は、もしかしたら今、漸くアナベルに会えたのかもしれない。

 そんな幸せな夢から先生を揺り起こしてしまうと、先生を悲しませてしまう。醒めないことを願った幸せな夢に、先生は漸く辿り着くことができたのかもしれないのだから。

 冷たく固くなって眠る先生の頬は、白く重く下がっていて、いつもは深く刻まれた皺が薄れ、僕と同い年くらいの青年のように見えた。僕は、その安らかな寝顔を、いつまでも見守っていたいと思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?