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月仰

 帝國図書館本館
 閉館後、館内点検も終わり、常夜灯のあかりだけがともされている。開館時間中は開放されている閲覧室の入り口は重厚な樫の扉を閉じしばしの眠りにつこうとしていた。新館の閉館時間にはまだ一時間近くあるため、図書館の敷地内にはまだ利用者がいるが、本館には利用者は誰も居ない。居るのは当直の職員と利用者が居ない時間を狙ってやって来る研究棟職員だけだ。
 研究棟と本館の渡り廊下に途中から上がり本館に向かうと職員証で出入り口を開錠し芥川龍之介は本館へ入る。背後でかちりと施錠される音を聞いて大きく息を吐く。中庭で月を見ていた誰かから声を掛けられたように思ったが聞こえなかった振りをして本館に逃げ込んだ。

 ※※※ ※※※ ※※※

―――十三夜に木曜会でお月見をしよう。
 そう芥川に声を掛けてきたのは木曜会の先輩、鈴木三重吉だった。今年の十五夜は残暑が色濃く残る九月でお月見という感慨ではなかったから、十三夜に改めてお月見をしよう。
 丁度週末だしその週の木曜会をずらしてもいいね、と内田百閒も交えて話していたのを、河東碧梧桐が聞きつけ、木曜会と子規門下と合同でとなり、斎藤茂吉が幸田露伴が医務室に鷗外森林太郎を訪ねた時にその話をして、慶應三年生まれ組が参加することになり、そうなると紅葉門下は強制参加、というふうにどんどん参加人数が増えていき、いつの間にか転生文豪全員に十三夜のお月見の話が行き渡った。
 参加人数が増えるにつれ企画した鈴木は唖然とし、むくれ始めた。最初は師である夏目漱石と自分達門下生とで中庭から月を眺めるだけのつもりだった。だのに、転生文豪のほとんどが参加する大きな行事になってしまった。鈴木にしたら大好きな夏目が正岡子規や森、幸田、尾崎紅葉などの他の文豪に取られてしまう思いもあるのだろう。常日頃から「自分は夏目の一番の弟子」であると口癖のように言っていたから。ハロウィンのパーティを計画し始めているフィッツジェラルドに「こんなに大袈裟にするつもりはないのに」とぼやいているのを内田と芥川は聞いた。

 新館の開館時間内なのであまり騒がないように、と特務司書からの注意を受けて、月見酒を楽しみたい連中は裏庭の-利用者が入ってこない-桜の林に陣取っている。木曜会と子規門下は里山の見晴らし台まで上がるという。中庭の池の周辺で利用者に紛れて月を見ていたりする者もいる。
 芥川は師の夏目に従い見晴らし台で月を眺めはじめたが、ふと心に影が差すのを感じた。そこには夏目がいる。正岡子規がいる。子規門下双璧と呼ばれる高浜虚子と河東がいる。正岡の歌人としての系譜を繋ぐ伊藤左千夫、その弟子の斎藤茂吉がいる。木曜会先輩の鈴木と内田がいる。同時期に漱石山房に通った久米正雄、松岡譲がいる。
 みんな、いる。
 そう考えた芥川の心の影がぐんと濃さを増した。同時に彼等と自分との間に一つの線が引かれたように感じた。かくんと膝から力が抜け、崩れ落ちそうになって蹈鞴を踏んだ。ちらりと斎藤がこちらを見たように感じたが、芥川は踏みとどまった。先ほどは感じなかった寒気がする。
―――ここに居たくない……
 尾崎が泉鏡花と徳田秋声、広津和郎を連れて見晴らし台に上がってきたのを機会に夏目に断ってその場を辞した。

 見晴らし台から降りてきた芥川の耳に、桜の林で月見酒をしている文豪達の声が聞こえてきた。ふと見上げると、先ほどは掛かっていた雲が流れ十三夜の月がくっきりと夜空に浮かんでいた。その様はすぐさま自室に戻ろうとしていた芥川を躊躇わせた。一人でいたい、でもこの月は惜しい……。視線を投げてきた太宰治に完璧な作り笑顔●●●●●●●を見せると、酒と月に酔っ払う文豪達の間を縫って本館と研究棟を結ぶ渡り廊下に向かった。

 ※※※ ※※※ ※※※

 案の定、本館の閲覧室には誰も居なかった。かつん、かつんという下駄の音だけ響く中を芥川を本の匂いを堪能しながら歩いていく。メインフロアの書棚は円形にならび外周までなだらかな段を作る。芥川は外周まで来ると-本館の三階に相当する-螺旋階段を上る。フロアを上がる度にメインフロアを見下ろす範囲は狭くなり最上階はメインフロア脇の特定分野の専門書庫の様になっている。ここはかつてあった大学の紀要論文や研究論文を集めたフロアになる。エントランスの真上に当たる本館最上階の収蔵庫に足を踏み入れると、分厚い遮光カーテンで守られているはずのそこに窓の外から煌々と光がさしている。
―――先客がいるのか
 チェツと芥川は心の中で舌打ちをする。同時にこんなところまでやってくる酔狂な文豪は誰だろうという好奇心も頭を擡げる。好奇心が芥川の足を動かし、そっと窓際に近づく。
 芥川の眼に映ったのは、白と黒の対照的な髪色。どちらも月の光をまといぼうと輝いている。芥川はそれぞれの髪色の文豪を思い出す。ここまで見事な黒い髪は見晴らし台を入違った德田とラヴクラフトがいるがラヴクラフトほと髪は長くない。白髪は何人かの名前を思い浮かべたが皆白髪と言うより白に近い灰色で髪はこれ程長くはない。
「……鏡だと……」
「鏡ですか」
「お昼間に、折口先生が」
「…………」
「人の心を映してしまうので。特に満月は一人で見るものではない、と」
「……そうですか。…………私はここで一人で見ることが多いですね」
「…………」
「私の心を映すはずはないのですが……」
 二人の会話が芥川の耳に入る。
「ずっとお一人で……」
「ええ。私自身は明るいとか大きく見えるとか……。美しいと思うようになったのは文豪の皆様と過ごすようになってからですよ。それ以前はただ、月を見ていただけなのです」
「…………」
「私の内の方々が月を見たいと思っているのかもしれません」
 盗み聞きをするつもりは毛ほどもなかったが、会話の内容で芥川はそこにいるのが特務司書と特務司書の輔筆だと分かった。芥川は書棚の影に身を隠すとそっと二人の様子を伺う。二人は嵌め殺しの窓の縁に向かい合って腰を掛け月を見上げながら話をしている。
 別のどこかを探そうと踵を返した芥川の下駄がかつんと書棚を叩く。焦った芥川が二人を見ると、黒い瞳が二対芥川を見つめていた。
「芥川先生……」
 呼び掛けた輔筆がすっと縁を立ち、特務司書の傍に控える。促されたように渋々芥川は二人に歩み寄った。輔筆が譲った場所に腰を下ろす。
「こんばんは。芥川さん。木曜会の方は宜しいのですか」
 日頃の芥川の木曜会への熱の入れ方を知っている特務司書は芥川が一人でいるのを訝しむ。
「うん。なんだか夜風に当たったようで寒気がしてね。失礼して宿舎に帰ったんだけど気のせいだったみたいで……。それで月が惜しくなってね。けど戻るのが照れくさくてここまでやって来たんだ」
 この二人に何の言い訳しているんだと思いながら芥川は一気にしゃべった。輔筆が心配そうにいう。
「体調を崩しやすい時期なので早いうちに森先生に相談されては」
「でも、森さんに相談すると別の事で注意されそうだし」
 そう言って芥川は煙草を吸うふりをする。転生文豪に関する報告書の全てに目を通している特務司書はそれを見て苦笑いをする。特務司書の苦笑いをみて芥川は薄く軽く笑う。特務司書は二、三度瞬きを繰り返し芥川の顔を、全身を見つめる。
「芥川さん、右手を」
 言われた芥川は疑わず右手を差し出す。芥川の右手に特務司書は自分の右手を翳し、撫でるような動きを繰り返す。バチンという大きな音がして輔筆が息を飲み周囲を見回す。芥川の視界がさっと薄紙を剥いだように明瞭になった。特務司書が自分の右手を眺めながら言う。
「芥川さん、侵蝕されていましたね」
 侵蝕、と芥川は目を見開く。
「ええ、侵蝕と言うより負の感情の塊でしたが。芥川さんに由来するものではないので、魂の世界で何処からか紛れ込んだのでしょう」
 芥川は急に煙草をみたくなって、懐に手を差し込む。が、図書館の本館に居ることを思い出し、なにも掴まずに懐から手を出した。
「この侵蝕、いえ負の感情の持ち主は煙草が苦手のようです」
 そういえば、見晴らし台で夏目や久米が煙草をみ出したのを見て一歩身を引いたのを覚えている。すれ違った德田に眉を顰めたのも桜の林を逃げるように去ったのも……煙草のせいなのか。
「魂の世界は繋がっています。文豪だからという事とは関係なくすべての人間が。そして感情はより強い感情に惹きつけられます、正であれ負であれ」
 芥川は疑問を口にしようとして、ちらと輔筆を見た。
「こんな話を彼女に聞かせていいのかい」
 特務司書が傍らの女をちらとみて言った。
「輔筆には全て話すと、隠し事はしないと約束し直しましたから」
 月明かりの中、輔筆の頬が染まるのを見ながら芥川は特務司書に訊いた。
「覚醒ノ指環を手にした僕達は本の外でも侵蝕されるというわけだね」
「負の感情が集まればその可能性はあります。でも、そうならないうちに先ほどの方法で術者アルケミスト達が浄化しますよ」
「君達術者アルケミストはそんなことをして大丈夫なのかい」
「芥川さんもお聞きになっているでしょう。皆様転生文豪が携わる前は術者アルケミストがことばの浄化を担っていたんですよ」
 輔筆がおや、という顔をして特務司書の表情を覗き見る。特務司書は月を見上げたまま話し続ける。
「単純なことばの浄化なら術者アルケミストには容易い。方向を持たない負の感情など恐れるべくもない。真に恐ろしいのは意図を持ったことばのちからだ。破壊の意図を持った」
 特務司書の声音に聞いた事のない男の声が混じり込んでいる。
「対抗するには現実を書き換えるほどの<ことのはのちから>だ。だが誰も、私達ですらその域には達していない。だからその時の最適策を選んだ。芥川龍之介、私達は貴方方文豪の創造の意図を持ったことばのちからを利用させてもらった」
 芥川と輔筆はただ特務司書の言葉を聞いていた。月の明りが三人を囲む沈黙を浮かび上がらせる。
「司書さん……」
 芥川が沈黙に滑り込むように問いかける。
「出来たら、僕に紛れ込んだ負の感情が何か教えてくれないかい」
 夢から覚めたような目をして特務司書は芥川を見る。訊かれた内容を理解したのか自分の右手を見直す。
「孤独と隔絶です」
 そうか、と芥川は呟き自身の右手を見、一度強く握るとゆっくり開いた。
「孤独と隔絶は芥川龍之介を形作るもののひとつでしょう」
 また特務司書の声音に別の誰かが混じる。今度は女性の声に聞こえる。
「それを補修で取り去ることは出来ません。研究棟の術者アルケミストなら浄化することで取り去ることは出来ますが誰も承諾しないでしょう。貴方を一から書き換えることになるから」
 特務司書の黒い瞳が月の光を反射し芥川を見据える。
「貴方の転生が『歯車』からだったことを私達も悔やんでいます。別の作品であれば、と。他の方々も同じです。でも、小説家として寄って立つところが負の感情それであるならば私達が手を出す範囲ではないのです。私達がやって良いのは有碍書の中で受けた傷を由来とする侵蝕の浄化と、魂の世界が負の感情に飲み込まれないようにすること、侵蝕者を生み出さないようにすること。それ以外は貴方方に委ねるほかはありません。」
 特務司書の身体がぐらりと輔筆の方に揺らぐ。慌てて支える輔筆を見上げ芥川を見返した特務司書の瞳に先ほどまでの光はなかった。
「遅くなったね。僕はもう休むよ」
 気遣う輔筆をそれに答える特務司書にそう言うと芥川はその場を離れた。

<了>
 




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