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#11 なにが「オワコン」?

教育系twitter?youtube?界隈で、ちょっとした論争が起こっているらしい。(私は流れをよく知らないし、詳しく知りたいとも思わない)
つまり、肯定する側にも、否定する側にも立つつもりはない…というポジションでこれを書く。

※画像のねこ様と本文は一切関係ございません。

何が言いたいかと言うと、世の中には自分の分身とも思える親しみを持てる意見から、自分と全く方向性が異なる意見まで、多種多様な立場からの意見があった方がよい、ということだ。
ものすごく右から、ものすごく左まで。個人に必要な行動とは、その多様な意見の中から自分のポジションを選択するだけのこと。
社会にとっても個人にとっても危険で悲しいこととは、意見を言うことをためらってしまったり封じられてしまったりすることだ。そして「自分の意見はここだ!もう誰にも惑わされない!」と、逆サイドを知ろうとする前に何かに決めてしまうことだ。

この世の中に、唯一絶対の正しさ存在しない。と私は考えている。自分が日々思っている「正しさ」とは、自分の経験や環境から意識的かつ無意識的に自然と作り上げるものだ。社会的に構成されていくものでしかない。
その意見にはまずい作り方もある。それは、自分の手の届く範囲の材料しか検討しないこと。料理にたとえていえば「いつもの」「安い」「すぐに手に入る」ものしか知らず、「高い」「手間がかかる」ものを食べようともせず、自分オリジナルの創作料理を作ろうとすることだ。よりオリジナルな料理を作るには、より多くの材料を選択することから始めた方がいい。

何かの意見を感情的に否定するのは、新たな可能性を潰すことだ。自分と極端に異なる言説を認めないのも、自分の限界を自分で設定し、さらなる可能性を潰すことだ。
今回であれば「それは間違っている」「現場の人の気持ちを考えろ」「言い方が気に食わない」そんな感じで否定から入っている方が、私に言わせれば「終わって」いる。

言い方がキツイとしても、それは普通の言い方では届かなかった声だったからかもしれない。
世の中に時として現れる「キツイ表現」の方法は、相手の感情に訴えて議論を喚起することを目的とする「スペキュラティヴ・デザイン」だとも理解できる。発信者をデザイナーとあえて捉えた場合、自分がその論争に参加してしまった時点で、デザイナーの思惑に乗っかることと同じだ。そして、その結果として自分が見たくない現実を突きつけられて「いやだ!」と叫んでいるのかもしれない。

何度も繰り返すが、議論までの過程はどうであれ「幅広い議論を喚起すること」「自分が信じていたものが揺さぶられること」「当たり前だと思っていたことが崩されそうになること」は、最高に重要だ。
こちらも何度も繰り返すが、自分にとって「居心地の悪い」「気持ち悪い」言説こそが、自分の当たり前を言語化し、自分の可能性を新たな方向に切り開く力がある。

まとめると、賢いやり方というのは、相手の発言を「許可」し、もっと言うと「歓迎」し、その上で自分の考えを「選ぶ」。気持ち悪い言説を最初から封じるのでは無く、一通り聞いた上で選ぶか捨てるかの「選択」をすればいい。片方を選んだからといって、選ばなかった方を潰してはいけない。
今日のお昼をマクドナルドと決めた時に、モスバーガーの存在を頭から否定する人はいない。しかし、言論に関してはモスバーガーを閉店まで追い込もうとする人が多い。
その時の自分なんて、結局は周辺にあるものの寄せ集めであり、その環境から構成されたものでしかない。だから、お昼を選ぶ感覚でその場その場の自分の態度を決めればいい。
もしかすると、夕飯にはモスが食べたくなるかもしれないから、潰しちゃだめ。

(参考文献)
・Dunne, Anthony., Raby, Fiona, and 千葉, 敏生. スペキュラティヴ・デザイン : 問題解決から、問題提起へ。 : 未来を思索するためにデザインができること /. 東京: ビー・エヌ・エヌ新社, 2015. Print.


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