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【短編小説】夜に棲む者たち

 耳鳴りのするような静かさが沈殿する暗闇の中で目を醒ました。

 枕元に置きっぱなしにしていた携帯電話を開き、時刻を確認すると、日曜の午前二時を回ったところだった。液晶画面の小さな灯りをもとに、体を起こして部屋の電気を点ける。

 帰宅してスーツすら脱がずに、ベッドに倒れ込んで眠っていたらしい。
 窮屈さのせいか体の節々に軽い痛みを覚えた。結構な値段のしたライトグレーのスーツはしわくちゃになってしまっていて、小さく溜息を吐く。

 朦朧とした頭が次第に、騒いでいた濁りを音もなく沈ませていくように、澄んでくるのを感じる。

 ――そうだ。

 金曜日の帰り道の記憶が甦る。
 そうだ。あの日は、急に欠員が出たせいで前日に帰宅できず、風呂にも入れず連勤して。

 ――疲れで動かない足を引きずって、二日ぶりに家に帰って。……そのまま今まで眠っていたのか。

 体の動きを制限する枷のような上着を脱ぎ、床に放り投げる。
 ここまで皺が付くともうクリーニングに出さなきゃいけない。仕方ない。ここ数週間は仕事が立て込んでクリーニングどころではなかったし、もう何週間も洗わずに着続けていたから、ちょうどいい機会だったんだろう。
 日が昇ったら、他のもまとめてクリーニング屋に持って行ってしまおう。

 両手を上にあげて大きく伸びをすると、よく眠ったはずなのに欠伸が出て、頭の中が白く塗り潰される感覚があった。
 首を左右に振るとバキバキと音を立てる。肩を回してみると、心地よい痛みは少しあるものの、少し前には強張った両肩に重さと激痛を帯びて圧し掛かっていたものが、嘘のように消えていることに気付いた。

 体が、軽い。よく眠ったからだろうか。

 もう一つ大きく伸びをして、体中の軽さを確かめたのち、数日分の疲れを総て洗い流してしまうべく、シャワーへ向かった。


 熱めの湯を強く出して、頭を洗っていると、忘れていたようなことを色々思い出した。

 帰り際に後輩の風間に声をかけられたこと。
「山崎さん、あの、ちょっと相談したいことがあって」

 あの時、何と答えたんだったか。
 ……思い出せないけれど、その後に風間が「そうですよね、ごめんなさい。じゃあまた、月曜日にでも」と不自然な作り笑いをしてみせたことを思い出す。
 ……そうか。明日、会社に行ったら風間を昼飯にでも誘ってみよう。

 相談と言うのは、前から度々相談されている彼女のことなんだろう。
 同棲していたのに別れ話を切り出されて、ってそれを俺に聞いてもらってどうするつもりだというんだ。俺にはそんな同棲経験すらないというのに。

 残業しながら帳簿の数字と戦っていた時に、頭の上で聞こえていた会話。「総務の森口さん、退社するって知ってる?」
「えー、どうして急に」
「不倫がばれたらしいよ」
「何それ。誰と?」…………

 総務の森口さんは新卒の同期入社だったから、部署が違うとはいえ俺も顔を知っている。
 小柄で愛想の良い女の子だ。あの時は計算の妨げになる雑音だと忌々しく思えた会話が、今になって意味を帯びてくる。森口さんが退社してしまうということは、理由はどうあれ、多少残念ではある。
 庶務課では話しやすく、仕事を頼みやすかった森口さんがいなくなってしまうと、こちらの仕事にも多少の影響が出てくるのかもしれない。


 泡を流して、湯を止める。
 バスタオルで滴を拭いながら、バスルームを後にする。床に散らばった肌着やシャツを玄関口に置いてある洗濯機に放り込んで蓋を閉める。

 時計を見るとまだ二時半を回ったところだった。夜明けまではまだ数時間ある。
 シャワーを浴びたからか、先ほどまで軽い怠さの残っていた体が一気に軽くなっている。

 ――金曜日に帰ってきて、飯も食わずにスーツのまま寝て、今が日曜の夜中だから、丸一日以上ぶっ続けで眠っていたことになる。

 寝すぎた時というのは頭が痛くなったりするものだけど、今回は頭痛もない。疲れもきれいに抜けて、体も軽い。普段時間がなくてできずにいるようなことを、何でもこなしてしまえるような気がした。

 冷蔵庫から水を汲んで、ベッドに腰掛けて煙草を喫っていると、いいことを思いついた。

 ――このまま部屋に居ても、だらだらしてしまって有意義には過ごせないだろう。思い切って散歩に出てみようか。

 学生時代に愛用していたカメラを、久しぶりに押入れの奥から引っ張り出す。つまみやねじを触ってみたけれど不具合はなさそうだ。

 眠っていて普段は見ることのない世界。
 社会人として働きだしてから、平日の昼間と、深夜の時間というものは、日常の暮らしの中ではなかなか自由に見ることのできないものになってしまっていたから、普段は見られないものへの多少の好奇心を覚える。

 ――公園に行こう。あそこは、夜中でも多少の人は居るし、街灯も点いている。

 そう思うと、心が純粋な好奇心に踊るように思えた。
 財布と家の鍵と、携帯をズボンのポケットに、煙草とライターを羽織ったパーカーのポケットに入れる。カメラはフィルム残数を確かめて、首からかけた。

 こんな風に意味のない散歩をするのは、大学時代以来なのかもしれない。就職してしまってからというもの、自分がカメラを持って、世界から一画面の写真を切り取ることができることに関して、プライドさえ持っていたことすら忘れてしまっていたように思う。

 大学時代の写真部の仲間を思い出す。
 今はもう連絡も取っていないけれど、彼らは今も写真を撮り続けているのだろうか。それとも僕と同じように、カメラを持つことすら忘れて生活に追われているのだろうか。

 今の会社の中には親しくしている友人は何人かいるものの、その中に僕が写真を撮るということを知っているのは一人もいない。そう思うと、誰も知らない秘密を持っているような気すらして、多少の優越感を覚える。

 写真部で活動していた頃には、写真を撮るということを軸にして生活していたように思う。
 そうして撮った写真が広告に使われたり、賞を獲ったりしたことだってあった。「何を撮るか」「どう撮るか」ということを、日夜考え続けていたほどに熱中していたのに、就職して生活という波に流されてしまうと、これほど容易く自分が大切にしていたもののことすら忘れてしまうのだということを、他人事のように考える。


 僕の住んでいる部屋から歩いて三分ほどの場所には、都内でも指折りの大きな公園がある。
 大きな池を囲む遊歩道の上には桜が植わっていて、春になると足の踏み場もないほどに花見客が詰めかけることで有名な場所だ。

 もともとこの公園が好きで、暇な時にすぐに散歩に出られるから、という理由で今の部屋を借りたのだった。普段は駅からの帰り道に通り抜けるだけの場所になってしまっているのは勿体ないことなのだろう。

 公園の入り口の階段の傍らにあるコンビニに寄り、菓子パンと梅酒の小瓶を買った。
 池を眺めるベンチにでも座って、イヤホンで音楽でも聞きながら、ゆっくり梅酒を飲んで過ごそう。近頃の自分に欠けていたものは、こうやって立ち止まって考えてみる時間だと強く感じる。

 

 公園には、夜中であるというのに思ったよりも人が多かった。
 池の周りの遊歩道沿いには行燈のようなランプが張り巡らされている。週末であることもあり、何か催しが行われているのかもしれない。

 

 池を囲むベンチに座り、梅酒の瓶の封を開ける。
 直接口を付けて一口含むと、梅酒特有の甘い痺れが鼻の奥に香った。久しぶりに嗅ぐ匂いだった。お酒を飲むこと自体、相当久しぶりであるように思える。
 普段は終電間際まで会社に残り、終電で何とか帰宅すると、その頃には午前二時近くになっている。風呂につかる時間もないからシャワーだけを手早く浴びて、倒れこむようにベッドに横になる。
 目覚ましで朝の六時には叩き起こされ、七時には家を出て、八時には会社に居なければいけない。

 ――もう慣れた、とはいえ、そんな生活をいつから始めたのだったか、そんな生活があたりまえになってしまったのはいつからだったか、思い出すこともできない。

 こんな風に公園を散歩することも、いつぶりになるだろう。
 大学生の頃は、時間があれば昼でも夜でもこの公園に意味もなく足を運んで、時間を過ごしていた。この公園をすぐに訪れることが出来るから、という理由で借りた今の部屋も、現在ではただ手狭で駅から遠いというだけの部屋になってしまいつつある。

 もったいないことをしていると改めて思う。
 歩いて数分で、この公園を訪れることが出来るということは、どんなに贅沢なことだろう。でも、それも時間があればの話だ。
 今の生活の中では、昼下がりの公園で読書をしたり写真を撮ったりするよりも、ベッドに倒れ込んで丸一日眠っているほうが魅力的に思えてしまう。
 大学生の頃の自分が、現在の僕を見ると、きっと情けないとか悲しいとか思うんだろう。こんな風に生活のほぼ全てを仕事に費やしてしまう日々を生きていること自体の浪費だと絶望したかもしれない。

 仕事は嫌いではない。最低限の睡眠時間や、人並みに自由のある暮らしができればとは思うものの、仕事をしている間は、仕事のことだけを考えていればいいから、楽だ。
 少なくとも、大学生の頃に就職が決まらず、一年後の自分が生きているのか死んでいるのかも想像が付かない中で、どんどん自己嫌悪していく時期を過ごすよりも、必要とされていることを感じていられるだけ、忙しくても自由がなくても、今の生活の方が断然楽だと思える。
 時折人に作品を褒められるようなことはあっても、誰からも必要とされていると思えず、自分の信じる美しいものを世界の中から切り取ろうと、カメラを唯一の武器のように思っていたあの頃よりは、生きていることを許されているような気がする。

 疲れながら生活を続けていると、頭がぼんやりして、嫌なことも思い浮かばないし、悪い夢だって見ない。
 それは楽なことではあるけど、自分がどんどん愚鈍な馬鹿になっていくのを見ないふりを続けているのかもしれない、とも思う。でも、そんなことはどうにもならないことだ。どうにかしてしまえるなら、働き続けていたこの何年間の間に、何とかしていただろう。


 犬を連れた子供が、目の前を走りすぎた。
 思ったよりも人出があるとはいえ、夜中の三時近い時刻に、小学生だろう子供が一人で犬を連れているのはやはり少し不可思議だった。

「ちょっと、」

 声をかけようとすると、子供はこちらに一瞥を返し、注意されることを怯えるでもなく僕に会釈をした。
 つられるように会釈を返すと、子供は犬を繋いだ紐を引いて、「行くよ」と声をかけて走り去った。その後ろ姿に声をかけそびれ、僕は一度腰を浮かしたベンチに再び深く腰を下ろす。
 梅酒の瓶を唇に当てたまま、頭の中で整理できない事柄が目の前に浮かんでいることを、「少ししか飲んでないのに酔ってるのか」「夢でも見てるのか」と自問する。

 顔を上げた先にある池では、湖面を照らすライトアップが施された下で、いくつかのボートが昼下がりであるように緩やかに行き来している。
 今まで気に留めていなかったけれど、貸しボートは確か夕方で店じまいじゃなかったか。人の溢れる桜の季節にだって、ボートが夜に浮かんでいるところを、一度だって僕は見たことがない。

 夜間営業を始めたのか、それにしても夜中の三時にボートを貸し出すものだろうか。それともこの催しで人出がある期間にだけ、終夜営業することにしたのだろうか。

 幾艘かのボートに乗っているのは、それぞれ男女のカップルであるらしかった。大学生と思しき二人。中年の夫婦と思しき二人。
 ……とその中に、見覚えのある横顔を見つける。総務の森口さんだ。

 森口さんは会社で見かける時よりも表情が明るくよく笑っていた。
 僕がここに居ることには全く気付いていない様子で、目の前に座る恋人らしい男と二言三言言葉を交わしては、無防備に笑みをこぼしている。

 「総務の森口さん、退社するって知ってる?」
 「えー、どうして急に」
 「不倫がばれたらしいよ」
 「何それ。誰と?」

 頭の中で甦る女性社員の会話と、目の前のボートの二人が符合する。ということは、こちらに背を向けて座っている男が、森口さんの不倫相手ということなんだろう。僕は思わず男の横顔に注視した。

 ボートを漕ぐ男は森口さんと楽しげに会話をしているらしかったが、一向にこちらを振り向かない。暫く見ていたけれど、誰だろうと関係ないという気持ちが湧いてきて、視線を外した。

 一つ大きく溜息を吐く。
 公園の中の木々は、そこらの三階建てのビルより遥かに枝を伸ばしていて、下から見上げると森の中に居るような暗さだった。
 風が吹く度に高い場所でザワザワと枝が鳴る。そしてその隙間から時折、貝釦に似た月が白く強い光を伴って覗く。月の光が差しこむ度に、辺りは一瞬ふわりと明るく照らされる。

 池の向こう辺りからバイオリンの音がか細く聞こえた気がして、興味を惹かれた。こんな夜中に、と思わない訳ではなかったけれど、僕の耳を遠く掠めたその音は、何かとても儚く美しいものであるように思えた。

 ベンチを立ち、微かに続くバイオリンの音を頼りに歩き始める。池に沿って歩き、ボート乗り場を通り過ぎて、売店の脇を通り、橋を渡る。手繰り寄せるようにして歩いているとバイオリンの音は少しずつその輪郭をはっきりさせて聴こえるようになった。

 遊歩道の先、小さな広場になった場所で、バイオリン奏者は一人演奏を続けていた。
 大人というには小柄すぎる彼は、もしかしたらまだ学生なのかもしれない。バイオリンのケースを前に置き、目を瞑って演奏を続ける彼の周囲には、その音に耳を傾ける聴衆が十人ほど集まっていた。空いている場所を見つけて僕も腰を下ろす。月の光の下で耳を傾けるバイオリンの音は、熟れた果実みたいに湿った甘さの音を夜の空気に響かせていた。弦の軋むノイズすらも音楽の一部に聴こえるほど、彼の音楽はこの夜に相応しいものだった。

 曲が終わり、聴衆から拍手が発生する。
 僕もそれに倣って素直な気持ちで両手を叩く。奏者は一礼して、満足げに周囲を見渡して、再び楽器を構えた。聴衆は拍手を止め、再び彼の音楽に耳を傾けるべく、それぞれに目を瞑った。

 ふと、その中の一組の親子に目が留まった。
 まだ赤ん坊の子供を抱いた母親と、その傍らに座る男性。あの二人には見覚えがある。……確か、向かいのマンションに住む清水さんの夫妻だ。幾度か顔を合わせて挨拶をしたことがある。それにしても清水さんの家に赤ちゃんが生まれていたなんて、全く知らなかった。子供が泣く声も聞いたことがない。だけどそれは、深夜遅くに帰り、早朝に家を出ている僕の生活の時間がちょうど赤ん坊の眠っている時間だということなのだろう。
 赤ん坊を覗き込む奥さんは聖母のように優しく笑っている。子供はその包みの中から、もみじに喩えられる小さな手をいっぱいに母親に向かって伸ばしているようだった。

 「あそこの奥さん、この間スーパーで倒れたんですって」
 「ええ、清水さんの」
 「そう。それがね、病院に運び込まれて、流産だったんですって」

 いつぞやアパートの前で聞いた主婦たちの立ち話が、耳の奥深くで不意に甦る。


 演奏が終わり、バイオリンを弾いていた青年が深く一礼すると、広場に集まっていた人々は散っていった。
 それぞれに笑い合いながら公園をそぞろ歩く人々の姿は、休日の午後のものと本当に何も変わらない。違うのはただ、今が夜中の三時の暗闇の中だということだけだ。
 売店でフランクフルトを買う兄妹とそれを見守る両親らしい男女。
 広場の隅に敷物を敷いて、持参したらしいサンドイッチを食べる女の子たち。
 池の周りに照明が巡らされ売店が店を開けていること以外、これといって特別な催しも行われていない様子ではあるけれど、どうして今夜に限って、これほど人が多いのだろう。それとも僕が訪れていなかっただけで、以前から公園の夜中というものは、これほどに賑わいのあるものだったのだろうか。

 池のほとりに数人の老人たちがキャンバスを広げ、油絵を描いている。昼下がりなら何の不思議もない風景だけれど、この闇の中で描くべきものが見えるのか、単純に不思議に思う。風景画を描くのなら、日中のほうがやりやすいに違いない。それとも闇夜の中には、日中には描けない描くべきものが存在するとでもいうのだろうか。

 興味を惹かれ、僕は絵を描く老人の一人の近くに寄った。老人は気付いてこちらに振り返り、愛想良く僕に「今晩は」と声を掛けてきた。

「今晩は。何を描いてるんですか?」
「池と、木と、月のある風景だよ」

 なるほど。月が出ている風景は、日中には描くことができないものだろう。得心する気持ちで改めて、老人の握る絵筆の先を覗きこむ。穏やかに月光を映す湖面と、その上でさざめく木々の葉音が聞こえるような、静かな青い絵だった。

「……きれいですね」
「有難う」

 老人は視線を細かく動かす絵筆の先から外さずに答えた。

「でも、夜に絵を描きに出かけるって、大変でしょう」
「まあ、ねえ。……でも僕に自由になるのは、この時間しかないから」

 老人の言葉に少しのひっかかりを感じながらも、僕はその先を追及することを躊躇った。生活の中で自由になるのが夜中だけ、というのは少し分かるような気がする。それぞれの暮らす日々の中で抱く環境は、当人にしか分からない都合を内包しているものだ。

「有難うございました」
「またね」

 腰を上げた僕に向かって老人は人懐こく笑うと、再びキャンバスへ向き直った。その横顔をちらりと見て、敬意を払う気持ちで僕は小さく頭を下げた。


 何かがおかしい。
 そんな気持ちで胸の底のあたりに泥のような不安が沈んでいくのを感じる。行き過ぎる人々は、皆笑顔だ。
 逆に言えば、今この公園には、休日の景色の中にすら居る足早に通り過ぎる人が一人もいない。

 少し考えて、僕はその不安を打ち消した。

 足早に歩かなければいけないような状況の人は、わざわざこんな夜中に公園を訪れたりするようなことはしないというだけのことだろう。
 こんな当たり前のことをわざわざ考えないといけないほど、僕は何かに怯えているというのだろうか。

 絵を描き続けている老人たち。バイオリンを弾く青年。ボートを漕ぐ恋人たちと、談笑する少女たち。敷物を広げてそれぞれにギターを弾く少年たち。それを見守る少女たち。子供に微笑む母親。犬を連れた子供。
 ――絵に描いたような幸せの景色しかないこんな場所で、僕はいったい何を恐れるというのだろう。

 これほどに人々が笑いあう場所というものを、今までに僕が見たことがないからだろうか。それなら僕にしなければいけないことは、一生のうちに今しか見ることのできないこの幸せな夜の一片を、存在した証拠として残すことなんじゃないのだろうか。幸運にも僕は今日、数年ぶりになるカメラを持ち出してきている。僕はこの場所の、幻のような幸せの景色が存在することを、写真という形に残すことができるのだ。

 一度大きく息を吸い、止めて、静かに吐き出すと、胸の奥のざわめきが静まったことを感じることができた。

 こんなに特別で美しい夜の景色を撮れることを、何よりの幸運だと思うことを忘れていたなんて、僕は本当に写真というものから心が離れていたのだなと改めて感じる。

 僕は写真を撮ることができるのだ。
 自分の見た景色を瞬間冷却して、永遠に形として残すことができるのだ。
 そのことにかけて誇りを持つことが、かつて自分を支えていたはずなのに、そんなことも忘れてしまっていたなんて。

 ――二度と、忘れないようにしよう。僕は、写真を撮ることができるのだ。


 ベンチに腰を下ろして、肩から下げたままにしていたカメラの部品を丁寧に点検する。不具合はない。多少古くはなってしまっているものの、未開封のフィルムも幾つか持っている。

 僕がなぜ、夜中に目覚めて、カメラを携えて公園を訪れようと思ったのか。考えても分からないその理由は、目の前の景色を撮るためだったのだと神様に教えられたように、素直に受け止めることができた。


 老人の描く青い夜の景色よりも。
 誰かの夢を覗いたような、このふわふわと浮つく気持ちを綯交ぜにしたこの夜の特別さを。
 風に揺れる葉先のざわめきや、その向こうに白く高く浮かんだ月の孤独や気高さも。
 朝が来ることなど誰も知らないかのように、笑いあう永遠のような夜。

 僕の感じるもの。
 僕の見ている景色。
 僕の肌に触れる冷たい風や、舗装されない土を踏む足裏の感触。
 落ち葉を踏む音。
 この場所にある総てのものを、僕はカメラに閉じ込めてしまいたいと思う。

 未開封のフィルムの封をちぎって破り、ビッと引き出して、カメラの裏面へへばりつけて、ガチッと音をさせて蓋を閉じる。――それから僕は、息をするのも忘れる程に、目に映る世界を切り取った。フィルムが切れてしまい、中断された時にだけ、我に返って深く息を吸う。

 手持ちのフィルムを総て使い切ってしまったことに気付く。
 長距離走を走り終えた時のように体を心地よい倦怠が支配している。時計を見ると四時半を少し回った時間だった。まだ夜明けには時間がある。僕は売店に寄って自動販売機で缶のコーラを買ってベンチに座り、煙草に火を付けた。
 明かりのついた売店の奥では老女が一人猫を従えて座っている。数年前、大学生の頃に公園でよく見かけたおばあさんだ。最近は息子さんらしき人が店じまいをしているところを見かけるばかりだったので、もう引退したのだと思っていた。

 コーラの炭酸が喉の奥に刺激を与えて、体に籠った熱を冷やしていく。少し休んだら、夜が明けてしまう前に、部屋に帰ろう。押入れに設えていた暗室と、長く放っていた現像器具はまだ使うことができるだろうか。部屋に帰ったら、それを一番に確かめようと思う。

 ベンチに座ったまま、数本目になる煙草に火を付けてぼんやりと景色を眺めていると、少し離れた遊歩道を、後輩の風間が歩いているのが見えた。同年代らしい小柄の女の子と手を繋いで、嬉しそうに笑いながら彼女の顔を覗きこんでいる。

 ――なんだ、あいつ。さっきは深刻そうな顔をして相談があるって言ってたくせに。

風間の表情を見る限り、彼女に振られる、家を追い出されるって泣きそうな顔で愚痴っていたのが嘘のように見える。

――仲直りしたのか。良かったじゃん。これなら月曜に気を使ってこちらから飯に誘ってやることもないな。

少しでも心配したことが馬鹿らしく思えて、自嘲にも似た笑いを吐いてしまう。

近くを通り過ぎた猫が、その様を見上げて足を止めた。

「何だよ。見るなよ」

 猫は言葉が分かったのか、言葉に従って足早に広場を横切って叢へ姿を消した。

 

 腕時計を見ると、朝の五時を指すところだった。
 夜明けが近づいているのが、空の気配で感じられる。気温が下がってきているのか、指先がかじかむ。カメラを肩にかけて両手を上着のポケットに突っこんで、ベンチから立ち上がった。

 いつの間にか、公園の中は先ほどまでの賑わいを消して、見慣れた早朝の寒々しさを取り戻していた。
 談笑していた人々はいつのまに帰ったのだろう。申し合わせたように消えた気配に、幻を見ていたような気持ちになる。そうは言いつつも、僕も部屋に戻るところなのだから、人のことを訝る義理もない。早く部屋に戻って、熱い風呂にでも浸かろう。そして眠る前に、現像器具が使えるかどうかだけ確かめておかなければ。

 木立の間の道を抜け、線路の高架を潜って、公園の出口から住宅街へ続く坂道さえ上ってしまえば、帰宅したも同然だ。何も考えず、ただ家に帰ろうと公園の出口の柵を越えようとした時だった。

 ガン、という音とともに、鼻に強い衝撃を受けた。僕は一瞬のことに戸惑い、何かに強打した鼻を押さえて立ち止まる。

 顔を上げると、目の前には見慣れた服を着た男が柵を越えて、振り返りもせず坂道を上がっていく後ろ姿が見えた。

 ――あれは、……僕か?

 自分の後ろ姿なんて、見るものじゃないと言っていたのは誰だっただろうか。
 それは本当のことなのかもしれない。現に僕は今、目の前にある見慣れた服を着た背中が一歩ずつ坂を上って遠ざかっていくのを信じられない気持ちのまま、呆然と見送っている。

 背中を冷たいものが駆け上がる。

 ――だめだ。早く追いつかないと。

 訳が分からないものの、感じたことのないほどの切迫感が全身を支配していた。痛みが引かないままの鼻を押さえながら、再び僕は坂を上がろうと歩を進める。

 と、今度は踏み出した爪先にガン、と衝撃を受ける。見る限り何もない普段通りの景色に違いないのに、目に見えない固い壁のようなものが、坂を上がる僕の背中と、坂を上がれずそれを見送る僕の間には存在しているようだった。

「おい!」

 早朝だということも忘れて声を出す。今着ているものと同じ、見慣れた上着と擦り切れたジーパンをはいた後ろ姿は振り返ろうとはしない。
 あれは、僕だ。
 ――そう思う半面で、あの後ろ姿は僕ではないと確信する。

 混乱している場合ではない。
 あいつの背中を見失ってしまったら、何か大変な、取り返しのつかないことになってしまう。目の前で何が起こっているのか、訳が分からないながらも、炎のように燃える切実な焦りが、体の全身を支配していることを自覚する。危機感。
 ――いや、これは、恐怖だ。

 その時、ふと、気が付く。

 あの後ろ姿に感じた違和感の正体を。
 そしてあの後ろ姿を見失った後、この坂の下で立ち往生している僕が、どうなってしまうのかということも。

 坂を上がっていく後ろ姿の僕は、左肩に掛けているカメラを持っていない。自分の左脇を見下ろしてみても、肩に感じる重みの通り、やはりカメラは肩から提げられている。

 そのことに気付いて、僕は自分が『この夜の中』に閉じ込められたことを知った。
 あの後ろ姿は、これからの時間を、『これまで通りの僕として』生きていくのだろうということも。

 あの後姿の『僕』は、月曜の朝になればスーツを着て満員電車に乗り、会社に向かうのだろう。深夜まで仕事をして、疲れ果てて何を考える間もなく、自分の一部が抜け落ちたことに気付くこともなく、毎日を過ごしていくのだろう。
 まるで今日までの僕が同じように暮らしていたように。

 カメラという世界を切り取るための武器を持ち、そのことに誇りを持つことで自分を支えていたかつての記憶は、この夜に閉じ込められた僕の中に取り残されてしまったのだ。
 後ろ姿は、これからの時間を『僕』として生きながら、何より大切だと信じた僕が僕である理由ともいえる部分を、これまでの人生で写真に関わった部分を、丸ごと削ぎ落とされている。
 ――あの背中は、僕ではあるが、違う人間だ。

 ただ、日常に押し流されているサラリーマンとして何の疑問もなく生きていく、もはや自分ではない無趣味な男の後ろ姿を、僕はどうすることもできないまま、言葉を失って見送った。

 僕が僕でなくなったことに、気付いてくれる人は、どれほどいるだろう。実家で暮らしていたとしたら、母親くらいは気付いてくれたんだろうか。――そんなことを思い、自嘲のような溜息を吐く。

 空は白んで、周囲は朝の気配に包まれ始めていた。


 ――あの夜の中には、誰かの失いたくなかったものが取り残されている。

 不意に思い浮かんだそんな突飛な考えが、確信に至るまで、たいした時間はかからなかった。

 僕自身の核ともいえる部分が夜の中に取り残されたということは、あの夜の中で見た景色は、それぞれの人生の中で最も大切だったものと過ごす景色だということなのだろう。
 日々積み重ねられていく日常の中で、失われてはいけなかったもの。失いたくなかったもの。

 子供を抱く母親。
 犬を連れた少年。
 絵を描く老人。
 バイオリンを弾く青年。
 談笑する少女たち。
 店番をする老婆。
 手をつなぐ後輩とその恋人。

 夜の中で見かけた幸せそうな満ち足りた人々の姿を一つずつ思い出すごとに、背筋が固く冷たく凍っていくのを感じる。

 ――すべて、現実の世界の中では失われてしまっているものなのだ。

 子供を失った母親。
 犬を失った少年。
 もう絵を描くことの叶わない老人。
 バイオリンを弾くことを止めた青年。
 友達と談笑することが叶わない少女。
 店に立てなくなった老婆。
 恋人と二度と笑いあうことのできない風間。
 不倫の末に職場を追われて、恋人も失った森口さん。
 ――それらが、僕が日々過ごしている昼間の世界の中での、現実なのだろう。

 そして、僕は。この明けゆく景色の中で、坂を上がって家に帰ることのできないで途方に暮れている僕は。

 ――切り取られて、失われてしまった部分、なのだ。

 冷静さを取り戻すにつれ、背中を蝕む悪寒は次第に冷たさを増している。手足に力が入らず、その場に立っているのが精一杯であることを自覚する。

 視線を持ち上げてみると、つい先ほどまで坂を上っていた僕の、厳密にはもはや別人の、背中は視界から消えてしまっていた。絶望、という言葉が不意に湧き出して、全身に重く圧し掛かる。

 ――そうか、これが『絶望』というものか。

 金縛りにでもあっているように動かすことのできない身体に反して、僕の頭は次第に冴えわたってゆく。
 これまでの人生と、これからの人生。僕が別人になってしまったことを気付いてくれるだろう人は、いくら考えても思いつかない。

 これから生活をしてゆくと彼女ができることもあるだろう。
 結婚して子供が生まれることになるのかもしれない。僕は懸命に働いて、家族を愛して良き父であろうとするのかもしれない。
 でもそれは総て、本当に総て、この場に立ち尽くしている僕とは、関係のない人の人生なのだ。

 高く澄んだ声の鳥が、聳える木々の隙間で響いている。これは、耳鳴りなのかもしれない。    

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