ゲハルト・リヒター

20221209@豊田市美術館

写真を基にして描き写すことで、主観的判断を出来るだけ働かせずに描かれるフォトペインティングという手法を用いた作品。絵画を否定することで却って絵画性が強調される結果をもたらす。それはリヒターは「純粋なイメージに接近することができる」と言う。

グレイ•ペインティングの手法で描かれた、無を示すのに最適だという灰色で塗りつぶされた作品群。さまざまな筆致で描き分けることで有と無の境目を見定めようとしている。無の概念についてジョンケージ語った「私には何も言うことがない。だからそのことを言う。」という言葉に影響されているそう。

書き手としての責任の所在をぼかすように、絵画と写真・有と無の境目を見定めようとしたこれらの作品が特に印象的だった。
何も写し込まれていないフィルムのようなものという、ガラスを使った作品にも通ずるものがあり、現実や社会の中で、作家としての存在意義を確認するかのような表現。

「ビルケナウ」の展示としては、写真と抽象絵画がグレーの鏡に映るように配置されており、リヒターの哲学を象徴するようで示唆的だった。過去と現在という次元も感じられた。
リヒターは明確な目的意識や計画性があって創作を行っているのかと思えば、必ずしもそうでもないようだった。この「ビルケナウ」は当初、アウシュビッツ収容所の残虐な写真をフォトペインティングの手法で描いたものの、途中で具象を描くことを放棄し、抽象的な表現へとして仕上げた。しばしばこのような方向修正をするのは、ネガティブさを新たな創造へと昇華させることでもあると捉えられている。
現に、これが結果的に本人の達成点・転換点となったというので、大胆な方向修正を行うことも恐れないで良いのだと感じた。

アブストラクトペインティングは偶然性に頼った作品だが、こちらに関してはいまいちピンと来なかったのが正直なところ。コンセプチュアルに攻める作品と比較して、創作の過程が楽しめる感覚はなんとなく想像できるんだけれど…。
書き手の責任を手放す点では前述の他の作品とも通じるとも言えるけど、即興的要素が強いものはあまり好みではないのかもしれない。
アルミ版に描かれたものは地の素材が所々顕になっており、キャンバスに描かれたものと比較して、どこか異質な存在感を感じた。

5×5のパネルの組み合わせで様々な展示方法があるというカラーチャートについては、偶然性を含みながらも、フレキシブルな機能性の部分に少しワクワクさせられた。
こちらはかなりポップアートな印象を受けるから、「こうあるべき」という自分の中のハードルがかなり下がっているからのようにも感じる

その他の印象としては、一般的に人間の感覚や言葉に当てはめがちな”自然”に対してのリヒターの観念には驚いた。風景画のキャプションにあった『自然は(中略)我々とは完全に反対のものである。絶対に非人間的です。』という内容。
そのキャプションが付された「ヴァルトハウス」は、他の風景画や人物画にも共通するピントのぼけた柔らかい画風が故に、やはり人間的な優しさみたいな印象受けてしまったが、そういった感覚に対する否定とも受け取れた。

関連して、「不法に占拠された家」は一見美しくもある風景画の印象。実際にはそこは不法滞在者の住む家だそうで、一つの情報を与えられることで鑑賞者の感覚を否定するよう。


「グールドの演奏するゴルドベルク変奏曲を長らく聴いているとその完璧さにだんだん腹が立ってくる」という、レコードにペインティングした作品があるそうで、そこは実に人間的だとは感じた(笑)

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