まちがい(3)
自分の心臓は、意外にも穏やかだった。
「鈴木さん、ちょっと眠いって言ったじゃん。寝る前は風呂入るでしょ?」
佐藤さん、敬語外れてる。私の方が先輩だよ。
「それは、そのあと“寝よう”って意味?」
「そういう意味」
ここまで来ても、自分の心臓は穏やかだった。なんとなく予想していた展開なのと、アルコールのせいか。本当に眠いからか。気がつけば佐藤さんのジョッキは空で、なすもきゅうりも無くなっていた。
私のジョッキに半分以上も残るのは、ジャスミンハイだけ?掴まれてる腕が重たい。
「……コレ、飲んでからでいい?」
「飲める?オレ飲もうか?」
「飲まないとムリっしょ」
「いいけど“寝ちゃわ”ないでね?」
ジョッキの中身で喉元まで出かかっていた言葉を飲み込む。あー、あ。
掴まれていた腕が離された。向こうに見えるしたり顔が悔しくて、なすをつまんでいた指を、挑発的に舐めた。会計を済ませて、店を出る。
階段、気をつけて。
そんなに酔ってないよ。
ウソだね。
ウソだよ。
階段を降りると肩を抱かれた。くちびるが触れたので、応えた。
わかってんじゃん。
子どもじゃないもの。
鈴木さんかわいいから、やりたいなって思ってた。
可愛いだなんて光栄。
そうなってもいいから来たんでしょ?
ご想像におまかせ~。
軽口を叩く。そうでもしておかないと、何かに飲み込まれそう。みんなと別れた時は涼しかったのに、今はそんなに涼しくない。お酒のせいか、それとも。
駅前に人はほとんどいなかった。それでも街灯は明るかった。視界が白ばむ。香水のにおいにくらくらする。佐藤め、帰り際に付け直したな。私も付け足したけど。白もミュージシャンもいなくて、彼の楽器がギターなのかキーボードなのかは確かめられなかった。自分の手を見る。乾燥で白くなった手で、ネイルなんてしてない。白くもなく、たおやかでもなく。はは。
すずらん。根には毒があるんだっけ。ヨウシヤマゴボウはたしか実に毒があるんだよね。
ねぇ、さっきあそこにいた路上ミュージシャン覚えてる?
腰に手を回して、足がもつれる。肩で支えられる。意外と力強いんだなー。こんな風に歩くのは何年ぶりかなー。
覚えてない。鈴木さんの顔ばっか見てた。
なにそれ。うそばっかり。
ウソ。どうしたら来てくれるか考えてた。
素直か。
顔を上げると、くちびるが触れた。息がかかる。
ベンチのサラリーマンがこちらを見ている。もうどうでもいい。何かが溶けた。白に潰れて見えなくなった。白い街灯。白い指。女の手、男の足、白い喉元、知らない香水。白い歌、知らない声。知らない…。
これはなんの間違い?