古典芸能プロジェクト「不易流行」を立ち上げた経緯と、創設メンバーの紹介

本日は不易流行ができた経緯と創設メンバーのお話をします。

その前に、まずは自己紹介を致します。
私は父が花柳流の日本舞踊家ということもあり、幼少時は踊りの会やオラトリオ「ヤマトタケル」などに出させていただく機会がございました。
どれも本当に素晴らしい経験で踊りも舞台も好きではあったのですが、一方で野球が好きで中学進学以降は徐々に所謂芸事からは距離を置くようになりました。
今思えば、少年期にありがちな親とは違う世界でのアイデンティティの確立を目指していたのかもしれません。
しかし、野球のおかげで受験勉強も乗り越えられましたし、野球をきっかけにたくさんの方に可愛がっていただく機会を得ました。
大学時代は留学生との交流プログラムを企画するサークルに在籍しつつ(とは言ってもヘラヘラと遊んでいただけですが…)、アルバイトやゼミなどモラトリアム一直線のありきたりな学生生活を送っておりました。(きっちりと留年もしました)
卒業後は広告会社へ就職し、「全く縁の無いところでスタートしたい!」という希望どおり関西支社へ初任配属されました。
この大阪生活が本当に楽しく、また東京本社へ異動してからも恵まれた環境で広告主企業やメディア会社との仕事に就いておりました。(古巣への愛は語ればキリが無いので、機会があれば追って書き記します)
母が病気になったことで退職し、家族と過ごす時間を作りながら自分の差配で仕事を作っていくことを選択しました。
日本独特の文化や芸能に仕事として関われるようになれたら良いなと漠然と思っておりましたが、まさかこんなに早く具現化するなどこの時は思っていなかった、というのが正直なところです。

続いては、その機会を一緒に作ってくれた不易流行のメンバー(市川弘太郎さん、山本健太さん、木原翔平さん)との話を致します。
以降、不易流行メンバーについての話は身内ということで敬称は外して記載します。
普段は「弘太郎くん」「けんた」「木原さん」と呼んでいます。

★市川弘太郎との関わり
実は弘太郎とは子供の頃からの縁で、そのきっかけは父のリサイタルか何かの舞台で「鏡獅子」の胡蝶を一緒にやらせて貰ったことらしいです。(当時弘太郎少年9歳、私7歳だったらしいです)
らしい、というのは当時の記憶が私にはあまり無く、父や弘太郎から聞いた話で記憶しているように思われるからです。
弘太郎はよく覚えていて、本当に根っからの踊り好き、芝居好きなんだなぁと感じます。
しかしながら先述どおり、私は踊りや舞台の世界から離れたので、弘太郎とも20年以上特に連絡を取ることもありませんでした。
たまたま2019年3月に開催された父の五十周年舞踊会を観に来てくれて、それがきっかけでまた話すようになりました。
後日「自主公演をやろうと思っているから何か一緒にできない?」と声をかけてくれたので、お茶をしながらキックオフMTGのような形で話していましたが、まさかこのような災禍が訪れるとは思ってもいませんでした。
2020年舞台公演が止まり、長い期間出演が無かった弘太郎に「来年の自主公演もできるかわからないなかではあるけど、何かしら動こう」と持ちかけていましたが、そのときの弘太郎は「生きるために生きる」と言ってひたすらじっとしているスタンスでした。
夏になって歌舞伎座は開いたけれども、弘太郎含め多くの役者さんが出番を持てないという状況が続いているなかで「何かやろうか。お世話になってきた一門のみんなと作れる何かを。」と動き出したことを昨日のように覚えています。
この弘太郎の心境の変化をきっかけに「何をやるか?」「誰の力が必要か?」などを考えるようになり、それが不易流行を立ち上げる萌芽となりました。
このタイミング以降「狂言×歌舞伎 オンライン公演」が出来るまでの過程は日を改めて書き記すことにします。

★株式会社BARIKI・山本健太との関わり
山本とは私が広告会社に勤務している時分に取引先(放送局)として知り合いました。
とは言っても、直接担当として仕事をしていたわけでは無く、ほぼプライベートでの遊び仲間でした。
そんな間柄にも関わらず、イベントの現場で自分の案件以外のことを積極的にやってくれたり、BARIKIへ転職したとわざわざ東京まで挨拶に来てくれたりと律儀で情の深い信頼できる存在でした。
ですので、不易流行(当時はネーミングも決まっていませんでした)を立ち上げようとなった時には真っ先に一緒にやって欲しいと思いました。
放送局での経験、音楽事務所での経験はもちろん、何よりも手がけるコンテンツへの愛が深い人間であるので、山本の力が絶対に必要だと思い声をかけました。
コロナ禍にあって自身の仕事も大変なのに、先行き不透明な私の呼びかけに快く応じ、すぐに参考の為と大阪から「八月花形歌舞伎(2020年8月歌舞伎座)」を観に東京まで駆けつけてくれて、すぐさま具体的な話をするに至りました。
山本が「狂言×歌舞伎 オンライン公演」の撮影編集班の手配・管理進行を全てしてくれましたし、「遅ればせながら、市川弘太郎の会」でのクラウドファンディング企画を取り仕切ってくれました。
敢えて役割を名づけるとしたら、運営面でのディレクターとして機能しています。
様々な案件で日々追われているにも関わらず、どんなときも不易流行には不可欠な存在として関与しています。
果たしていつ休んでいるのだろうかと思うほど、精力的に取り組む姿勢にはいつも刺激を受けています。

★株式会社まめ・木原翔平との関わり
木原とは、山本を通じて「狂言×歌舞伎 オンライン公演」のホームページ制作やPR業務を依頼したところからの関係で、以降は不易流行の全ての取り組みにおいてクリエイティブに関してのディレクターを務めてくれています。
チラシやパンフレットなどのデザイン、ホームページの制作、グッズ製作と多岐にわたってお客様が接する制作物の全てを取り仕切っております。
「狂言×歌舞伎 オンライン公演」が終わった際にどうしてもコアメンバー入りして欲しかった理由は、アイデアの引き出しの多さや素早さもさることながら、それまで接したことの無い芸能の分野にも関わらず主体的に調べた上で、あらゆる手法を提示してくれたことに拠ります。
山本とも共通しますが、決して「請け仕事」としてでは無く「自分が関わるのであればこれは譲れない!」という情熱が端々に感じられて、良い意味で油断のならない相手として議論してくれることは本当に心強く嬉しい限りです。
特に「遅ればせながら、市川弘太郎の会」のホームページ(https://dream.fueki-ryuko.org/)やパンフレット(https://fuekiryuko.stores.jp/items/6104d0838a4572031622b906)はお客様だけで無く歌舞伎界からも好評をいただき、不易流行が展開する施策のクオリティを高いものにしてくれております。
一方で、自身も経営者であることから運営面においても論理的な意見を提示し、数年先まで見据えた視座で不易流行を捉えております。
チームとして地に足のついた堅実な運びとなるように、冷静な分析を与えてくれる存在です。
朝型の生活スタイルであり深夜は苦手なようなので、夜にzoomで集まって会議せざるを得ない時にも木原のおかげで効率的なミーティングになるような進行になります。
弘太郎や私はつい長い話をしてしまうので…


長くなりましたが、お付き合いくださり、ありがとうございました。

次回以降は数回に分けて「狂言×歌舞伎 オンライン公演」が出来るまでを振り返りたいと思います。

私は、このnoteを通じて、
・不易流行というプロジェクトを好きになって欲しい
・不易流行で出来ることを増やしたい
・お客様と共に作る/コミュニケーションするなかで↑の2つを進めたい
・古典芸能の企画運営を行う人が増えて欲しい
と願っています。
ですので、可能な限り持ちうるものは開示しようと思っております。

お気づきのことや、リクエストなどございましたら、いつでも↓までご連絡くださいませ。
不易流行実行委員会事務局(info@fueki-ryuko.org)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?