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崩懐

 夕餉の食休めを終えた佐藤春夫が中庭に出ようとして、森鷗外と鉢合わせした。軍服に白衣姿ではない。淡い梅鼠に松葉の色の図柄と化した鷗が飛ぶ単衣を鴨の羽色の帯が締める和服姿だ。補修室付きの術者アルケミストを引き連れ、裾が割れるのも構わず階段を駆け上がって行った。
「春夫さん」
 夕餉を共にした谷崎潤一郎が後から声を掛ける。ああ、とだけ返事をして佐藤は森の後を追った。谷崎もついてくる。早々に森が消えた医務室の扉の前には堀辰雄と山本有三がいた。二人とも顔色が悪い。
「佐藤さん。と、谷崎さん」
 気づいた堀が声を掛けてきた。心細げに自らの有碍書を抱きしめている。
「何があった」
 佐藤の一言に堀が山本の表情を窺った。腕組みし一点を見つめている山本が答えた。
「菊池が耗弱で帰ってきた」
 そうか、と佐藤は思った。食堂で志賀直哉が、休日に悪い、と前置きを挟んで言ったことを思い出した。
「それで、浄化は出来たのか」
 佐藤の言葉に山本が視線を巡らした。佐藤と谷崎を交互に見る。二人の表情から真意を読み取ったのか、山本が佐藤達に向き直った。口を開きかけたところで後ろから声が掛かった。
「山本さん」
 特務司書が赤朽葉の装幀の本を抱えていた。能面のような表情でこちらを見る。振り返った山本と特務司書の視線がぶつかった。山本が言葉を飲み込む。と、がしゃんという物が倒れる大きな音が医務室から聞こえた。同時に菊池君、菊池先生という声がした。止めろ、抑えろという声が続くと医務室のスライド扉が乱暴に開けられた。いつものジャケットを脱いだ菊池が飛び出してきて、扉の前にいた堀と交錯した。
「菊池っ」
 駆け寄った山本が肩を抑え止めようとしたが、それを振りほどき潜書室に向おうとする。突き飛ばされた堀が、菊池さんと声を掛けながら腰に縋る。
「菊池、落ち着きな」
 抱きかかえるように止める山本の腕の中でもがき、菊池が叫ぶ。
「嫌だ。行かせろ……。またアイツは……。アイツらは…… 」
 医務室から菊池を追いかけて来た術者アルケミストが二人、両側から菊池の腕をとる。補修室から出てきた筆頭補の術者アルケミストが菊池の顔の前で小さな紋様を展開する。がくりと菊池の首が垂れ身体から力が抜けた。
「しばらく拘束を」
 術者アルケミスト達にそれだけ告げると、こちらへと特務司書は佐藤達を司書室へ招き入れた。
 
※※※ ※※※ ※※※

 特務司書の輔筆が紅茶を淹れ、ソファに座る佐藤、谷崎、堀、山本の前に置く。特務司書はその間、自身の執務机で両肘をつき組んだ両手に鼻先を付けて考え事をしている。目線は机の上の赤朽葉の装幀の本にあった。席を外そうとする輔筆を引き留め彼女が自分の席に着く。重苦しい沈黙が続く中、助手の徳田秋声が入室する。
「菊池君は落ち着いたようだよ。今は眠っている」
 堀と山本がほっとしたようにため息をつき、紅茶碗に手を伸ばす。それを見て佐藤も一口啜ると特務司書に尋ねた。
「何があった」
 特務司書は両腕を机の上に置き、姿勢を正すと佐藤に問い直す。
「どこまでご存じですか」
 佐藤は谷崎と顔を見合わせ答えた。
「芥川の本が侵食された、と」
「浄化に手間取っているらしい、と直哉さんから」
 谷崎が続けた。
「志賀さんが……、困ったものです……」
 はあ、とため息をついて特務司書が答えた。
「芥川さんの『あの頃の自分の事』が侵食されました。今朝、里見さんが見つけすぐに浄化に取り掛かりましたが、今は潜書すらできない状態なのです」
 特務司書が話を切って、紅茶を一口啜る。山本が尋ねた。
「潜書できないって、どういうことだい」
「潜書陣が消えてしまうのです」
 特務司書は両手を動かし執務机の上に小さく紋様を展開する。
「術式で展開した陣は、術式の対象に効果が表れないと消えません。」
 特務司書はもう一度紋様の上で手を動かす。机の上の紋様が消えた。
「もしくは、術式を展開した術者アルケミストが自分の意思で消すか」
 特務司書はもう一度机に両肘をついて手を組んだ。
「潜書陣は潜書終了まで消えることはありません。それに術式の性格上消すことが出来ないのです。今回は潜書陣を展開しても潜書の効果がゼロ、もしくは潜書陣を展開して潜書に取り掛かろうとしたところで潜書終了と判断された、ということになります」
 潜書の効果がゼロ、と堀が呟く。特務司書が続ける。
「一度夏目さんが会派メンバーの時に潜書は出来ました。でもすぐに戻されました。押し出された、と夏目さんはおっしゃっていました。正岡さんの提案で、よりも著者の芥川さんに縁の深い方をと、菊池さん、久米さん、松岡さんをお呼びしたのですが……」
 特務司書の視線が赤朽葉の本に向かう。
「志賀さんが芥川さんを連れてこられて、芥川さんも潜書のメンバーに。潜書は出来たのですが、菊池さんが喪失に近い状態で戻られて、その手にはこの本がありました」
 特務司書が机の本を取り上げて佐藤達に見せた。
「それは……。まさか……」
 堀が見るなり腰を上げ言った。特務司書は堀を見て頷いた。
「ええ、芥川さんの有魂書です」
 堀が慌ててソファに座り直す。特務司書が続けた。
「強制帰還を掛けましたが効果がなく、潜書は今も続いています」
「矛盾した状態が続いている、ってことか」
 佐藤の質問に特務司書が頷いた。
「龍之介さん達の様子は」
 谷崎が声を固くして特務司書に問う。
「わかりません。通信も途絶えました。ただ本の中に存在していることは確認しています。」
 再び司書室を沈黙が覆った。

※※※ ※※※ ※※※

 山本は司書室を出ると、医務室に向かった。菊池の様子を確かめておかねば、と半ば義務のように駆り立てるものがあった。堀は有碍書の様子を見ると潜書室に向った。佐藤と谷崎はまだ司書室にいる。医務室の呼び出しベルを鳴らし取次の術者アルケミストに来訪の旨を告げる。医師達からの許可が出たのか、人ひとり分の幅にスライド扉を開けて山本を中へ入れた。
 菊池は患者用のベッドの一番奥に拘束されて寝かされていた。傍には軍服に白衣といういつもの姿の森鷗外がいた。森が山本に近くに来るように目で促す。山本は静かに菊池の傍に寄った。
「少し強めの鎮静剤を使った。朝まで目覚めんだろう」
 魘されているのか菊池の眉間がぴくぴくと動く。山本は懐からハンケチを取り出し、菊池の額の汗をぬぐった。
「君も、眠れないようなら薬を出すが」
 ありがとうございます、と返した時に、急患に駆け付けた森が和服であった理由に思い至った。そうだ、7月は何も芥川だけではない。それにあの話は……。特務司書に伝えなければ……。
「いえ、ワタシは構いません。それより司書に伝えなきゃいけないことを思い出したので失礼します。菊池をお願いします」
 そうか、とだけ軍医は言うと山本を送り出した。

※※※ ※※※ ※※※

 見知った街並み-本郷通りから西へ入る細い道-を久米正雄は歩いていた。東京帝国大学時代に自分が生活をしたのはこの界隈だ。ここを道なりに進むと……。思い出して久米の心は暗く沈んだ。松岡譲の-松岡が出て行った後に久米も移り住んだ下宿がある。当然だ、「あの頃」の事だから。潜書室での空気に呑まれ潜書依頼書にサインしたものの、久米は来なければよかったと思い始めていた。
 自負、野心、羨望、嫉妬、劣等感……、その後の人生で嫌というほど味わうものが既にこの時期にある。なによりも、後悔……。自分が煽らなければ、彼は若くして死ぬことはなかったのではないか。自分が誘わなければ、彼の人生に沈黙を強いる時期を作らなくてもよかったのではないか。
 視線を下ろしかけた久米に建物の影から侵蝕者"纏まらぬ洋墨"が飛び出し襲い掛かる。すんでの所で右手に握った刃で切り裂く。洋墨が血のように飛び散り、刃を握った右手を汚す。久米は足を止めた。このまま松岡の下宿まで向かい、そこに松岡がいたら……。松岡がいたら、自分はどういう態度をとればいいのだろう……。
 そこまで考えて、久米は気づく。人通りがない。これまで潜書では、登場人物として名前が与えられていない存在はすべて文字に置き換わる。大学の近辺なのに学生-という文字-が行き交う様子がない。あらためて久米は周りを見回した。動いている者は久米だけ。先ほど切り伏せた侵蝕者は洋墨となって空に昇って行った。
 久米は松岡の下宿に向かった走り出した。

※※※ ※※※ ※※※

 特務司書の輔筆は特務司書からの依頼を遂行していた。今は深夜に近い時間だったが、半ば自主的に。今日の出来事は彼女の理解の範疇外だったが、今やっていることは出来事の解決に必要だと思って、ほぼ直感で。今司書室の一角で仮眠を取っている特務司書の為に、約束したから。
「そろそろ、休みなよ」
 隣にいた德田が彼女に声を掛ける。
「德田先生は」
 彼女は見た目が自分と違わない年頃の"はじまりの文豪"に問い返す。
「僕はもう少し残るよ。まだ誰か来そうだし」
 徳田が指さす先には、本館にある芥川、菊池、久米、松岡の著作や全集が積まれていた。佐藤達への説明が終わり一旦解散となった後、館長がやって来た。館長への報告の途中に山本が一人司書室に戻って来た。山本のアドバイスに従って館長と山本と一緒に本館から著作や全集を集めた。文学の知識に乏しい自分だけなら探しきれなかったろう。それらを司書室に届けると、館長も山本も頼むと言い残してそれぞれ帰っていった。
「わたしももう少しだけ。司書と約束しましたから」
 約束って、と問う德田に彼女は含羞で返した。これは特務司書とのふたりだけの秘密だった。
 コンコンコンとノック音がした。空いてるよ、と德田が答える。内開きの扉を開けたのは、織田作之助と檀一雄だった。檀は深めの手提げ盆を持っていた。
「お、德田センセと輔筆ふでちゃん。徹夜ですかいな」
「夜食を作って来て正解だな」
 檀が二人に手提げ盆の中身を見せ、断りなく応接セットのテーブルに中身を広げた。氷を敷いたガラス鉢に白いつやつやの饂飩が収まっている。蕎麦猪口が二つ。大きめの蕎麦徳利からは出汁の良い香りがする。薬味は定番の青葱に下した土生姜に晒茗荷、大根おろしと和えた刻み胡瓜には梅酢が掛かっている。椎茸と昆布の佃煮にからりと素揚げした茄子も添えられていた。輔筆のお腹がくうと鳴った。
「遠慮なく、喰ってくれ」
 徳田が苦笑しながら答える。
「ありがとう。で、何が訊きたいの」
 織田と檀が顔を合わせた。
「ケッケッケ。德田センセはお見通しやなぁ」
「太宰の大騒ぎの詫びも兼ねてだが、教えてくれるかな、德田さん」
「国木田と島崎に突撃されるよりはましだよ」  
 はじまりの文豪はため息をついて言った。

※※※ ※※※ ※※※

 懐かしい街並みを松岡譲は歩いていた。右に東京帝国大学の赤門、本郷通りを一高の方面に進むと大学の正門が見える。正門の停車場に近い道を西へ折れると久米の下宿が……。当然だ、「あの頃」の事だから。他の皆はどうしたろう。
 松岡達は潜書するなり侵蝕者達に囲まれた。"不調の獣"と"纏まらぬ洋墨"が数えられない程の群れとなって4人を襲った。対応が遅れた4人は目の前に入れ替わり立ち代わり現れる侵蝕者を討伐するのが精一杯だった。気が付くと皆と逸れ一人になっていた。
 大学の近辺というのに学生の姿がない。姿とはいうが、本の中では「学生」という文字が行き交うのだが。動いているのは松岡と時おり現れる侵蝕者だけだった。今も建物の中から"不調の獣"が一匹転がり出てきた。この建物は古本屋。松岡も久米も芥川も手元の本をよく買い取ってもらった。現れる侵蝕者を討伐しながら歩き続けると、正門前の停車場に来た。西に折れる角で松岡は足を止めた。
 特務司書は30分と言った。潜書後30分経ったら強制的に帰還させると。松岡の体感では優に30分を超えていた。潜書前に渡された通信機に呼び掛けて見たが返答がない。見上げた空には立ち昇る文字が墨溜を作っている。改めて松岡は周囲を見渡した。皆と合流しなくては。松岡は久米の下宿への道を再び歩き出した。

※※※ ※※※ ※※※
 
「それで、様子見ってことか」
 檀が食べ終わった食器を手提げ盆に戻しながら訊いた。
「僕もここで聴いた事だけだから詳しくは分からない。今は24時間体制で術者アルケミスト達が監視している」
 徳田が答える。輔筆は彼らの会話を遮らないように努力した。
「変化が起これば報告が来ます。それも目当てにしていらっしゃったんでしょう」
 司書室の一角から声がした。皆が振り向くと身支度を整えた特務司書が立っていた。あ、司書の、と思った輔筆が赤面する。そんな彼女に織田が声を掛ける。
「あ、輔筆ふでちゃん、特務司書おっしょはんやったら大丈夫やから。で、なんか対策ありますのん」
 特務司書は執務机の上の本の山を指さす。
「これから探します。それよりも……」
 特務司書の漆黒の瞳が冷たく光った。先読みをした檀が答える。
「リークはほとんど志賀さんからだ。あの人のことだから悪意はない。精神安定組はほとんど知ってると思う」
 織田が続けた。
「ま、太宰クンが騒いだから、浄化が上手いこといってへんのは皆知ってるんとちゃうかな」
 徳田が付け加える。
「1か月休暇の国木田が飛び込んで来ないから、それほど大事だと思われてないのかも」
 3人の文豪の言葉を聞いて特務司書は立ったまま考え込んだ。ややあって織田と檀に向かって言った。
「織田さんと檀さんにお願いしたいのですが、精神安定組の皆さんに緊急潜書の依頼が入る可能性をそれとなく伝えていただけませんか。グループ関係なく」
 特務司書は執務机の椅子に座りながらぼつりと言い足した。
「私も芥川さんと菊池さんの同時補修はやりたくありませんから」

※※※ ※※※ ※※※

 本郷通りを松岡は走る。久米の宮裏の下宿には誰もいなかった。文字であらわされる「人」でさえも。思い出に引きずられて根津権現裏の下宿にも行ってみたがここにも誰もいなかった。がっかりして一高の正門を見ながら弥生町までとぼとぼと引き返して思い出した。これは「第四次」の前の話だ。それに、具体的な場所の描写はもう一つ、いやもう二つある。そのうちの一つ-当時自分が住んでいた下宿-へと松岡は急いだ。本郷通りを春日通に向かって走る。菊坂へ入る道の一つ手前の細い道に人影を見つけた。
「久米っ」
 真っ青な顔をした久米がふらふらと本郷通りに出てきた。久米は松岡に気づかず本郷三丁目の停車場に向かって歩いていく。
「久米っ、こっちです」
 もう一度松岡が久米に向かって叫ぶ。と、周囲の風景がぐにゃりと歪んだ。松岡が両脚に力を入れて踏ん張る。四方が侵蝕者が出す青黒い靄に包まれた。足元に久米が四つん這いで蹲る。目の前にぼんやりと市電の停車場が浮かび上がった。学生服に角帽を被った男が背を向けて立っていた。松岡の有魂書が発光する。目の前の男が侵蝕者であると有魂書が判断した。ゆっくりと刃に変わる。
「芥川……くん」
 久米が呻くように呟く。停車場の男がゆっくりとこちらを向いた。松岡が息をのむ。そこにいたのは大学時代の芥川龍之介だった。芥川の周りを侵蝕者の黒い炎が包む。
「松岡、か」
 感情を排した声が届く。瞳の青は何処までも透明で氷の冷たさを湛えている。刃を握る松岡の腕が震えた。その震えが全身に広がった。松岡は目の前の男が学生時代の芥川であり同時に転生した芥川であることを理解した。
「ねえ、松岡。君は考えたことはないかい。もし『第四次新思潮』を出さなかったら、って」
 蹲る久米の肩がピクリと震える。
「なぜ僕にそんなことを訊くのです」
「なぜって。君は越後の哲学者だろう。考えないかい。『第四次新思潮』が出なければ、別の、もっと楽な●●人生が送れたんじゃないかって」
 松岡は右手の刃を握り直した。震えは治まらない。氷青の瞳は焦点が合っていないにもかかわらず松岡と久米を見逃さない。
「ねえ、松岡。それに久米も。考えたことはないかい」
 停車場の男は侵蝕者の焔を纏ったまま近づいて来た。青黒い靄が更に濃く、松岡達を包んだ。

<還懐>へ続く



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