自由意志をめぐる葛藤1:物理法則との折り合いつくのか編【哲学】
自由意志をどう考えるべきか悩み続けてきた。結論は見いだしていないのだが、何をどう考えてきたのかをいくつかの記事に分けて記録しておく。
物理法則と自由意志
中学時代。ずっと気がかりなことがあった。
● 物理法則というものがあるらしく、それが世界の根本法則らしい。
● 物理法則に反する事象は起きないようだ。
● 物質は物理法則に従って運動している。
ここまでは大人たちもみんな同意しているようにみえた。ただ子どもながらこの時点で不穏さを感じていた。次の主張も正しい気がしていたから。
● 脳は物質である。
● 臓器も手足も遺伝子も物質である。
● 人間は物質である。
だったら、次の帰結も自然にでてくるんじゃなかろうか。
● 脳、臓器、手足、遺伝子はみな物理法則に従って運動している。
● というか人間はみな、物理法則に従って運動している。
これって自由意志という観念と両立するの? と疑問だった。世界のどこに自由意志が存在する余地があるんだろう。
あるのは物理法則、以上。……ではないのか?
物理法則と違って自由意志には存在を示す証拠がないようにみえる。
中学時代にここまではっきり言語化していたわけではないが、おおよそこういうことを思っていたのは覚えている。
決定論的でなくとも……
当初は、物理法則の決定論的な側面が自由意志と対立しているのだと思っていた。しかし考えてみると、物理法則が決定論的でなかったとしても自由意志が導けるとは限らない。
確かに物理法則が決定論的ならば、私の人生の最初から最後までのあり方はただ一通りに定まっているので、自由意志の余地はなさそうだ。
しかし物理法則が非決定論的であったとしてもだから何だというのか。私の人生の最初から最後までのあり方は無数のパターンがありえるとしよう。物理法則のランダム性によってそのうちの一つが実現する。それで終わりだ。どこに自由意志の余地があるのか?
また「法則」と称するに値するような秩序がいっさいなかったとしたら、自由もなにもないだろう。人間どころか、星も宇宙も形成されない。完全な非決定論でも困るのだ。
物理法則が決定論的であるのか、非決定論的であるのかが本質なのではなく、そもそも自由意志が何なのか不明であることが問題の根源になっているようにも思うが、そうなのかも含めて謎だ。
スピノザの石
あると思っていたものが実はなかったということがある。自由意志だってあるように思えるが実はないのかもしれない。
哲学者スピノザが、シンプルかつ本質的なことを書いている。投げられた石に心があるとしよう。このとき石は自分の意志で動いていると感じている。だがこれは単なる勘違いだ。本当は物理法則に従っているだけで、そこに自由意志の余地はない。
しかし人間も同じではないだろうか。人間は自分に意志があると勘違いしているが、本当は外部の原因によって動かされているだけというわけだ。
なるほどなぁと感心してしまう(が、この感心もまた自由なものではないのだろうか……)。
ただし物理法則と自由意志の関係についてはさまざまな考察があり、哲学的な決着はついていないようにみえる。
あまりにも混沌としているようだ。以下のどの立場もありえる。
● 決定論が正しく、自由意志は存在する
● 決定論が正しく、自由意志は存在しない
● 非決定論が正しく、自由意志が存在する
● 非決定論が正しく、自由意志は存在しない
もっと基本的なところでの対立もある。
● 決定論・非決定論の問題と自由意志の問題は無関係である
● 決定論・非決定論の問題と自由意志の問題は関係がある
うーむ。むずかしい。
あとは物理法則の全貌も明らかになっているわけではないということにも留意すべきなのだろう。
なお冒頭で述べた通り、結論はない。悩ましいなぁという話である。
【参考資料】
● 畠中尚志訳『スピノザ 往復書簡集』岩波文庫 1958年
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