「狂言×歌舞伎 オンライン公演」が出来るまで②

今回は、
・何故狂言との合同作品になったのか
・どのようなスケジュールで準備や制作を行ったのか
をお話ししたいと思います。

発端は、大蔵流狂言師の故・善竹富太郎さんと弘太郎との会話にあります。

弘太郎が子供の頃に善竹十郎先生のところでお稽古をしていたことから、大人になっても富太郎さんと交流があり「いつかこんなことをやりたいね」と話していたようです。
その「こんなこと」とは、狂言と歌舞伎の同時上演です。
ご存知の方も多いことと思いますが、歌舞伎の演目のなかには狂言から移入されたものがございます。
歌舞伎より遥か古くに起源を持ち、長い歳月をかけて発展を遂げてきた狂言ですが、馴染みのない方から「あの歌舞伎みたいなものでしょ?」と言われたことが富太郎さんの脳裏に焼き付いていたようです。
そこで行き着いたのが、何が違うのかを説明して理解してもらうのではなく、実際に双方を観てそれぞれの持つ芸の心を感じ取ってもらいたいということだったそうです。
弘太郎も学生時代に、歌舞伎について「イヨーッていうやつでしょ?」と言われたという話を折りに触れてしておりますが、どちらも一般的には「どこか遠い世界の格式高く難しい芸能」と思われていることに対して、その世界に愛を持つ当人として放って置けない想いを抱いていたのだと推察されます。
富太郎さんが2020年4月30日に40歳の若さでお亡くなりになったことはとても悲しく、ご遺族のお気持ちを考えると筆舌に尽くし難いものであり、弘太郎にとっても哀惜の念に堪えないことでした。
コロナ禍での自身の境遇もあり、「いつかやろうと思っていることが、いつまでもできないものになってしまう」可能性を感じた弘太郎にとって、「今こそ事を起こす時期なのかもしれない」と思うように至ったのは8月に入ってからのことです。
この時はあくまでも構想段階であり、実現できるかは全く見通せないなかではありましたが、本当にやりたいものを考えようと議論を進めておりました。
暫くして弘太郎が出した企画が、2020年12月に配信した「狂言×歌舞伎 オンライン公演」そのものでした。
当初から、狂言と歌舞伎で二演目ずつ上演する構想でした。
富太郎さんとのお話どおり同一演目を狂言と歌舞伎で観せたい、そして、当時出演機会が無かった同門の役者と一緒にこの配信公演を創りたいという願いが込められていました。

すぐさま善竹大二郎さんへご相談の機会を頂戴し、zoomでのご提案を快諾いただきました。
実のところ、弘太郎も私も、断られる可能性の方が高いと思っておりました。
実施するのであれば2020年のうちでないと、これまでと同じ「いつか」になってしまうように感じており、大二郎さんにお話しして年内はできないとなれば諦めて違う形を模索しようと話しておりました。

8月中旬に大二郎さんへお話させていただく2週間前に、弘太郎の発案を聞くとすぐさま撮影候補地探しを行いました。
弘太郎とzoomで屋外にある能舞台を探していたところ、素晴らしい舞台が山梨県北杜市の身曾岐神社にあることを知りました。
その勢いで身曾岐神社の問い合わせフォームから連絡したところ、早々にお返事があり、9月上旬に下見ができるとのことでした。
そこから、大二郎さんのご出演を承諾いただき、演奏家の方々への依頼、音源の収録スタジオ手配など、狂言と歌舞伎で同一演目を実施したいと弘太郎の心が向いてからの数週間は怒涛のごとく毎日が過ぎて行きました。

急に動き出したのですが、不思議なことにストレスはあまり感じていなかったように記憶しています。
それは山本が実施に向けて必要な項目を整理し、迅速に各所へ話してくれたからです。
私は広告会社勤務時代の癖が働き、収支設計のことを考える方にシフトしました。
当然ながら配信であっても制作費はかかります。
むしろ、このような状況下ですから、些少であってもご協力いただく方々にはちゃんとお支払いできるようにしなくてはならないと強く思っておりました。
配信チケット売上の見当がつかないなかで、何か手立ては無いかと必死になって調べたことを鮮明に覚えています。
リスクは全て排除しきれないまでも、補助金を申請することで乗り切れる可能性を感じていました。
とはいえ、弘太郎と山本は不安に思っていたと思います。
その意味でかなりヒリヒリとした日々ではありましたが、私は根拠なく「絶対大丈夫」と思っておりました。
何よりもこの瞬間にプロジェクトを動かしたいという意欲に、三者とも満ち溢れておりました。
収支設計を預けてくれた二人には今でも感謝しています。


「狂言×歌舞伎 オンライン公演」準備の日々

8月初頭
  弘太郎から「狂言と歌舞伎で宗論をやりたい」と発案
  収支設計案作成
  補助金申請書類確認
  撮影費やホームページなど各種制作費見積り
  各種制作物構成案作成

8月19日
  弘太郎から「不易流行という四字熟語が好き」というLINEが入る

8月20日
  弘太郎、山本、私の3人で協議し、公演タイトルを「不易流行」に決定

8月下旬
  善竹大二郎さんよりご出演の許諾を頂戴する
  演奏家を含む出演者への出演依頼

9月上旬
  身曾岐神社にてロケハン・打合せ実施
  各自で稽古開始

9月中旬
  弘太郎と三四助さんが公園にて「宗論」の初稽古

9月下旬
  都内スタジオにて演奏録音

10月中旬
  PCR検査実施(身曾岐神社での収録に参加する出演者・スタッフ全員)
  映像収録

11月下旬
  情報解禁(各種制作物の公開)

12月上旬
  配信映像データ完成、入稿

12月13日〜20日
  Streaming+にて配信


次回は
・収録日直前の葛藤
・収録現場でのアクシデント
についてお話しします。

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