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『二度目の舟』と『顔のない天才』を読み比べ


本好きとしては、喜ばしい限りのニュースが飛び込んできました。
単行本や文庫本の重版も稀になってきている昨今、雑誌の重版なんて、
祝うしかないじゃないですか。
Twitterでも喜びツイートがいくつも流れてきました。

発売以来、記事や書き下ろしノベライズを賞賛するツイート多数なのですが、そのなかに「『顔のない天才』は読んだ方がいいですか」というものをちらほら見かけます。

『顔のない天才』(以下『顔天』)というのは、書き下ろしノベライズ『二度目の舟』(以下『舟』)の作者・河端ジュン一氏作の『文豪とアルケミスト』ノベライズ第一弾です。登場人物もほぼ同じで、芥川龍之介と久米正雄の関係性の複雑さ(史実でもゲーム内設定でも)を反映させた傑作です。

なので、先のツイートは『顔天』の後日談のような話が『舟』で書かれているのではないかという、疑念で発せられたのではないかと思います。が、『舟』は後日談ではないですし、『顔天』未読でも十分楽しめるお話です。必読、ではありません。
ただ、両方を読み比べると面白いですし、さらに史実を調べるとさらに物語を楽しめます。
たとえば、『顔天』も『舟』も、同じ構造でストーリを組み立ててるよなぁ~とか思ってしまったり、小説が最高のキャラクター紹介になってたり。
文アル沼、一直線です。

お話の流れは、どちらも、
自分の作品が侵食されました
 ↓
侵蝕を抑えようと潜書したら、気になる人の幻影に出会いました
 ↓
不安や恐怖を克服してその幻影と対峙したら、
侵蝕を抑えることができました
 ↓
そして、自分の立ち位置も見つかりました
と、なっています。
でも、内容は正反対です。

まず『顔天』です。
ここでの芥川龍之介の設定は、知識として作家・芥川龍之介であるという自覚はあるが、実感はない、「自分が何者か分かっていない」という不安を抱えています。そんな芥川が自著『地獄変』の侵蝕浄化のため、図書館地下1階にある資料を調べます。一度目は作家・芥川龍之介に関すること、二度目は『地獄変』潜書時に出会った侵蝕者の眷属について。で、その二度とも地地下から地上に上がる階段で芥川は久米に出会います。二度とも久米は地下1階に下りる途中で、芥川は久米を見上げる格好になります。芥川は久米を「青ざめていて」「言葉に気遣いはな」く、「どこまでも僕に厳しく」「けれど突き抜けて優しい」と感じます。

一方『舟』では、
久米正雄は芥川龍之介との才能の違いを気にするあまり、芥川との交流を避け、自己を卑下する言葉や愚痴を周囲にばら撒くというキャラクター設定になってます。自著『競漕』への潜書メンバーに名乗りを上げた菊池寛と堀辰雄、芥川龍之介に「僕なんかのために」と言ってしまう久米は、侵蝕者が起こした嵐に巻き込まれ、一人乗りのボートから振り落とされ川面を漂う「虚構のように美しい」芥川を川辺に助け上げ、焚火を挟んで向かい合って座ります。ここでの芥川は、久米を「じっと」「しっかりと」見つめ、「夜に澄み渡るような、優しい声」で久米の「水分をすべて蒸発させてしまう」ように語ります。

さらには、『顔天』での久米は、前後の発言に一貫性がなく、気を緩めると何の話をしているのか掴みそこねるしやたら否定的なのですが、『舟』での芥川は潜書先の情景描写に始まり、久米の持つ小説論へと話題が移り変わりが、やけに具体的でわかりやすくて肯定的です。

ぐふふ。
ここで「史実を調べよう」です。
一貫性のなさって、芥川龍之介が最晩年に谷崎潤一郎とくり広げた「話の筋」論争がまず思い出されることです。
芥川龍之介の死の年、1927(昭和2)年の『改造』誌上てくり広げられた文学論争は有名ですが、それ以前にもとある議論に触発され自身の小説論といえるものを発表しています。
題名は『「私」小説論』小見』。触発された議論というのは文藝春秋社発行の「文藝講座」に掲載された『「私」小説と「心境」小説』。
著者は久米正雄。
で、久米正雄が書いた『「私」小説と「心境」小説』の要旨を『舟』で芥川が話しているのですね。
『顔天』の場合はちょっと違って、小説家であり続けろと言われるのです。これって「芥川ー谷崎論争」で見え隠れした、自分の過去作へ否定を拒否されることなんですね。
久米が語る芥川への「否定」と芥川が語る久米への「肯定」。
浸食者討伐の過程で、これらの邂逅が、幻であると分かります。この幻の邂逅も『舟』では明記され、『顔天』では曖昧のままにされます。

このほか、侵蝕者と対峙するときの態度や言葉、エンディングの場面や行動、行きついた思考、決意。どれもこれも正反対なのですが、唯一相手に対する距離感だけは同じ心境にたどり着いています。
「彼はあくまで彼のために、動いている。それでも彼は、僕の影として立ち、僕を支えてくれている。きっと僕も、彼にとっては影として存在している。
 それでいい。」(『顔天』)
「どちらが先を行くとか、追い越すとか、そういうことじゃない。彼が進むとき、僕が影で、僕が進むとき、彼が影となる。僕たちは互いに逆へ伸びているけれど、足元だけは同じ地点に立っている。」(『舟』)

先にも書きましたが、『顔のない天才』は『二度目の舟』を読むにあたって必読ではありません。登場人物はほぼ同じですが、連載物ではないのです。
でも、『顔のない天才』を読み、史実を調べ、自分なりに吟味・解釈すると、「文学」という世界に身を躍らせた二人の青年の姿を垣間見ることができます。


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