天使に粗相はできかねる 第五話「羽根の痕」

ワンピースの裾をつまんでふわりと一回転。
体が軽くいられるように、神様に羽を預けてきたのだという。

「直接は見ない方がいいですよ、
 目が潰れてしまいますから。」

向かい合っていた天使の少女は少年の両手をすくうように持ち上げ、
そのまま天使の少女の腰を包むようにみちびいた。花の匂いがする。

少年の手を持っていた少女はするりと腕を抜いて、少年を抱きしめた。
久しぶりに会えた家族への抱擁のような、柔らかで暖かな心地がする。

「ほら、こうすれば、傷を見ることなく確かめることができますから」
「う、うん」

天使の少女の背に、案内人の少年の指が触れる。
指先の感覚だけで、天使の少女の背骨のかたちが見えた気がした。

案内人の少年はとまどいながら、遠慮がちに、
柔らかな布越しの天使の少女の傷跡を撫でた。
正直なところ、服の上からなど分からなかった。

天使の少女が何も言わないし、案内人の少年から何かを尋ねようにも、
なぜだか気恥ずかしくてことばが出てこなかった。
ただ病人の背中をさするように、しばらくそうしていた。

「痛い?」

空気に耐えきれずに案内人の少年が尋ねると、
天使の少女ははくすぐったそうに笑った。

「痛くはないです、傷跡には触れていないので」
「ちょっと。それじゃ意味ないじゃん」
「そうですね、それだと意味がないです」

天使の少女がくすくす笑う。
その声を聞くと少年はなぜだか、ひどくほっとする。
けっきょく意味なく背中をさすっただけになったのだが、
少年がそれに気づくまで、声をかけなかったらしい。
要はからかわれていたのだが、怒る気にはならず、
つられて少年も小さく笑い出していた。

そうやって少年が気を抜いたほんの一瞬のうちに、
天使の少女は案内人の少年の柔らかな手をまるでダンスに誘うように、
自らの背へと導いて、そのままシャツのなかにするりと滑りこませた。

「ここですね」
「あ…」

すこしへこんで、周りの皮膚とは違うつるりとした感触。
人間の傷痕も、深くて古いものはこんなふうになったはずだ。
からだは十分治したけれど、それ以上きれいには治らない傷。
それが、両肩の下にひとつずつあった。
ちょうど翼が生えていただろう場所に。

「…ほんとに、傷痕がある」

ちいさく驚いた案内人の少年が
傷をなぞるように指を滑らせた瞬間、
ぴく、と天使の少女が身をすくめる。

「ごめん、痛かった?」
「いえ、」

案内人の少年は、天使の少女の温かい体を感じながら、
柔らかな手で天使の少女の傷跡を撫でていた。
もとの体温が高いのか、疲れが出たのか、熱っぽい。
天使の少女がだまっていたので、少年もそうした。

静かにしているのに冷静になれない心地は、
どこか少年をそわそわさせていた。

街の外から得体の知れない少女を、
おとなにも臆せず交渉を持ちかける少女を、
少年はどこか非現実的な生き物に見えていた。
けれど今はただの、年相応の女の子に見える。
人間のかたちに収まっているからだろうか。

案内人の少年は初めのうちは緊張していたものの、
次第に猫を撫でているときのような気分になって、
先ほどまでの緊張が柔らかな熱と肌の匂いで溶けていくようで
うとうとと眠たくなってくる。

眠ってはいけないし、眠るべきではないとわかっているのに、
身体のなかみが温い泥のように重たく沈んでいく心地がした。
抗えないほどの眠気が、夜の帷のように少年に降りてくる。
それは、穏やかなな死のような心地であったはずだ。
夢に、彼の過去という悪夢を連れてさえこなければ。

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