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LADY BABY BLUE - 私はもっと幸せになっていいはず -


もし今私が自殺をしても、誰もその理由は分からないと思う。

だって、普通の家庭に生まれ、それなりに友達もいて、勉強も人並みにできて、性的マイノリティーでもないし、「街録チャンネル」に出ている人たちみたいな、壮絶な人生を歩んできた訳ではないから。

だから、私はどこにでもいるごく普通の人、のはずなんだ、、、

なのに、とても辛くなって死にたくなる時がある。

これは、そんな夜に、助けを求めてどこかの誰かへ宛てて書いた手紙です。


アナタへ

こんばんは。


私は母に支配されていると感じます。
自分はアダルトチルドレンだと感じます。
アダルトチルドレンについて調べれば調べるほど、自分が機能不全家庭で育ってきたと言うことを認識させられます。

思い返せば、いつからか生きづらさを感じてました。

この前、何も悪いことなんて起こってないのにその1日に満足できてない自分を感じて、じゃあどうなったら幸せなのか、満足できるのかと考えても答えが出ませんでした。

私は子供を産みたくないと考えます。
それはなぜかと言えば、子供を産むことは自分の業であり、それによって子供を産んで子供に辛い人生が待っている、辛い思いを経験するようなことをして欲しくないからです。

子供の人生に対して、人1人をこの生き地獄に産み落とすことに対して、自分は責任を持っているが故の考えだと思っています。
だから自分が自分の人生を、この世界を、素晴らしいものだと思えるようにならない限りは少なくとも子供は欲しくないです。
子供に申し訳ないからです。

あと、結婚にも夢なんか持ってません。
人に期待もしてません。
人を信用もしてません。

ママが私を支配しようとしてくるのです。
というか支配されてると思います。
手中から逃れられてないことは実感しているのですが、自分でもどうすれば良いのか分からないという坩堝の中にいます。

たぶんママ自身がアダルトチルドレンなのです。
ママの幼い頃の話しを聞く限り、彼女は親から充分な愛を得られなかったことに未だに恨みを持っているようなのです。

お母さんから、「あんたが産まれてきたからお父さんが死んだのよ」と言われたということに、恨みを持っているようなのです。

自分は愛されなかったと今でも嘆いてくるのです。

そんな経緯があるからなのか、ママは必要以上に誰かに必要とされていたかったのだと思います。

だから子供の私がその奴隷に、気づかずになってしまっていたのだと思います。

つまり、ママの中には不安定さが大いにあります。そんな不安定なママに育てられれば、そりゃ私も不安定になりますよね笑笑

私の家庭はほぼ片親状態でした。
パパはずっと家に帰ってきませんでした。
物心ついた時から、私にとってパパはたまに家に帰ってくる人でした。

私には兄がいます。
兄はきっとアスペルガー症候群なのだと思います。兄も不安定な人でした。
兄は私が自我を持つようになった時から、私をいじめるようになりました。
そうです。物心ついた時から私は兄にいじめられてきました。
自分が思い通りにならないと弱い者に当たる兄の性格は、成人してもとうとう治りませんでした。

だから幼少期も、私は兄からの理不尽ないじめに苦しめられました。
私には知恵がなかったので、泣いて叫んで助けを求めるしかありませんでした。

私は、自分が可愛く見られるような立ち回りをして泣いていたのではありませんでした。
本当に嫌なことをされていたので、泣いて母に助けを求めていたのでした。

兄は大体、母が見ていないところで私をいじめてきました。
だから、私は泣きながら母に助けを求めました。
でも、そのいじめの現場を母は見ていないので、母の前に現れるのはすでに泣いた状態の私でした。

私はことの経緯を子供ながらに必死に説明し、兄の非道さを訴え、対応してもらおうとずっと頑張ってました。でもそれは最後まで叶いませんでした。

なぜなら、何回も何回もくる日もくる日も私はいじめられ、その数だけ私は泣いていたからです。

つまり私が泣いていることが日常と化したのです。ウチはほぼ片親。しかも母はパートの仕事もして子供の世話もして家事もこなしていました。

不安定な母親です。余裕がないのも大いに理解ができます。

なので、泣いて訴えても私の訴えは一切届かず、いつものことだ、と切り捨てられるようになりました。
あげく、被害を受けて泣いている私が、「うるさい」と悪者になることさえ数多くありました。

いつの日でしょうか、私が小学生一年生くらいの時です。

いつものように兄にいじめられ泣いていたときに
「まことはどうせ泣けばなんとかなると思ってるんでしょ」と母と兄に吐き捨てられたことがあったのを私は覚えています。

私にとってはそれはとても辛い言葉でした。

私が小2になって母方の実家へに引っ越しました。
鍵っ子だった兄のためだそうです。

母方の実家に住んでいた時代は、おじちゃん(実家暮らしの母の弟)に嫌がらせをされて本気で嫌だと訴えてたのに誰も取り扱ってくれなかったことを覚えています。

分かりますよ。今思えば、当時20歳くらいだったおじちゃんからしたら小2年の女の子はとてもかわいいから、からかっていたことくらい。
だけど私は本気で嫌でした。でも誰も取り扱ってくれませんでした。

そして小4の時に母方の実家を出て別の場所へ引っ越しっました。
家を建てる間、家族でレオパレスに一時的に住んでいました。
その期間、今思えば結構辛かったなー笑笑なんて思います。

まずそもそも、学校と習い事に馴染めないという外での苦しみがありました。
でもそれだけじゃなく、その時期、というか母方の実家に住んでいる期間の後半くらいから、兄の私に対するいじめがとてもひどくなったのです。

私が小4で兄が中1。まず常に兄に頭を叩かれるのです。本当にいつもいつもいつも叩かれるのです。やめてと言っても、もちろんやめてくれません。
きっと兄も環境の変化に馴染めなかったからなのでしょう。
その皺寄せが弱者の私にまわってきた。ただそれだけのことです。

くる日もくる日も頭を叩かれ、母に訴えても、取り扱ってくれるのは十回に一回程度です。 どうしてでしょうね。

きっと兄と比べると総合的に要領が良かったが故に、悲しきかな、心配されなかったのでしょうね。

その時期、私の頭はパキパキと変な骨の音がしていました。
兄に頭を叩かれるようになってからのことです。
なので私はとても不安でした。
頭の骨がどこか砕けてるんじゃないかと思うくらい、それくらい毎日叩かれていました。
でもそれを母に伝えても取り扱ってもらえませんでした。

ある時私は兄のイライラをぶつけられる形で頭を踏みつけられました。
その時は流石に取り扱ってもらえましたが、逆にそこまでされないと私の苦しみは取り扱ってもらえなかったのです。

いつからなんでしょうね。
私が本音を人に見せなくなったのは。
人を信じられなくなったのは。

私も私で環境の変化に馴染めなかった時に、家でもいじめられて、当時の私の居場所はどこだったんでしょうね。それでも私はまだ兄を諦めてはなかったのです。どんだけ良い子で純粋で無垢なんでしょうね。純粋すぎて可哀想にすら見えてきます。

家が建ちました。私は鍵っ子になりました。

兄と同じ時期に鍵っ子を始め、私のために引っ越すようなことはなかったですね、そう考えると不平等ですね。

はい、兄の嫌がらせは続きます、てか、20歳で私が兄と縁を切るまで、兄を許すことをやめるまで、兄を諦めるまで、私が兄弟関係を終わらせるまで兄の嫌がらせは普通に続きます。

この時期から兄と母の壮絶な喧嘩が日常と化します。
特に兄が高校受験を意識しだすようになる時期から、兄と母の壮絶な喧嘩がさらに壮絶になるようになりました。

くる日もくる日も母と兄が喧嘩してます。テレビの音なんか一切聞こえなくなるようなほど大きなギャンギャンした声がくる日もくる日も続きました。

最初の方は私もケンカの仲裁に入ってました。
でも、私が仲裁に入っても今度は私がうるさいと2人から責められる、そんな日々を繰り返すうちに仲裁に入ることをやめるようになりました。

あ、そうだ。この時期に私学校で結構な裏切りに合ったんです。
まぁ、これは自分が悪いことをしてしまったんですけど。
1軍に入りたいけど2軍だった当時小学5年生の私は、1軍の子たちと交換ノートをすることになったんです。

だから1軍女子に気に入られたくて、わざと1軍女子が陰で悪口を言ってた子の悪口をその交換ノートに書いたんです。

浅はかだった私は、1軍の子に共感してもらえて、認めてもらえて、仲良くなれるかなと思ったんです。でもそれが悲惨な結果を招きました。

その私の悪口が、被害者の女の子にちゃんと伝わっただけでなく、教室のみんながいる前で、晒されたのです。

「どうしてこんな酷いこと書くの?」って、公衆の面前で怒られたのです。
はい、クラスの注目を、あびますよね、悪い意味で。

それで、何が怖いって1軍の、陰でその子の悪口を1番言ってた子が私に対して皆んなが見ている前でみんなに聞こえるようにお説教してきたのです。しかも、泣きながら。

なんか、その時の感情はみんなの前で醜態を晒されて恥ずかしいってことよりも、目の前で繰り広げられている圧倒的な「偽善」と「裏切り」に絶望してました。

まぁ、私が悪いんんですけどね。今となっては本当に反省してますし、被害者の女の子にもちゃんと謝りました。

こんなことがあった日も私は家で平然としてました。
何事もなかったようにしてました。
常に母と兄が喧嘩をしている家庭の中に私が弱みを見せられる人はいませんでした。

そんな当時小5年の私にとって、「テレビ」を見ることが、唯一心の拠り所であり、居場所でした。

相変わらず兄と母の喧嘩は日に日にエスカレートしていき、私は仲裁に入るというよりも、1階のリビングにあるテレビが見たかったので、うるさいから喧嘩するなら2回でしてと訴えるようになりました。

2人がうるさい声で喧嘩してるので、うるさい声で訴えました。
結局私がうるさい、部外者は黙ってろと2人から責められるのがオチでした。

母も兄も気付いていないと思うけど私はとても辛かった。
テレビが居場所だった当時の私にとって、テレビが見れないことは本当にみんなが思ってるよりももっと辛いことでした。

テレビという居場所すらもなくなった私を責め、自分たちのことで精一杯な母と兄。

そしてとうとう私は何も言わなくなりました。
1階のリビングでうるさい声で喧嘩する2人。
その中で私はテレビを見るようになりました。
もちろん、テレビの音量を上げたら2人に責められ、怒られるし、2人がうるさいからだよって言っても、2人は私の発言に聞く耳を持たないので、通常の音量でテレビを見ていました。

喧嘩をする2人の騒音の中、私はただテレビで流れる映像を、喧嘩がおさまるまで見ていました。別の日も2人は喧嘩をしていました。私は大好きなテレビを諦めてただ流れる映像を見ていました。

でもその日はさらに喧嘩がエスカレートして、母が1人で実家にに帰ると言い出したのです。でも私はテレビを見ていました。
そしたら何故か突然母の怒りの矢が私に飛んできたのです。
「そうやってテレビ見てればいいじゃん。どうせまこともママなんていらないんでしょ」と言われたのです。理不尽以外の何者でもありません。

私は喧嘩に参加すらしていないのに母に敵意を向けられたのでした。
でも、私は家でのバランサーでした。
なので母を宥め、その喧嘩を落着させました。

誰も私の気持ちは考えてなんかくれませんでした。

そんな時期のことです。
このウチの状況をちょっとだけ知ってる友人のお母さんの車に乗っていた時のことです。私は後ろの席に乗っていました。
友人のお母さんに「まことちゃんも色々大変でしょ〜」と言われました。

その一言に「はい〜笑笑」と答えたのですが、抑圧していた感情が溢れ、静かに涙が頬をつたいました。
泣く気なんてさらさらなかったし、泣いてるのがバレたくなかったので窓の外を必死に眺めて顔が見られないようにしながら、そのまま会話を続けましたが、涙が流れ続けました。

友人のお母さんもそのまま会話を続けてくれましたが、後から聞いた話によると私が泣いていたことに気づいていたようです。私の強がりに気づかないふりをしてくれた優しさに感謝です。

私が中学に入るようになり、兄が高校生になると部活で忙しくなった兄は家にいることも減り、その生活に充実していたのか、母と兄の喧嘩は減りました。
私も部活や学校で忙しくなったので、日常的な家での嫌なことは減りました。

だけど今までのことが積み重なって私の心が誰にも見えない形で地味に捻れていったのでしょうね、

私は自分の感情の出し方が苦手になっていました。
私は中学で「いじめ」ともとれる「いじり」を受けていました。
つまりいじられキャラでした。でもそれは楽しいものではなかったです。

そしてある日私をいじってくる友人の1人に、「嫌なら嫌って言えばいいじゃん」と言われました。
この言葉は今でも忘れられません。
私は何も言えずその言葉に対して笑って誤魔化すことしかできませんでした。
いつからか私は家でのピエロ癖が、癖じゃなくなってしまったのでした。

私が高校生になり、母と父は離婚をしました。
住居を移し、兄は大学を辞め、急にヒッチハイクの旅に出たかと思えば、服屋で働くようになりました。

私は高校でもずっとピエロのまま、空気を読んでわざとバカな私を演じてました。
いつからかそれが私の戦略になってました。
心は苦しかったですが、それよりもピエロの化粧を取ることの方が怖かったのかもしれません。

この頃になると、本質的にありのままの自分に自信が持てなくなっていたのでしょうね。

大学に入ったわたしは、韓国留学を目標に、大学の授業に全身全霊で取り組んでいました。

その頃からですね、兄は服屋を辞め、ニートになりました。
その後、兄は、土木系の体力を使う仕事をする様になりました。

きっとそんな自分に満足できなくて鬱憤が溜まる日々だったんでしょうね。
そして目標に向かって大学に通う私が羨ましかったんでしょうね。

また私への嫌がらせがひどくなりました
なんと表現すればいいのか、分かりませんが、地味な嫌がらせや、いやーな揚げ足を取るような発言をしてくるようになったのです。

また、多感な時期の私に敢えて「デブ」「大根足」と、私の心にクリティカルヒットをするような発言をするようになったのです。

そして母は、兄のその言葉に同意して私を嘲笑ったり、
「そんなことないよ。」と言いながら、顔では私をバカにしたような、兄に同意するような笑みを浮かべるようになりました。

母自身が私に対して面と向かって「足が太い」と言ってくることも増えるようになりました。

運動部を辞めてしばらく時間が経ち、身体が女性的になればなるほど身体が丸みを帯びるのは半ば仕方のないことなのです。

ですが母や兄は、運動部時代の私を基準とし、その体型を私に求めてきました。
ありのままの私の体型は認めてくれませんでした。

自分でもわかっていました。自分が太ったことくらい。足が太くなったことくらい。自分が痛いほど分かっていて、だからこそ一番触れられたくないことでした。

なのに、いくら辞めてと言っても兄も母もその態度を辞めませんでした。

多感な時期の女の子に一番言っちゃダメな言葉を母も兄も私に投げつけてきました。
せめて母には理解してほしかったです。
ですが母には私の言葉が通じませんでした。
母に「足太い」を言われたら、私は「ソレ言わないで」と言いました。
でも母は「ソレってなに?」と言ってきました。
「足が太いとか言わないで」って私に何度も何度も言わせようとしてきました。
だけど私にとっては自分で「足が太いって言わないで」って言うことが一番屈辱でした。分かる人には分かるでしょう。

その言葉や態度で兄や母に傷つけられるたびに、私は部屋に行き、毎回2人にバレないように1人で涙を流していました。

その時期からですね。「病む」ようになったのは。
いつからか「死にたい」がデフォになりました。

大学も大学で私にとっては生半可なものではなく、頑張ろうとしても家で酷い言葉に晒されて、私の心は生傷だらけでした。
誰にも相談できませんでした。
なぜならわたしはピエロだからです。

大学での勉強を頑張り、なんとか交換留学の切符を掴みました。
ですがコロナで留学も行けなくなり、傷心でした。
私の2年間の努力はなんだったんだろうか。

そんな傷心のわたしにも兄は容赦ありませんでした
というか、兄は、私を兄自身の鬱憤の捌け口にしているということすら、自覚していませんでした。

私は兄の嫌がらせによって、言われたくない言葉ややられたくない態度に、日常的に晒され続けました。
やめてと訴えるのにも疲れました。

許すこと、兄の弱みや甘えを甘んじて受け入れてあげることにも疲れました。

わたしは自分のことでいっぱいいっぱいなのに、他人の弱さまで受け入れられませんでした。
というか兄の弱さを受け入れる義理もありませんでした。

なのでわたしは、自分の弱みを晒し上げながら、兄にもう嫌がらせはやめてほしいと
涙ながらに、鼻水を垂らしながらぐしゃぐしゃの顔で訴えました。
何一つとして兄に伝わりませんでした。

私の言葉が通じませんでした。
わたしは絶望しました。
それでも、母に兄弟なんだから兄と仲良くして欲しいと言われ、そのまま日常を続けました。

だけどある時わたしは自分がとても怖くなりました。
私は本気で兄を殺そうと思いました。
歯を食いしばり、拳に爪をたて、なんとか理性で兄を殺すことを踏みとどまった。
そんな自分が怖くなりました。
もう限界でした。

わたしは兄を完全に諦め、兄との会話を一切辞めました。
最初のうちは、兄は私が無視しても私に話しかけてきました。
貢ぎ物をしてきたりしました。
貢げば許されるといった浅はかな考えをしていたようです。

でもそれは自分の罪や、自分の行動が、どれだけわたしを傷付けたのかを理解してないが故にできることだと思いますが笑笑

しばらく経つと、話しかけてこなくなりました

わかっています。私が酷いことをしていることくらい。
同じ屋根の下にいながら、コミュニケーションを一切絶するなんてひどいやつです。分かってます。
でもいくら言葉で伝えても伝わらない人に、どうすれば良いのですか。
私が傷つき続ければ良いのですか。
私が表面で傷ついてないふりしながらも、その実心に生傷を作り続ければ良いのですか。
わたしはそんなに優しくないです。
器も大きくないです。
兄を包み込む気もないです。

本当は、兄を意図的に無視し続ける行為自体私の心が痛いです。
だけど、バカなわたしにはそれ以外の最良の策が見当たらないのです。
そんな事情を知っている母に、今でも兄と仲良くしてほしいと言われます。
私に頼むのじゃなく兄を注意すべきだし、兄に謝れと言うべきだとわたしは思うのですが、なぜか私に色々言ってきます。
私に言いやすいからなんでしょうね。
その度に私は罪悪感に苛まれます。

そして最近、私は母が酷く疎ましく思うのです。
今年22歳になる私に、門限を17時までと設定してきます。
冗談だとは理解していますが、そんな発言をすること自体おかしいんじゃないかと思うのです。

私の帰りが夜遅くなり、連絡をし忘れていると警察を呼ぼうとするほどです。
そして今だに私の温もりを異様なほど求めてくるのです。

毎日毎日何度も何度も一緒に寝ようと言ってくるのです。

その言葉に反抗した物言いをすると、「私の機嫌が悪いのだ」と母は理解します。
さも私がおかしいかのように母は理解するのです。

そして毎日毎日何度も何度も「まことちゃんかわいい」とまるでペットに言うかのようなテンションで発言するのです。

何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も

最近わたしはその発言を聞くたびに虫唾が走るのです。
明らかに異様なほどわたしを支配したがる、手中に入れたがる、
手中に入らない私がおかしいかのような発言をしてくる。

私はどうすれば良いのでしょうか。
誰か私の心の叫びを聞いてください。
そして助けてください。

こうして今までで出来上がったわたしは、
とても生きづらさを感じ、悪い意味で完璧主義で、自分に自信がなく、頑張っても頑張っても自分を認められず、すぐに落ち込み、他人の目を気にし、だからといって人は信用できず、心のうちを安心して人に見せることもできず、どこか人と近くなることを避け、反面で温もりや抱擁を求め、だけど自分のウチを晒すことは1番避けたいことなので、恋愛をすることはとても怖く、1人で孤独や不安を抱え込み、人に弱みを見せられず助けて欲しい時に助けを求められない
とても複雑な存在になってしまったのです。

家を出たところで、私の過去によって形成された捻くれた性格が付き纏ってくる。

わたしはこれからどうすれば良いのでしょうか。
助けて。



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