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夢の呼びかけ - 華、蝶々 1


 北村透谷の眠りは浅い。
ふわりふわりと揺蕩う自分とそれを冷静に眺める自分。
二つの自分を行きつ戻りつするうちに朝がやってくる。
どうもすれば、寝床に横になってから覚醒したままでいる心持の朝もある。
それで眠りが足らずに翌日の活動に支障をきたすことはない。
―――これまでは。

 ※※※ ※※※ ※※※

 眠りが浅いことは、特務司書や術者アルケミスト達から説明を受けていた。
今の北村は、島崎藤村が北村透谷の生涯を顕彰し作品に残したこと、転生文豪たちの「北村透谷の記憶」、帝國図書館所有の『文學界』のバックナンバーで存在を確保している。北村の作品は、雑誌『文學界』が侵食され、透谷自身が侵蝕者となり果てた際に自らの手で消滅させてしまった。北村の魂は自分の作品という依り代を失って揺蕩う存在となってしまった。その影響が眠りに現れると。
 自業自得だ、とその話を聞いた時に北村は思った。自分という存在を一度は無に帰そうとした。そしてそれを実行した。その行動の報いであるなら、
仕方があるまい。あの時消したのは自分の作品だけではない。文学に同じ志を抱いた名もなき者。彼らの作品は残っていないが、彼らと同じ扱いを受けるものを生んではいけない、と北村は思う。

「夢見が悪くなることが多いのです、眠りが浅いことよりも、こちらの方が問題だと、私は思います」
 年齢不詳・性別不詳、人にあらざる者と名乗る特務司書が言った。凪いだ海のような表情が曇る。
「耗弱や喪失から補修する際、夢を見ることがありますが……」
 特務司書が続ける。
「うん、知ってる。藤村や花袋君から聞いてる」
 安心させるように答える北村の葡萄色の瞳を覗き込み、特務司書は続ける。
「その夢が、心穏やかになるようなものだけであればいいのですが、そうでない場合もあります」
 そうなのか、と北村は思う。そういえば心かき乱す夢を見て、補修の時間が延長されたことがある、と徳田秋声が言ったことがある。北村は特務司書が言わんとすることを理解した。
「同じことが夜寝るときにも起こるんだね」
「必ずとは言えません。可能性がゼロではないということです」
 北村は黙って、特務司書の瞳を見返した。特務司書が続けて言った。
「医務室の先生方にはお話をしてあります。何かあれば相談に乗っていただけると思います。ただ……」
 何事も穏やかだが言い切る特務司書の言葉が淀んだ。ティータイム休憩に利用しているベランダのガーデンテーブルの上の紅茶カップを取り、冷めた紅茶を口にする。中庭を眺めるように設えた椅子に隣り合って座る特務司書は、友人を気遣う人そのものだ。
 それならば、と北村は思った。
「そう、じゃ、これからのこと森先生に相談に行くよ。今からね」
 特務司書に笑いかけて、お茶請けのクッキーの小箱を手に取った。いってらっしゃいと、中庭に下りた北村を特務司書は見送った。

 ※※※ ※※※ ※※※

 実のところ、北村には"夢"に心当たりがあった。
 このところ同じ夢を見ている。
 女がいる。女は北村のことをよく知っている。
しきりに呼びかけ、何かを頼んでいる。
「〇〇を頼んだ」あるいは「〇〇を探してくれ」と。
女の正体がわからない苛立たしさと"〇〇"がはっきりと聞き取れないもどかしさを感じ始めると夢はふつりと終わる。
ぱちんと音がするように目覚めるのだ。
ただ、今朝に限っては女が最後に言った言葉が耳に残った。
「鷗外森林太郎が知っている」と。

※※※ ※※※ ※※※

 島崎藤村は夢を見た。
 懐かしい夢に、古い古い友人が出てくる。
いや友人と思しき女。
女は島崎に、頼むと言っている。あの子を探して。あの子を見つけて。
あの子ってだれ? 君はだれ? 
女は島崎の問いには答えない。
あの子のことは、森林太郎が知っている。
あの子を探して。あの子を見つけて。
背景に紛れるように女の姿が溶ける。声だけが続く。
あの子を探して。あの子を見つけて。

 曖昧な夢は島崎が文学を本格的に志す直前の頃だった。仙台へ赴任するまでの一時期、透谷の遺文を探して透谷の遺志を継ぐ。そのことだけを目的にした子供の稚戯に付き合ってくれた人。着るものにも困る生活だというのに、訪ねていくと自分たちを歓迎してくれた人。上の世代に認められ、その行く先を誰よりも期待された……
 そうだ、あの夢の中の女は。

 ※※※ ※※※ ※※※

 島崎藤村が珍しいく耗弱を喰らったらしい、と食堂は噂でもちきりだった。早いうちに転生しているので、戦闘の実力も実績も十分な島崎が、侵蝕者の攻撃を受け耗弱状態になって戻ってくることは、最近の潜書では大変珍しいことであった。会派はほかに幸田露伴に志賀直哉、小川未明。弓・鞭・刃・銃一名ずつの基本編成であったが、なぜか島崎が潜書直後から集中して攻撃され、浄化が進まずに撤退してきた。島崎の状態に取り乱した北村透谷が、特務司書よって司書室に隔離されるという騒動があったが、潜書した他の文豪は特に目立った怪我も侵蝕も受けてはいなかった。潜書後の心身検査を受け異常がなかった幸田露伴と志賀直哉が、食堂にたむろする文豪達から質問攻めを受けているところに、昼食を取り逃した田山花袋がやってきた。お~い、花袋。幸田と志賀を囲む輪の中のピンクの髪が花袋を呼んだ。
 図書館内で変事が起きれば、取材に走る二人組の片方が今回の騒動の当事者である。いつもなら、野次馬をさばいて、取材対象に、なぜ?どうして?どんな気持ち?とリズム感よく迫るそのテンポが作れないでいるらしい。
 花袋を取材のヘルプに呼んだのは国木田独歩だった。
昼食は抜きになることを田山は覚悟した。

「女性作家の合本アンソロジー、ですか」
 聞きたいことを聞いて、興味を失った野次馬文豪たちを食堂に残して、幸田と志賀、国木田と田山は談話室に移動してきた。話疲れたであろう幸田と志賀に、松岡譲が煎茶とお茶請けを持ってきた。国木田と田山には珈琲とサンドイッチである。松岡も聞き耳は立てていた。だが、松岡の聞きたいことは野次馬文豪だちとはちょっと違った。
「ああ。『華蝶々』っていうな。だが正式出版されたものじゃなくて、有志が作品をかき集めて作った同人誌、だな」
 志賀が松岡をちらとみて続けた。
「『白樺』とか『新思潮』みたいな、な」
 煎茶碗を茶托に戻して、幸田が言った。
「俺の知った名前もいた。田山、お前の内弟子とかな」
 田山がサンドイッチに噎せるよこで、国木田が聞いた。
「売れ筋を集めた、何かの資金集めの本か」
 田山の背中をさする幸田の替わりに志賀が答えた。
「いや、たぶん違うな。文体とか、話の構成とか、描写とか、いくら明治期の作品とはいえ、拙すぎる。女学生の文集といってもいい。それに」
 志賀は茶請けのおかきをかりりとかみ砕いていった。
「気になるのが侵蝕のされ方なんだ。一つの作品だけ、酷く浸食されていて、作品名も作者名もわからない。作品があるということだけわかる。まるで、レフの『戦争と平和』みたいだ」
 国木田の眉間にしわが寄る。志賀が話をつづけた。
「俺たちが潜書した場所がちょうどその作品のところだった。冊子の中程で、侵蝕者の親玉が待ち構えてやがった。俺が最初に会敵したんだが、俺は無視されて、最後に潜ってきた島崎を狙い撃ちしやがった。島崎の状態確認に、侵蝕されてない領域に下がろうとしたんだが、眷属に退路をふさがれて、それからはさっき話した通り一方的に攻められた」
「それで、司書が強制退却させた、と」
 サンドイッチを珈琲で流し込んだ田山が話をまとめた。
「浄化の計画はどうなっているんでしょうか。雑誌の侵蝕スピードは他の蔵書より早いと聞きましたが」
 幸田の茶を入れなおし、田山の前に水のグラスを置いた松岡が呟いた。
『新思潮』から転生した彼は、『華蝶々』にも作家の魂があるのではと考えているのだろう。
「浄化は当分中断らしい。司書が何かを感じてるらしくってな。島崎から事情を聞くのが先だって言ってたぜ」
「独歩、司書に聞いたのかよ」
「ああ。北村の様子も気になったしな」
 それにあの二人、何か変なんだよなという呟きは、国木田の心の中に
留まった。

 <久方の……>へつづく


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