【アオバ】


白いシャツが風に膨らんで、袖の方から抜けていくのが気持ちいい。
ブレーキで微調整しながら、下り坂を勢いよく下っていくのはまさに爽快だ。風を切っていく。
あれだけ満開だった桜も、いつの間にか葉桜へと変わっていた。
僕は、青々と瑞々しい葉桜の方が好きだ。
淡いピンク色の桜も“春”を盛大に彩ってくれているのは間違いないのだけど。

土曜日の午前授業を終えた帰り道
下り坂に沿って植えられている桜の木を眺めながら、そんなことを思っていた。


昼休みを知らせるチャイムが鳴り、それぞれの自由時間が流れはじめる。
僕はいつも小説を読んでいる。主に恋愛小説。
ブックカバーをつけているから、周りからは何の本を読んでいるか分からないだろう。

「文くん、いつも何の本を読んでるの?」

突然の聞き慣れない声に
僕はとっさに本を机の下に隠した。
声をかけてきたのは、渚沙ちゃんだった。

とっさに隠した僕を見て、ますます興味を持ったような目で僕を見ている。

「ファ、ファンタジー小説だよ」

「ファンタジー小説って、そんなに隠すような本だっけ?魔法とか出てくるような内容じゃないの?」

「いや、集中してたからびっくりしちゃって」

「ふ〜ん。まっ、いいけど」

渚沙ちゃんはクラスの中心にいる女子の1人だ。
教室の隅っこにいる、所謂冴えない男子に属する僕に話しかけてくるなんて、遠巻きに様子を見ている女子のグループの罰ゲームか何かで、僕に話しかけてくる。という罰を与えられたに違いない。渚沙ちゃんは僕に話しかけた後、そのグループと笑いあっている。

“渚沙ちゃん”なんて、心の中でしか呼べない。
1年の時も同じクラスだったけど、冴えない男子とクラスの中心人物という関係性は変わってない。
心の中でも、僕ごときが“渚沙ちゃん”と呼んでいること自体、おこがましいとさえ思っている。

それからというもの、度々“渚沙ちゃん”は
僕に話しかけてくるようになった。

遠巻きに様子を見ている女子のグループはいない。何で?という疑問しか浮かばない僕は、渚沙ちゃんには申し訳ないと思いつつも疑わざるを得なかった。


雨のち曇りの中途半端な天気が続き
今にも降り出しそうで降りきらない空を、帰りのホームルーム中に窓際の席から眺めていた。
時々、胸の奥を締めつけられる感覚に襲われていた。これは何なのだろう?と、ぼんやり考えることがしばしばあった。

ホームルームが終わり
机の中の教科書をカバンに入れてる時だった。

「文くん、眼鏡外してみてよ」
渚沙ちゃんだ。こうやって話しかけてくる。
渚沙ちゃんに話しかけられるたびに、遠巻きに女子グループがいないか確認していた。
すでに帰ったのか、今日もいなかった。

「眼鏡をかけている人に眼鏡を外してって言うのは、裸になるのと一緒なんだよ」

「全く一緒じゃない気がするんだけど?」

「それは田畑さんが眼鏡をかけてないから言えるんだよ」

「んー。じゃあ、眼鏡外して?」

「今の僕の話し聞いてた?」

渚沙ちゃんは笑いながら、“また明日ね”って
少し手を振って教室から出て行った。

こうやってからかわれてもいい。
胸の奥を締めつけている正体が誰なのかを、僕は次第に気づいていた。
“また明日ね”って、渚沙ちゃんが手を振る。
ありふれた明日という未来が繋がったまま、僕を待っている。

風が、白いシャツを膨らませるように
僕の心も少しずつ膨らんでいるのを感じていた。


冴えない眼鏡男子とクラスの中心人物。
釣り合うことのない天秤が、何故か水平に保たれている。
教室という名の宇宙の隅っこで、ポツンと浮いている僕に渚沙ちゃんは声をかけてくれる。

このままではいけないと僕は思いはじめていた。周りから“ブン”と呼ばれている僕を、
唯一本名の“ふみ”と呼んでくれるのは渚沙ちゃんだけだった。
渚沙ちゃんへの想いは日に日に大きくなっている。いつか、この想いという魔球を、正しくないフォームでも僕は投げ込みたい。
未だに少しは疑っているけれど勝負したい。
僕は初めて、恋愛小説の主人公のように恋をしていた。


僕は眼鏡からコンタクトに変えてみた。
イメージチェンジにしては、ものすごくベタかも知れない。だけど、最初から思いっきり全てを変えるほど、僕には勇気がなかった。
それと、眼鏡が煩わしいと思う時が度々あり、いつかはコンタクトにしたいという思いはあった。
手始めにはちょうどいい。
渚沙ちゃんが僕を変えていく。
まるで、自分が恋愛小説の主人公にでもなったかのようだった。たかだか、眼鏡からコンタクトに変えただけなのに、世界がカラフルになっていく。大袈裟かも知れないが、本当にそうなのだから仕方ない。

「あー!素っ裸!いきなりどうしたの?」
渚沙ちゃんは指をさしながら僕にそう言ってきた。

「気分転換しようと思って」
苦し紛れにそう言いながら
クイッと眼鏡を持ち上げる仕草が自然と出てしまった。

「眼鏡かけてないのに!」
渚沙ちゃんが笑っている。

「裸になるのと一緒なんだよって言ってたのに。文くんて面白いね」

「僕は今、裸で生きてるんだよ」

「全く分かんないんだけど」

渚沙ちゃんとこうして普通に話せているのは、やっぱりどこかおかしいと思う。
渚沙ちゃんが、度々話しかけてきてくれていたから、話せるようになったんだけど。
“ファ、ファンタジー小説だよ”って、ドギマギしていたあの時の自分を思うと、いかにも女の子慣れしていないのを全面に出していたようで恥ずかしい。
本来なら、瑞々しい気持ちで楽しいはずなのに、まだまだグラグラと揺れている頼りない世界に、僕は踏ん張って立っているようだった。


僕は眉毛を整えた。
ちょっとずつ新しく生まれ変わっていく自分が、自分じゃないように思えていた。
誰かを好きにならなければ、僕はずっと変わらないままだっただろう。冴えないことには変わりないかも知れないが、以前よりは確実に変わっていることは、気持ちの面においても確かだった。
高校2年の17歳男子が出来る変化は、眼鏡をコンタクトに変えること、眉毛を整えること、あとはきっと髪型くらいだろう。多分、これで十分だ。

髪型を変えるというのは一番勇気がいる。
髪型をイジってもらえるならまだしも、冴えない男子が誰にも触れられないというのは地獄そのものだ。

だけど今なら…淡い期待が胸を染める。


「文くん、最近雰囲気変わったね」
渚沙ちゃんがいつものように話しかけてきた。

「そうかな?自分じゃ分かんないや」

「うん、絶対変わった!いい感じ!」

「ありがとう」
思わずニヤけてしまう。慌てて下に俯く。

「ねぇ、今日一緒に帰らない?」

「えっ…」
何を言われたのか一瞬分からなかった。
言葉があとから追いついてくる。

「用事があったら大丈夫だけど」

「ううん、何もないから大丈夫!」

「じゃあ、正門で待ってるね!」

また罰ゲームか何かなんだろうか。
いや、でも、もう違うということに僕は気づいていた。ずっと、もう何日も遠巻きの女子グループはいない。

渚沙ちゃんに言えないでいるこの気持ちは
渚沙ちゃんに伝えたい気持ちでもある。
僕には全くタイミングが分からなかった。
僕が読んでいるのは恋愛小説で、恋愛に関するマニュアル本ではない。こんな時、読んできた主人公はどうしていたんだろう。
そんなことばかり考えていたら、帰りのホームルームが終わっていた。


カラカラと乾いた音を立てながら、渚沙ちゃんと並んで自転車を押していた。
傍から見たら恋人同士に見えているんだろうか。

渚沙ちゃんは自分自身のことを話しはじめた。

「文くんを見てると、中学の頃の私を思い出すんだ。文くんみたいに教室の隅っこで、本ばっかり読んでた。勝手に親近感を感じてたんだよね。2年生の時に親が離婚して、お母さんと2人暮らしになった。名字が青葉から田畑に変わった時、いじめが始まった。毎日泣いてたな。今じゃ考えられないでしょ!泣いてたけど、私は負けたくなかった。何でだろう。今まで誰にも言えなかったのに、文くんには普通に話せちゃった」

そう言って渚沙ちゃんは悲しげに笑った。

僕は何て言っていいのか分からなかった。
ただ、このタイミングではないことだけは、確実に分かった。

「話してくれてありがとう。田畑さんにそんな過去があったなんて想像も出来なかった。話してみないと分からないもんだね。人は、勝手にその人のイメージを作り上げてしまうものなんだよ。見たまま、感じたままで判断してしまう。だから、こうやって深いところを知ると、もっと話したくなったり知りたくなったりする。」

「文くん、いつも読んでる本はホントにファンタジーなの?そういう難しい本なんじゃないの?」
渚沙ちゃんは疑いの目を向けている。

「これは、僕が思っていることを話しただけ。実際に、僕は田畑さんがいじめられていたなんて、微塵にも思ったことがないよ。いつもクラスの中心にいて、明るくて誰とでも仲良く話しをしている。ずっとそのままで来たんだろうなって思ってたから、そのイメージだったよ。でも今、それが覆された。正直びっくりしてる。…僕はもっと、田畑さんと話しがしたい」

ついて出た言葉に自分でもびっくりした。
だけど、もう戻すことは出来ない。

「なるほどね。確かにそうかも知れない。私も、文くんとこうやって話しをして、文くんて意外と面白い人なんだなっていうのが分かった!言葉に説得力があるし、ちょっとユーモアなところもあるんだなって。話してみないと分かんないことだらけだね、お互いに」

それと、私もまだまだ文くんと話しがしたい!って笑ってみせた。
じゃあまた月曜日にって、手を振って別れた。


僕は、高揚感が心の底から湧き上がってくるのを感じていた。嬉しさが胸いっぱいに広がっていく。

渚沙ちゃんと少しずつでも距離を縮められるなら、遠回りでもいい。
僕たちはお互いに話しがしたいという意思疎通が出来た。
明日は久しぶりに晴れるらしい。
さっき別れたばかりなのに、もう会いたくなっている。
意味もなく、会いたいと思った時に会える関係性になれたら…

僕は小・中と、今とほとんど変わりない部類に属していた。小学校の時は、ただの本好きな子で通ることが出来た。中学では図書委員としての活動もあり、小学校と同じで本が好きな奴で通ることが出来た。

しかし、現在の高校生活で本ばっかり読んでる奴は、ただの根暗にしか見られない。
小・中で出来上がってしまった姿を、大胆に変えるようなことは到底無理だった。

許され続けてきた幼かった日々を思い出し
本が好きだったから渚沙ちゃんとの共通点が生まれたんだと、馳せる思いに自転車を飛ばして帰った。


渚沙ちゃんのことを何も知らないまま
この恋をどこまで進められただろうか。
渚沙ちゃんが僕に過去のことを話してくれたのは、まぐれに近いことだ。
決して普通ではない。親が離婚したこと、いじめられていたこと、こんなことは誰にでも話せる内容ではない。だけど、単なる気まぐれで、ただどうも思ってない人には話せたんじゃないかと、弱気な思いが胸をつついた。

僕が渚沙ちゃんの過去を知ってしまったことには変わりない。
渚沙ちゃんの過去を少しでも救うことが出来たら…
心が、だんだんと優しさに包まれていく。
僕の日々に渚沙ちゃんが消えることはなかった。
渚沙ちゃんだけで続いている明日があった。


僕はとうとう、ごくごく普通の髪型から
後ろを刈り上げた髪型にした。
全て、渚沙ちゃんが僕を変えてくれた。

「文くん!?」
渚沙ちゃんが驚いていた。

「一瞬、誰か分からなかった!転校生かと思っちゃった」

「似合ってるかな?」

「うん!すごく似合ってる!」

あの時の淡い期待が色づいていく。

「よかった。思いきったから似合ってなかったらどうしようと思った」

「遅咲きのデビューだね」
渚沙ちゃんは笑っていた。

そうかも知れない。
渚沙ちゃんは早々とデビューに成功していた。
中学時代のいじめを克服して、強く明るく。

僕は、恐る恐るのデビューを遂げた。
どれもこれも渚沙ちゃんのおかげだ。

こんな普通の会話で、渚沙ちゃんの過去を飛ばしてあげることは出来ない。
塗りつぶしてあげるには、もっと特別な何かが必要なんだろうと思う。

でも、僕の日々に渚沙ちゃんがいるように
渚沙ちゃんの日々にも僕がいてくれたら
それだけで続く明日があったなら、悲しい過去も薄まっていくんじゃないだろうか。

人は、悲しい経験をしたほどよく笑う。
寂しさの裏返しが反射的に出るらしい。

渚沙ちゃんはいつも笑っている。
それは、あの過去があったからだろう。

僕は、そんな渚沙ちゃんのそばにいたい。
いつか、正しさを覚えたフォームで、とっておきの魔球を投げ込んでみせよう。


どこまでも青く続く、頼りない世界の上で。