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還懐

 佐藤春夫はやきもきした日々を過ごしていた。
 芥川龍之介の『あの頃の自分の事』の浄化が進んでいない-この事実は瞬く間に文豪たちの知るところになった。自分が、と潜書に名乗りを上げる者達もいた-佐藤もその一人だ-がすべて特務司書が却下した。潜書業務担当の文豪達から洩れてくる話では特務司書は潜書に立ち会わずに司書室に籠りきりだという。食堂で特務司書の輔筆を掴まえて、一体何をしているんだと詰問したら、特務司書は芥川らの本を読んでいるという。
 籠りきりというのは太宰治もそうで、こちらは芥川の本の浄化業務に名乗りを上げた際、潜書どころが潜書陣も展開できなかったのだという。
「芥川先生に嫌われてしまった、と思い込んでいるんだと思います」
 太宰の面倒を頼みっぱなしにしている無頼派の面々が口を揃えて言う。
先月は大きな騒動がなかったのにこの始末である。夏休み間近で、児童・生徒、子どもたちの利用も増えてきた本館のレファレンスサービスで佐藤は渋面を隠し切れずにいる。
 そんな佐藤の所へ本館の受付を束ねる館長直属の主任司書がやって来た。柳田國男を連れている。隣りの里見弴に黙礼すると佐藤のシャツの袖を引っ張ってバックヤードへ連れて行こうとする。佐藤のいた場所に柳田が収まった。
彼は周囲に誰もいないことを確認して佐藤に言った。
「すぐに潜書室へ。特務司書がお呼びです」

※※※ ※※※ ※※※

 佐藤が研究棟の2階に上がると、潜書室の前にいた術者アルケミストが音もなくスライド扉を開けた。入ると、丸机を囲んで特務司書、菊池寛、山本有三、谷崎潤一郎、堀辰雄、室生犀星がいた。谷崎が手招きをして佐藤を呼ぶ。佐藤は谷崎の横に並んだ。菊池の顔が青い。おまけに特務司書の目の下にうっすらと隈が浮かんでいる。扉で佐藤を迎えた術者アルケミストが入室し扉を閉めた。特務司書が抱えていた白い本を丸机の上に置いた。
「今からこちらの白い本に潜書していただきます」
 佐藤が顔を顰める。芥川の本の浄化が終わっていないのに白い本の潜書だと。佐藤は特務司書を睨みつけた。
「これは、『あの頃の自分の事』発表時の状態を作った白い本です」
 発表時、と堀が呟く。
「雑誌に載ったときは7章あった」
 菊池が白い本を見つめたまま言った。
「俺の『恩讐の彼方に』が載った『中央公論』だ。覚えてる」
 特務司書が続けた。
「この白い本をブリッジにして侵蝕されている『あの頃の自分の事』の世界に入ってください」
「そんなことが出来るのか。第一、芥川が書いた白い本ではないだろう」
 室生が尋ねる。特務司書が室生を見る。
「ええ。先の潜書で菊池さんが持ち帰った芥川さんの有魂書を元に作りました。作品の世界は大正4年の東京。これに変わりはありません。それに」
 特務司書は丸机の上の本を取って背表紙を指さした。
「侵蝕され始めています」
 背表紙にはインクを落としたような染みがあった。菊池と特務司書の目が合った。
「俺は行く。司書、依頼書を出せ」
 菊池がジャケットの内ポケットに手を突っ込んだ。菊池の肩を叩きながら山本が言った。
「付き合うよ、菊池。アンタもアタシも芥川達とは一蓮托生さ」
 ふふふっ、谷崎が笑う。
「では私も。後輩の不品行を正すのは先輩の役目ですからね」
 佐藤と室生と目が合った。堀が縋るように佐藤を見る。
「春夫、頼めるか」
「佐藤さん、お願いします」
 特務司書は黙って潜書依頼書を差し出した。

※※※ ※※※ ※※※

 白い本『あの頃の自分の事』の世界に潜書の途中、菊池は昨夜の特務司書の話を思い返していた。
 森鷗外と斎藤茂吉が自室に下がった後、特務司書が菊池のいる医務室にやって来た。当直の術者アルケミストに耳打ちをすると、彼は紋様を展開し下がっていった。紋様はすぐに消えた。
「芥川さんの本に潜書する方法を一つ考え付きました」
 前置き無く特務司書が話し出した。菊池はベッドの上に起き上がると先を促した。
「『あの頃の自分の事』をもう一冊作ります。そこから作品世界に潜書して浄化する」
「一つの作品で一冊しか有魂書は作れないんじゃなかったか」
 菊池は知識を探りながら訊き返す。
「通常は。しかしこの作品では話が違ってきます。この方法が取れるとすれば井伏さんの『山椒魚』でしょうか」
「どういうことだ」
 ご存じかだと思いますが、と前置きして特務司書は話し出す。
「『あの頃の自分の事』は単行本収録の際に雑誌発表時から削除された章があります。それ以後出版されているものは削除後の作品で、全集でのみ削除された部分が別扱いで掲載されています」
 確かに、最初の『芥川龍之介全集』での取り扱いがそうだった。以後の全集はそれを踏襲している。特務司書が続けた。
「『あの頃の自分の事』の発表時の形で白い本を作ります」
「…………作家の魂はどうする。龍が書いたのでなければ白い本も龍の有魂書にはならないはずだ」
 特務司書が菊池の眼をじっと見る。
「菊池さんが持ち帰られた芥川さんの有魂書を使います」
 菊池が息をのむ。
「あの有魂書の中に、芥川さんの覚醒の指環がありました。芥川さんは覚醒の指環を有魂書に隠して貴方に託したのではないですか」
 菊池は俯いた。ぎりりっと奥歯を噛み締める。
 あの時、『あの頃の自分の事』に潜書して直後、侵蝕者の群に囲まれた。体勢を崩した菊池は人型をした侵蝕者に襲われた。菊池と侵蝕者の間に割って入ったのが芥川だった。
「寛っ」
 芥川が何かを自分に押し付けたことは分かった。侵蝕者に切り付けられた芥川が倒れるのが見えた。久米と松岡も侵蝕者に囲まれ戦っていた。芥川を切りつけた侵蝕者が菊池の腹を蹴り飛ばした。いけないっ、という特務司書の声が遠くで聞こえた。菊池の身体が後ろに引かれるのと侵蝕者が菊池を切りつけるのが同時だった。侵蝕者は学生時代の芥川の姿をしていた。
「………… 出来るのか」
 特務司書の問いかけに答えず、菊池が訊き返した。
「白い本ですから潜書は出来ます。そこから先は分かりません」
 菊池は顔を上げ特務司書を睨みつけた。特務司書の漆黒と菊池の紅玉がぶつかる。
「そんな……。………そんな不確実なことに龍の魂を使うのかっ」
 立ち上がろうとした菊池は特務司書に肩を抑えられた。漆黒に冬の冷気が乗った。
「作品世界に入る方法を考えました。このままでは『あの頃の自分の事』は確実に消えてしまいます。それに」
 声を潜めて特務司書が言った。
「『鼻』が侵食され始めています」
 押されるまま菊池はベッドの上に座り直した。
「『手巾』も同じように」
 特務司書が菊池の肩を右手で掴んだまま続けた。
「芥川龍之介作品が消えるのも時間の問題となってしまうでしょう」
 ベッドに座り直した菊池は両手で顔を覆う。消えてしまう……。龍の……。
 ただ……、と珍しく特務司書が言い淀んだ。
「私一人では判断が出来ませんでした。輔筆が菊池さんに相談しろ、と」
 菊池は特務司書を見上げた。困惑の色があった。一瞬かっと上った熱が引いていく。今までの特務司書なら躊躇うことなく白い本を作って潜書依頼を出していただろう。
「わかった。だが、俺が会派筆頭で潜書する。会派のメンバーは俺が指定する。それが条件だ」
 特務司書の漆黒が広がった。菊池に深く一礼する。
「ありがとうございます。では今から取り掛かります」
 それだけ言うと特務司書は戻っていった。帰り際、ぱちりと指を鳴らすとしゃらんと小さな音が鳴り、白い粒子が散って消えた。

※※※ ※※※ ※※※

 「菊池」
 山本が菊池の肩を小突く。菊池は周りを見回した。特務司書に言われた通り、削除された第7章、菊池への手紙の部分に潜書していた。
「狙ったところに潜書できるとはな」
 周りを伺いながら佐藤が言う。周辺に侵蝕者はいない。
「念のために、得物は準備しておきましょう。それにしても」
 ふふふ、と笑いながら谷崎は続ける。
「龍之介さんも相変わらず、ふふ、可愛らしいですね」
 と、菊池を流し見る。
「アンタ、手紙を残さなかったからねぇ」
 山本が笑いながら言った。菊池が苦笑いし、言った。
「とりあえず、潜書は出来た。ここから重複している章へ移動してくれということだ」
 一歩踏み出した皆の表情が強張った。風景が一変する。周囲がぐにゃりと歪み、青黒い靄が立ち込める。手にした得物についっと光が流れ消える。武器に変わった有魂書が侵蝕者の気配を捉えた。靄の中から声が聞こえた。
「ねえ、君は考えたことがないかい。寛。もし『第四次新思潮』を出さなかったらって」
 靄が滲ませた灯りの影に学生服に角帽の芥川が立っていた。

※※※ ※※※ ※※※

 型通りの潜書開始の宣告が終わり、菊池、山本、佐藤、谷崎が潜書した。特務司書は侵蝕されている『あの頃の自分の事』を取り出し、白い本の上に重ねた。白い本は有碍書に飲み込まれるように消えた。ほっと特務司書が小さく息を吐いた。堀には安堵のため息のように見えた。
 筆頭補の術者アルケミストが二人、特務司書と同じように潜書陣の縁に両手指を添える。筆頭術者アルケミストが椅子を持ち出し、特務司書たちがそれに腰掛ける。室生が思わず声を出しかけた。しいっと筆頭術者アルケミストが制して言った。
「長丁場になりそうです」

※※※ ※※※ ※※※

 現れた侵蝕者=芥川龍之介は青い瞳をぎらつかせて、重ねて菊池に聞く。
「ねえ、『第四次新思潮』を出さなかったら。君なら京都で友人をこさえることも出来ただろう。孤独な思いをすることはなかったんだ」
 転生した芥川の青い瞳が菊池からすぐそばの靄の塊に移る。塊は少しずつ輪郭を取り始め、頭を抱えて座り込んだ久米と久米を庇うように片膝をついて抱きかかえる松岡に変わった。
「彼らのようにさ、考えることはないかい」
「芥川っ」
 山本が叫ぶなり駆け出した。芥川の姿をした侵蝕者は倦んだように右手を一振りした。びしりと山本の足元に亀裂が生れた。
「貴方には訊いてないよ、山本さん。春夫に谷崎君も。君たちに用はない。向こうへ行ってくれ」
 侵蝕者が言い終わると同時に亀裂が大きく広がり、菊池と山本たちの間に青黒い靄が立ちふさがった。靄の向こうで戦いが始まる音がした。侵蝕者は片頬を上げ冷たい笑いを靄の向こうに向けた。菊池はそろそろと松岡達に近づいた。菊池がそばに立つのを松岡が気づいた。
「寛……」
 菊池を見上げ擦れた声で呼びかける。
「何があった」
 侵蝕者から目を離さずに菊池は聞いた。
「攻撃されたというわけではないのです。ただ……」
 松岡が全てを言わずとも菊池は理解した。侵蝕者=芥川龍之介と対面したとたん、いやこの空間に足を踏み入れた瞬間から菊池の内側から湧き上がるものがあった。
「後悔、か……」
 言葉にしたとたん、頭の上から大きな力が押し寄せた。菊池はふんばってそれに抗った。額を地面に擦り付けるほど蹲った久米がぶつぶつ呟くのが聞こえた。
「ぼく……が……。誘わ、なけれ、ば……。煽ら、なければ……。僕が……」
「久米っ」
 菊池の一喝に、久米は首をあげた。焦点のあっていない竜胆の紫が菊池に向けられた。菊池の背中に冷たい汗が流れた。
「きく……ち……」
 それだけ呟くとまた久米は頭を抱えしくしくと泣き出した。氷青がそんな彼らを見つめる。
「答えてくれないか、寛」
 感情のない声で侵蝕者は菊池に再び問いかける。
「……それが、侵蝕の理由か」
 怒りで掠れた声で菊池は訊き返した。それに答えずに侵蝕者は言った。
「『第四次新思潮』を出さなければ、成瀬だってニューヨークで苦しい生活をしないですんだ」
 うぐっと松岡が呻いた。成瀬正一が留学した後の『第四次新思潮』は松岡が発行人だった。留学後も成瀬は『第四次新思潮』の発行を心待ちにしていた。発行費用の半分近くを成瀬が持った。
 後悔はある。いや、後悔しかない。足元に蜷局を巻いた鞭の重みで菊池の心が沈んでいく。泣き声の合間に、僕が……という久米の呟きが繰り返される。青黒い靄が濃く深くなっていく。侵蝕者=芥川龍之介だけが侵蝕者の黒い炎に包まれて超然と立ち続けている。
「僕は『鼻』を書かなければどんな人生を送っていただろう。先に書いたのは『羅生門』だったかな。この大正4年を違った風に過ごしていたらどうなってただろう。ねえ、寛、松岡、久米。僕達、あんなに苦しむことはなかったと思わないかい」
 ゆらり、と侵蝕者が菊池達に近づいて来た。この、と久米を指さす。
「久米のようにコンプレックスに悩むこともなくなるんじゃないか」
 それに、と松岡も指さす。
「松岡の様に世間から悪し様に言われることも」
 侵蝕者は誘うように菊池達に笑い掛ける。冷たい笑顔で。立ち上がろうとした松岡が躓いて、菊池の鞭に手をぶつけ、じゃりっと音がした。はっとした菊池が鞭の柄を握り直す。その間も侵蝕者は無防備なまま菊池達に近づいてくる。
「そうだな……。後悔なんざ、何度でもしたさ」
 言うなり、菊池は鞭先の刃を握って侵蝕者に突き出した。カチンという固い音がして菊池の刃先は弾かれる。芥川の刃を構えた侵蝕者が菊池の鼻先に得物を突き出す。
「後悔しても、改めはしないかい、寛」
 氷青に黒が混じりだす。透明な青が見る間に淀んた青に変わった。
「侵蝕は、改めることではないぞ」
 刃先を手繰り寄せながら菊池は答える。ふん、と侵蝕者が鼻先で笑った。
「そう。だったら、消えて」

※※※ ※※※ ※※※

 椅子に座った特務司書の身体が右に大きく傾げる。間髪を入れず筆頭術者アルケミストが傍による。
「代わりましょう、特務司書」
 筆頭術者アルケミストの提案に特務司書は首を振る。
「もう少しで浄化できます。それよりも」
 特務司書が室生と堀を見る。筆頭術者アルケミストは頷いて、術者アルケミストの一人を呼ぶ。
「室生先生と堀先生を外へ」
 ひくひくと鼻を動かした室生が答える。先ほどから茉莉花とも百合とも梔子ともつかない香りが漂い始めていた。
「俺達は司書室にいる。何かあったら知らせてくれ」
 いくぞ、と堀に言うと室生は扉に向かった。術者アルケミストが慌てて先回りして扉を開ける。
「大丈夫。松岡さんが頑張ってくれてますから」
 室生たちが退室する直前、そう言う特務司書の声が聞こえた。

※※※ ※※※ ※※※

 芥川のものとは思えない冷たい響きが菊池の耳に届く。俺を切るのか、龍……。生前の端正な顔立ちに転生後の空色の瞳をはめ込んだ侵蝕者=芥川龍之介が芥川の刃を振り下ろす。知らず瞼を閉じた菊池の身体に刃が突き刺さる痛みは感じない。それよりも右側からなにか大きな力で突き飛ばされた。どさりと菊池の身体が倒れる音と、がりりという金属が触れ合う音が同時に聞こえる。尻もちをついた菊池が見上げた先には侵蝕者の刃を自身の刃で受け止めた松岡がいた。
「邪魔をするのかい、松岡。それとも君が先に消えたいのかい」
 侵蝕者の瞳には芥川の空色の透明さはなかった。青黒い瞳が松岡をねめつける。じりじりと押されながら松岡が答えた。
「僕は消えたくありません。いや誰も消えてほしくない。菊池も、久米も、貴方もです、芥川」
「ふん、いつもの理想主義だね、越後の哲学者君」
 松岡が押し返した。そのはずみで鍔迫り合いが解けた。侵蝕者も松岡も刃を構え直した。菊池は松岡の邪魔にならないよう、久米をひっぱり後ろに下がる。松岡がちらりと菊池達を見た。
「ええ、漱石先生にそのように評されましたね。考えに考えました。生前も転生してからも」
「それで、答えは何だい。哲学者君」
 侵蝕者をひたと見据えて、松岡は言った。
「『あの頃の自分の事』は消させません」
 侵蝕者の瞳がすうと細くなった。侵蝕者が打ち込む。松岡が受ける。カチン、カチンと刃がぶつかる音がした。その度に火花が散った。泣き疲れて眠り込んだ久米を守って、菊池は松岡の戦いを見守る。
「僕にも、久米にも、菊池にも、君にも、きっと成瀬にも、後悔はある」
 打ち合いながら松岡が言った。
「今考えると、後悔しかないのかもしれない」
 侵蝕者は無言で刃を振う。
「『第四次新思潮』は歪な雑誌だ。漱石先生に見せるためだけに創った。僕と君と久米のエゴイズムで」
 侵蝕者の眼がギラリと光る。
「成瀬と寛はそのエゴイズムに巻き込まれた被害者だ」
 ぐうと唸った侵蝕者が刃を突き出す。寸での所で松岡が交わす。
「エゴイズムが生み出した雑誌から君と菊池と久米が文壇に飛び出した」
 ううと唸った菊池の背後からぱたぱたと足音が聞こえた。振り向くと山本、佐藤、谷崎がこちらに向かって走っていた。洋墨で汚れてはいたものの怪我はしていないようだった。
「譲……」
「これは……」
「……龍之介、さん」
 山本たちは息をのんだ。彼らにも侵蝕者が芥川の姿を擬しているのが分かった。侵蝕者=芥川龍之介が右手を一閃し、山本たちの前に侵蝕者の群が現れる。久米は目覚めない。
「菊池、アンタは久米を守りな」
 そう言うと山本は菊池と侵蝕者の群の間に立つ。佐藤と谷崎がそれに続く。たちまち戦闘が開始された。3人の間をすり抜ける侵蝕者を菊池は鞭先の刃で討伐する。その間も侵蝕者=芥川龍之介と松岡が打ち合っていた。
「漱石先生が亡くなって、事件が起きた。そして僕は親友を傷つけた」
 "不調の獣"を切り捨てた山本が顔を顰める。悪夢にうなされたかのように久米がうぅと呻いた。
「そのために、僕は10年沈黙した」
 松岡が振り下ろした刃を受けて侵蝕者が言った。
「その10年、悔しくはないのかい」
 浸食者はぐりぐりと受けた刃を押し返した。ずりずりと下がりかけた松岡が歯を剥いて侵蝕者を押し返した。そして、吠えた。
「悔しくないわけないだろう」
 鍔迫り合いをはねのけて、侵蝕者との間を取った松岡が息を整え刃を構え直そうとした。その一瞬の隙を侵蝕者は見逃さない。間に合わない。松岡の右脇腹に侵蝕者の持つ芥川の刃が突き刺さる。そのまま体重をかけて刃を突き通す。ぐほっと松岡が息を漏らす。額がぶつかる距離まで近づくと侵蝕者は松岡を見下ろして言った。
「その悔しさをここで消してあげるよ」
 ぜいぜいと息を吐きながら、松岡は侵蝕者をねめあげる。そして言った。
「悔しさだけじゃない」
「何だと」
 侵蝕者が慌てたように松岡を見る。
「悔しさだけじゃない。あの10年で僕は、小さいころからの念願を、エゴイズムを達成した。名前を選んで、実家から、生家の寺から自由になれた」
 侵蝕者を突き飛ばして、松岡は強引に身体から芥川の刃を抜いた。返しのついた刃が松岡の身体を容赦なく抉った。
「だから、僕はあの10年を後悔しないし、『第四次新思潮』を出したことも後悔しない」
 言いながら松岡は刃で狙いを定め、侵蝕者に突進する。
「『あの頃』をなかったことにはさせない」
 松岡の刃が侵蝕者の胸に突き刺さる。勢いのまま深く突き立った刃は芥川から侵蝕者を押し出した。芥川の胸元に飛び込む形になった松岡が宥めるように言った。
「だから、認めろ、アクタ。自分の後悔も、エゴイズムも、何もかも」
 芥川から押し出された侵蝕者が侵蝕者の群と一緒にしゅるしゅると消えていく。同時に青黒い靄が晴れ、周りは本郷三丁目の交差点に変わった。
 浄化完了と特務司書の声が響くと7人が光に包まれる。光が解けると潜書室にいた。
「本当に、君にはかなわないよ。松岡」
 芥川が松岡に囁いた。

<創懐>へつづく







 

 

 
 
 


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